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    <title>wakei blog</title>
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    <pubDate>Thu, 01 May 2025 11:38:43 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>東京都交響楽団演奏会の「現代音楽」感想</title>
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      <pubDate>Thu, 01 May 2025 11:38:10 +0900</pubDate>
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      <description>　昨日、東京都交響楽団の定期演奏会Ａにいってきた。プログラムはすべて、いわゆる現代音楽に属するもので、好きな人にとってはたまらない演目だが、すきではない者にとっては、二度と聴きたくないようなものだった。残念ながら私は後者のほうだ。曲目は&#13;&lt;br&gt;
　トリスタン・ミュライユの「ゴンドワナ」&#13;&lt;br&gt;
　夏田昌和の「オーケストラのための＜重力波＞&#13;&lt;br&gt;
　黛敏郎の「涅槃交響曲」&#13;&lt;br&gt;
　私はすべて初めて聴く曲だった。何故、感想がはじめからわかっている演奏会に行ったかというと、2025年度の定期会員になったからである。前回は、アルバン・ベルクとブラームスだったし、今後もいろいろあるのだが、定期会員だから、仕方なくというほどでもないが、たまにはいい経験かもしれないと思っていたことも間違いない。&#13;&lt;br&gt;
　ゴンドワナとオーケストラのための重力波は、1980年、2004年というように、本当に新しい曲だが、「現代音楽」そのものという感じで、すこしも「音楽」を、私は感じなかった。このような音楽を聴くと必ず思い出すのは、ペッカ・サロネンの言葉だ。彼は、作曲家でもある指揮者だから、新しい音楽を積極的にとりあげていたのだが、あるとき、カフェにはいったときに、若い作曲家たちが、さかんに乱数表を使って作業をしていたという。そして、乱数表で作曲をしていることがわかって、その後、少なくともそうした傾向の音楽は、決して演奏しないという決意をしたというのだ。つまり音列を乱数表で決めていたということになる。&#13;&lt;br&gt;
　これは、私がいつも疑問に思うことを裏付けるような話でもあった。つまり、こうした音楽を作曲する人は、その音楽が、インスピレーションとして頭のなかに浮かんできたものなのだろうか、ということだ。&#13;&lt;br&gt;
　「オーケストラのための重力波」は、たしかに、宇宙空間や重力を意識させるような響きだったが、これは、そういう音はどんなものなのか、という問題意識が最初にあって、それをさまざまな音響実験をした結果としてまとめられたという想像をしてしまうのだ。聞かされているのは、心のなかにわき出た「音楽」ではなく、「音響」で、音響実験につきあわされているような感覚だった。&#13;&lt;br&gt;
　涅槃交響曲は、多少古いし、合唱が入ったためか、音響実験的要素は稀薄だったが、それでも、能のような（お経らしいが）声に大管弦楽があわさったような感じで、やはり、「音楽」を感じることは、私にはできなかった。&#13;&lt;br&gt;
　いずれも、特に夏田・黛の演奏には大拍手だったが、（夏田氏自身が舞台にあがって礼をしていた）私には、演奏者にたいする拍手のように感じた。あのような音楽は、演奏がほんとうに難しいと思うので、東京都交響楽団のひとたちには、拍手したい想いだった。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>音楽</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>トランプの教育省廃止政策</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2025/03/22/9762786</link>
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      <pubDate>Sat, 22 Mar 2025 14:11:10 +0900</pubDate>
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      <description>　トランプ大統領が、教育省廃止にむけた大統領令に署名したということが、大きな話題になっている。あまり知られていないことだが、アメリカでは、1979年に連邦政府の教育省が設置されるまで、日本の文部科学省にあたる省庁は存在しなかった。しかし、州政府の中には、文部科学省にあたる部局が存在している。つまり、アメリカでは、憲法によって、教育は州の権限であることが、銘記されているのである。だから、連邦政府には、文部行政をおこなう必要がなかったといえる。これは、アメリカのような広大な面積をもつ国では、教育に対する要求も多様であるだろうし、学校教育は地域が主体となって運営することが適切である、という考えに基づいていたのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかし、教育にはお金がかかる。教師を養成・雇用し、学校建築をたて、さまざまな教具を用意し、子どもを就学させるためには、莫大な費用がかかる。地域によっては、そうした財政的負担に堪えられないところがある。それは、教育の機会均等という民主主義の原則に反することになるから、上部機関が、財政的補助をしなければならない。そうして、最終的には、連邦政府が財政的な補助をもするようになっていた。&#13;&lt;br&gt;
　また、別の国家的養成として、農業が主体であった時期でも、農業の知識の充分でない農民もいたであろうし、また、工業が発達してくると、技術教育も必要となる。そうした産業にかかわる教育施設を設置し、産業教育を実施させるために、連邦政府が積極的に活動することもあった。補助金を梃子として、産業教育を活性化させるという方法をとったわけである。&#13;&lt;br&gt;
　このようにみれば、アメリカの教育の展開にとって、連邦政府は、教育省がない時期にあっても、州に対して教育費の補助をおこなっていたのである。そして、その多くが、独自の教育政策を基礎にしていた。そうした展開の延長上に、連邦政府にも、常置の教育行政機関があったほうがいいではないか、という議論がでてくるのはごく自然な流れだろう。そうして、民主党の大統領だったカーターが教育省を設置することになったのである。ただし、教育が州の権限であることは、憲法上明確であるから、教育省の役割は、教育財政を主体とした「補助」的役割であることは、変わりがなかった。&#13;&lt;br&gt;
　トランプのような「余計なお金をつかいたくない」大統領にとっては、財政補助が主要な任務であるような官庁は、まず最初に廃止したいのであろう。教育省に教育政策上のより強力で具体的な権限があるならば、そして、その権限を使ってトランプがやりたいことがあるのならば、おそらく、廃止という方向性はとらないに違いない。そういう意味で、今回の教育省廃止案は、いかにもトランプ的であるともいえる。ただ、教育の機会均等をより高いレベルで実施していくためには、中央政府による補助が必要であるということは、歴史が示してきたところである。結局は、この原則を大切なものと考えるかどうかではないだろうか。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>教育学</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>高野山訪問</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2025/03/15/9761198</link>
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      <pubDate>Sat, 15 Mar 2025 14:41:51 +0900</pubDate>
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      <description>　すっかり間があいてしまったが、この間旅行をしていた。いつものように、車による長距離旅行だったが、昨日無事帰宅した。今回の旅行の主な目的は、九州での親族の集りに妻が出席することと、これまで行ったことがなかった和歌山にいくことであった。そして、和歌山にいくからには、高野山にいってみようということだったが、それは、以下のような高野山への「関心」があったからである。&#13;&lt;br&gt;
　中学の歴史で習うことだが、平安時代に最澄と空海が、それぞれ天台宗の比叡山延暦寺、真言宗高野山金剛峯寺を建立して、その後の日本の二大寺院として今日に到っているのだが、私にとっては、このふたつは、かなり異なる印象をもっていた。というのは、比叡山は、僧兵が暴れたとか、信長に焼き討ちにあったというような武力的な面もあるが、なんといっても、日本の歴史に残る宗教家を輩出したという点で際立っている。源信、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮など、高校の教科書には必ず載っているような人物であり、彼等は、みな比叡山で学んでいるのである。一度比叡山を訪れたことがあるが、法然がこもって修行した庵などのように、彼等の庵が名前付きで存在していた。もちろん、本当のものではないだろうが、比叡山といえば、多くの人にとっては、彼等の学んだ場であると認識されているだろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかし、高野山のほうには、そうした有力な宗教家、宗教上の業績をもたらした人物が見当たらないのである。仏教史に詳しいわけではないので、断定はできないが、少なくとも、高校の教科書に宗教家として歴史に名を残した人物は、なかったように思われる。wikipediaの説明をみても、比叡山では、著名宗教家が列挙されており、そうした項目が立てられているが、高野山のほうには、宗教で著名な業績を遺した人物としては、誰も記述されていない。何度も焼失しているので、寺の再建に尽くした僧侶などはでてくるが、寺社としての発展に寄与した業績に過ぎない。&#13;&lt;br&gt;
　この相異がなぜ生じたのか、それを肌で感じ取ってみたいというのが、今回の訪問の目的だった。時間もかぎられており、全貌をみるのとは、ほど遠いものだったが、逆に重点的に見た場所の影響もあって、この疑問がかなり明確に解けた気がしたのである。&#13;&lt;br&gt;
　中心的にみたところが、「奥の院」といわれているところで、２キロにわたる参道をともなっている、空海の墓所である。そして、この２キロの参道には、墓石がびっしりと両側に建てられている。そして、驚いたことに、現代の有名な大企業の名前の大きな墓石がたくさんあるし、また、東日本大震災の犠牲者供養等々があるかと思えば、著名な戦国大名や歴史的人物の墓石もみられる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　実は、最初奥の院にいく方向をまちがえて逆に行ってしまったので、長い参道のほとんどを歩くことになったのだが、そのために、この厖大な墓石群を確認することができたのだった。最初から正しい方向で行けば、これほどの墓石が集合していることは実感できなかった。そして、感じたのが、「商業主義」ともいうべきものだった。高野山の歴史をみると、建物の焼失などが頻繁に起こっており、その再建はかなり困難であったようだ。そこで、墓石を「誘致」することで、資金を集め、焼失寺院の再建をはかったのではないかと感じたのである。もちろん、有名な日本の代表的な寺院だから、そこに墓があるということは、名誉なことであるという感覚が、著名人たちにもあったのだろう。そのような双方の思惑の一致が、こうした大規模な墓石群を生みだしたように思われた。&#13;&lt;br&gt;
　もうひとつ感じたのは、比叡山は、かなり上まで車で昇って見学したのだが、通常の家などは、ほとんどなかったように記憶している。つまり、一帯が寺院として機能していた。ところが、高野山は、当然車で相当な距離を昇って行ったところにあるのだが、寺院がある一帯は、かなり町として開けており、一般家屋や商業施設なども普通にある。山の上にあるにもかかわらず、門前町という雰囲気そのものだった。比叡山は、閉鎖的な宗教空間に閉じこもって、ひたすら思索・修行に励むという雰囲気を感じたのだが、高野山では、宗教施設でありながら、世俗的な経済のなかで、一般的な生活が寺院においても営まれているという雰囲気を感じた。もちろん、これは、私自身のうけた「印象」であるに過ぎないのだが、比叡山と高野山の雰囲気が相当程度異なることは事実であろう。&#13;&lt;br&gt;
　もっとも比叡山から宗教改革家が輩出したといっても、平安時代末期から鎌倉時代までで、それ以降はほとんど、そうした改革家はみられない。これは、寺院勢力が、封建領主に屈伏していく流れがあったからだろうが、それでも、一時期みられた比叡山修行僧の抵抗精神のようなものが、なぜ、あの時期に活発で、なぜ以後すたれてしまったのかは、別の問題としてあるだろう。&#13;&lt;br&gt;
　宗教史に詳しいわけではないのだが、五十嵐著作集の作業でも必要になってきているので、今後研究していきたい。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>文化・生活</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>Bla;ck Box d;iaries 問題を考える</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2025/02/22/9756569</link>
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      <pubDate>Sat, 22 Feb 2025 22:03:53 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-02-22T22:04:35+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　伊藤詩織氏が自らの性被害の経験を映画として制作し、日本以外の数十カ国で上映されているにもかかわらず、日本での上映が困難となっていることについての議論がなされている。私自身は、この映画をみていないし、また、詳細を追いかけているわけでもないが、極めて重大な論点があるので、考えてみたいとおもった。&#13;&lt;br&gt;
　事態がジャーナリスティックに大きな話題となったのは、以前から問題になっていた、この映画における「情報許諾」について、許諾を受けていないという批判記事を書いた望月氏を、伊藤氏が名誉毀損で提訴すると公表したことがきっかけとなったように、私には思われる。私自身が、それ以前の状況について、ほとんど知らなかったということもあるかもしれない。&#13;&lt;br&gt;
　そして、伊藤氏の性加害訴訟で弁護団を組んでいた弁護士たちが、この映画の許諾問題で、伊藤氏と袂を分かち、批判の側になっており、記者会見を開いた。時間差で伊藤氏側も同じ場所で記者会見を開くはずだったが、体調不良を理由に欠席し、伊藤氏側に不利な状況になっているように感じる。&#13;&lt;br&gt;
　しかし、双方の主張をみなければわかならないし、また、この元になった事件をどのように解釈するかで、この件の考え方に相異がでるようにも思った。&#13;&lt;br&gt;
　まず確認しておくべきは、情報提供者への許諾は、主に３つの内容があるようだ。&#13;&lt;br&gt;
・伊藤氏がホテルに連れて行かれる防犯映像を、ホテルが裁判のみ使用という理由で提供したものを、映画に組みこんでいる。&#13;&lt;br&gt;
・伊藤氏と加害者が乗ったタクシーの運転手からの提供データ（ドライブレコーダーだろう）&#13;&lt;br&gt;
・捜査状況を説明した警察との対話を録音したデータ（伊藤氏は、事件後、自分の訴えが認められないことのないように、常に録音・録画をしていたという）&#13;&lt;br&gt;
　この許諾及び使用状況については、双方に食い違いがある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さて、本来の事件の本質は何かという点だが、これは、単なる伊藤氏がうけた性被害事件ではなく、加害者が安倍晋三首相（当時）の熱烈な支持者であったために、当時の警察が加害者を逮捕寸前のところで、ある警視庁幹部が逮捕をやめさせ、事件のもみ消しをはかったという点がある。&#13;&lt;br&gt;
　伊藤氏を批判する側は、この事件を性被害事件として捉え、訴訟で伊藤氏の主張が認められたのだから、それを更に、許諾のないデータを使用してまで、映画を作成する必要はないではないか、という趣旨が強く感じられる。しかし、警察のもみ消し工作を重大視する立場からみると、裁判で認められたから充分であるとはとうていいえない。&#13;&lt;br&gt;
　ホテル提供の映像は、そういう意味では、これほど明確な証拠があるにもかかわらず、警察はもみ消しをはかったのだ、という、かなり決定的な証拠を提示することになり、おそらく伊藤氏側としては、絶対に不可欠な要素だったのだと考えられる。&#13;&lt;br&gt;
　それに対して、ホテル側や元弁護団は、こうした公表をされてしまうと、今後、犯人を特定するような映像があったとしても、提供できなくなる、と主張しているが、それはどうなのだろうか。ホテル側には、ホテル側としての立場があるだろうから、最大限、相互の同意をえるべく努力をすべきであったろうが、そもそも、こういう防犯カメラは何のためにあるのか、といえば、当然、犯罪の抑止のためであり、また、実際に犯罪がおこなわれてしまった場合には、犯人逮捕に活用するためである。だから、防犯カメラの映像は、犯罪がおこなわれた場合には、テレビなどでも頻繁に放映されている。つまり、公表される場合があることは、前提となって設置されているのであろう。その場合でも警察のチェックで速やかに犯人が逮捕されるならばよいだろうが、犯人が逃走した場合には、一般市民の協力をえるために、テレビ等で公表されるわけである。&#13;&lt;br&gt;
　したがって、この事例のために、今後防犯カメラ映像の提出が困難になるというのは、あまり納得できる議論ではない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　警官の電話録音については、伊藤氏代理人は、伊藤氏に逮捕状が執行されなかったので諦めるように、という電話だったのであり、もみ消しのためのものだったということで、社会に示すほうが公益であるという主張をしている。この点については、私は納得できる。&#13;&lt;br&gt;
　タクシードライバーについては、とくに伊藤氏代理人はコメントがなく、ホテル映像もふくめて、必要な修正（モザイク等）をしてあるし、また、今後追加的におこなうとしていることにふくまれているのだろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　以上、事件の本質という点から、伊藤氏代理人の主張は、概ね受け入れられるものだったと、私には思われた。&#13;&lt;br&gt;
　ただし、本来、強い味方であるはずの望月氏のような人を提訴するというのは、ジャーナリストとしては、批判されるべきだろう。ジャーナリストは、弁論の場をもっている人たちなのだから、名誉毀損などを根拠とした訴訟は、よほどのことがない限りすべきではない。これは、私の時論でもある。&#13;&lt;br&gt;
　なお伊藤氏代理人の説明はhttps://d4p.world/30737/&#13;&lt;br&gt;
　元弁護団の主張の紹介は、多数の大手メディアにあるので、適宜参照してほしい。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>社会</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>トランプは独裁者になりたいのか</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2025/02/21/9756266</link>
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      <pubDate>Fri, 21 Feb 2025 18:45:14 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-02-21T18:45:52+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　トランプの最近の行動をみていると、独裁者として振る舞いたいという衝動・欲望を感じざるをえない。結局、プーチン・周恩来と３人で世界を支配したいのか、という疑念がどうしても湧いてくる。中国を封じ込めるなどと言っているが、結局のところ、トランプは習近平とは必ずしも犬猿の仲という関係でもない。プーチンとの仲は以前からのものだ。金正恩を「いいやつ」と表現していることでもわかるように、トランプが気に入っている人物は、とにかく独裁者かそれに近い人物ばかりである。安倍晋三もその一人だ。にもかかわらず、ゼレンスキーのことを「独裁者」などと決めつけているのだから、呆れてしまう。&#13;&lt;br&gt;
　それが結果的に、いかに国際情勢をゆがめた感覚で、トランプがみているかは、ウクライナ問題の扱いをみればわかる。とにかく、トランプのウクライナへの扱いは、報道をみている限り、一貫したものがない。そして、それがとんでもない発言になっている。その典型が、「ウクライナで大統領選挙を実施すべきだ」という主張だ。これは、完全にプーチンに、思考回路を支配されているとみるべきだろう。プーチンは、いかにも「大統領の任期が切れている」などと、もっともらしいことをいっているが、ウクライナで、大統領選挙が実施できないのは、隣国の大国ロシアに侵略されているからであり、そのための抵抗を国家的規模で継続して実施しなければならないからである。プーチンの主張は、泥棒の説教でしかない。それだけではなく、もっと強い戦略によっている。それは、ウクライナで大統領選挙を実施させれば、強力に選挙干渉をして（それはプーチンのお得意の技だ）、ロシアに従順な大統領にすげ替えるという目的があるからである。トランプの主張は、まったくプーチンの主張を後押しして、ウクライナをロシア従属国家にするものなのだ。それをわかって、トランプが主張しているとすれば、かれは完全にプーチンの強固な同盟者であり、わかっていないとすれば、完全な無知である。&#13;&lt;br&gt;
　この戦争の状況の極めて明確な特徴のひとつに、ウクライナは、ロシアの軍事施設や兵站を破壊するために爆撃をしているが、ロシアは、完全にウクライナの市民生活の破壊のために、民生施設を爆撃している。つまり、ロシアは、ウクライナ市民の生活を破壊するべく、ミサイルを打ち込んでいるのであり、そのような状況下で、国家的規模の選挙など実施できるわけがないではないか。もし、大統領選挙を実施させるために、トランプが、プーチンに対して、とにかく現在ウクライナにいるロシア軍全体を、ロシアに引き上げさせて、公平な選挙が可能な状況を一定期間保証した上で、選挙を実施すべきであると主張するならば、それは、ある程度納得のいくものだろう。しかし、それを前提にした選挙を主張しているわけでもなく、単にプーチンの主張を容認しているに過ぎない。現在の発言をみる限り、ロシアが不当に占拠しているウクライナ領を,ロシア領にしてしまう前提での、「ウクライナ」の大統領選挙なのだから、ウクライナが受け入れられないのは当然である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ウクライナ情勢は、とにかく混沌としているようだ。ロシアは人海戦術を駆使して、いかに犠牲者がでようが、占領地域を拡大しようと攻撃を継続している。なんといっても、兵力数で圧倒的にロシアが有利だから、ウクライナが押されている局面が大きいようだ。しかし、ウクライナは、ロシアの兵站を破壊することにおいては、かなりの成果をだしている。しかし、兵站破壊が１００％実施されているわけではないし、少しずつその影響が出てくるとはいえ、それには時間がかかるだろう。「兵糧攻め」は、長期間実施しなければ、目的は達成できない。結局、ウクライナがどこまでロシア軍の攻撃に堪えられるのか、ロシアの戦闘能力が削がれていくまでもつのか、ということになる。&#13;&lt;br&gt;
　しかし、戦争開始まもない時期に書いたように、ウクライナがロシア軍を実力で敗北させ、ロシア側に完全撤退させることは、難しいといわざるをえない。それが実現するためには、もうひとつ、ロシア内でのプーチンに対する反乱がおきることだ。そのような情勢は、現在では見られない。多少の萌芽はあるようだが、まだまだ反乱がおきる発火点まではいっていないようだ。結局、双方がどれだけ堪えるのか、そして、トランプがウクライナ援助を完全に断ち切ってしまうのか、その場合のヨーロッパの援助の実効性はどうなるのか、というような不確定要素があり、また、トランプ自身も揺れている状況だから、２０２５年は混沌状態が継続していくのだろう。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>社会</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>１円硬貨廃止問題</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2025/02/16/9755132</link>
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      <pubDate>Sun, 16 Feb 2025 17:28:36 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-02-16T17:29:13+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　トランプが１セント硬貨の廃止を主張していることが、波紋を呼んでいる。具体的にどのように廃止するのかが明確ではないが、日本でも１円硬貨は廃止すべきだと思っている。ただし、廃止後のありかたが問題である。&#13;&lt;br&gt;
　私が1992年から１年オランダに滞在したときに、実は、オランダでは１セント硬貨が廃止されていた。ただ、その後ユーロ貨幣がだされた段階で、その方式も終わりになり、現在ユーロでは１セント硬貨があるはずだ。&#13;&lt;br&gt;
　オランダにいったとき、１セント硬貨がないことなどまったく知らなかったのだが、最初に変だとおもったのは、値札でたとえば１３セントの買い物をしたのに、あるべきおつりがなかったからである。聞いてもそのときにはよく理解できなかったのだが、あとで近所の住民にきくと、要するに、１セント硬貨を廃止して、お釣りの計算方式が変わったのだという。&#13;&lt;br&gt;
　商品には、通常のように、一桁のセントの値段がついている。しかし、通常まとめて買うわけだから、その際に値段の合計の計算をそのまま足すのではなく、&#13;&lt;br&gt;
・１、２セントは０&#13;&lt;br&gt;
・３～７セントは５セント&#13;&lt;br&gt;
・８、９セントは１０セントとして計算するのだ。&#13;&lt;br&gt;
　だから、８セントの商品を買えば、それは１０セントとられることになるのだが、５個買えば、５０セントではなく、４０セントなのである。また、７セントの商品では、１個では５セントになり、５個だと３５セントだ。これは１個１個買ったほうがとくになる。&#13;&lt;br&gt;
　つまり、当時のオランダでは、同じ商品を買う場合でも、どのような個数にするととくになり、あるいは損するのか、ということを、よく考えなければならないわけだ。面倒だといえば面倒だが、買い方によって、実際の値段より安くなるのだから、当然真剣に考えるわけである。しかも、１セントよりも生産コストがかかる硬貨などかなり無駄だから、そうした無駄も省いていた。&#13;&lt;br&gt;
　このやり方は、ユーロになっても踏襲すべきだと思っていたが、踏襲しなかったのは残念だ。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さて、１円硬貨を廃止して、当然予想される値段設定は、１～４円は５円に、６から９円は１０円にしてしまう可能性が高い。つまり実質的な値上げである。こうしたことは、させさせねばならない。むしろ、政治家は、こうした値上げを合理化することを許容することで、財界の支持をえようとしている可能性がある。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>文化・生活</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>フジテレビ問題あれこれ</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2025/02/13/9754426</link>
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      <pubDate>Thu, 13 Feb 2025 19:45:45 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-02-13T19:46:09+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　フジテレビの問題はいっこうに収まる様相ではない。いろいろと考えるところがある。古くなってしまった話題が多いが。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　文春の「訂正」には驚いた。驚いたのは、文春が、厳密にいえば誤報したわけではない記事について、間違っていたと訂正して、謝罪したことに驚いたことと、文春が誤報していたことで、まるで中居問題やフジテレビ問題が一挙に収束にむかうかのような発言をする人たちがいたことだった。&#13;&lt;br&gt;
　文春の訂正の趣旨は、第一報では、Ａ氏が中居宅での食事会にＸを誘ったと書いたが、それは誤りで、実は中居氏が誘ったのだ、という趣旨だった。しかし、もともとの記事を丹念に読めばわかることだが、そして既に文春自身がその後の説明をしているように、Ａ氏が誘ったとは書いていないのであり、誰が誘ったのかはあいまいに書かれていた。そして、第二報で中居氏が誘ったと明確に誘い主を特定する記事になっていたのである。だから、「Ａ氏が誘った」とは書いていなかったし、更に、第二報ではあるが、誘ったのは中居氏であったことは、きちんと書かれていたのだから、実は訂正するようなことではなかったのである。ただ、橋下氏がさかんにテレビで語っていたので、とにかくことを収めようとして、「訂正記事」を書いたのだろうとおもうが、ただ、テレビのワイドショーのコメンテーターには、文春をきちんと読んでいるとは思えないような、文春批判をしている人が散見されたことは、彼等の「知性」を示しているようで、興味深いものがあった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　オープンの、10時間以上にわたった記者会見は、前に書いたように、最初から最後まで見ていた。途中はどうやって終わらせるのか、という一点に興味があったからずるずると最後までみてしまったのだが、壇上にいた取締役たちは、もっとなんとかできなかったものか、という声が圧倒的に多かったようだ。しかし、いかなる意味でも、記者会見で、記者たち、そして、視聴者たちを納得させる内容の発言をすることは、あの取締役たちには不可能だったといえる。そういう意味では、まったく違った形での記者会見のみが、事態を収める方向を可能にしたのだということだ。そして、それはまだ実現していない。&#13;&lt;br&gt;
　なぜ、納得させることができないといえるのか。&#13;&lt;br&gt;
　それは、彼等が話す内容は、基本的には、まったく逆のふたつしかないということ。ひとつは、「真実」「事実」を語ること。そして、もうひとつは、「嘘」を語ること。&#13;&lt;br&gt;
　もし、真実や事実を語れば、フジテレビ経営者たちの、明らかな人権無視と違法行為を明確に示すことになるのだから、その場は、大紛糾することになっただろう。もちろん、記者たちがそのまま、「そうだったんですか」などと納得するわけがない。&#13;&lt;br&gt;
　また、嘘をつけばどうか。これが実際に語られた内容であったわけだが、それは、あの場でも記者たちの反応をみればわかるように、それが「嘘」であることは、完全に露呈していた。露呈していたからこそ、10時間も粘られたわけだし、また、終わった段階で、記者会見で納得がえられたという雰囲気はまるでなかった。&#13;&lt;br&gt;
　つまり、真実を語っても、嘘で誤魔化そうとしても、どちらにしても、納得できる会見になど、最初からなりようがなかったのである。&#13;&lt;br&gt;
　では、どのような会見だったら、記者たちがある程度納得し、また、スポンサーが戻ってくる可能性を切り開いたのか。これも自明のことで、多くの人が考えていることだろうが、責任あるポストにある人が、早急に全員辞任し、外部から有能な経営者を招聘し、役員に事件とまったく無関係な若手を起用することを、明確に示すことが、最低限必要だったろう。そういうことの発表の場とすれば、雰囲気はがらっと変わったに違いない。いかなる形であっても、「説明」して納得させることは不可能だったのである。いずれ彼等は辞任せざるをえないのだから、そのような形での辞任を演出すれば、彼等の名誉も守られたに違いないとおもうのである。&#13;&lt;br&gt;
　これに関連して、中居氏や松本人志氏の記者会見を求める意見が強いが、私は、必要ないと思っている。少なくとも、中居氏は引退し、松本氏は事実上の引退情態にある。ここで記者会見をすれば、ただただつるし上げられるための会見になる。いくらなんでも、それは酷ではないだろうか。記者会見が必要だというのは、彼等が公共電波を使用するテレビの仕事を、今後も続けたいという場合である。それは、テレビが公共電波を国によって認可されて使用している媒体だからである。youtubeなどで活動をしていくというのであれば、会見は不要だとおもう。彼等にとって、テレビに出られなくなることは、それ自体としてかなり大きなペナルティなのだから、それで充分なのではなかろうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　フジテレビの過去の暴挙がいくつも暴かれているが、そのなかで、驚いたのが、老人に、火がついた敷物の上を裸足で歩かせる、という番組があり、大火傷をした情態なのに、病院につれていかず、ただ自宅に送って、放置し、その後重態となって、入院がつづき、数年後に亡くなったという事件である。常識では信じることすらできないような酷いことだが、私自身が、聞いていた番組で、これほどのことではないが、基本的には同じ問題だと感じることがあった。それは、文化放送のラジオだったのだが、男女のアナウンサーが対談していて、熱湯に近いお茶を、ぐっと飲み干すということをしようという内容だった。男性側が比較的ベテランのアナウンサーで、それに対して、女性のアナウンサーが、しきりに「飲みましょう、飲んでください」とけしかけるような感じだった。当初、男性アナウンサーは、自分にとって喉は職業上の大切な部分なので、そこに悪影響を与えるようなことはしたくない、と強く抵抗していたのである。しかし、まわりもはやし立てるような感じて、その女性アナウンサーがしきりに要求するのだ。結局、男性アナウンサーが、熱湯のお茶をのみ、ひどく苦しそうになっていた。&#13;&lt;br&gt;
　私自身、熱いお茶やコーヒーを飲まないことにしており、必ず冷ましてから飲むので、その男性アナウンサーの気持はよくわかるし、ぜったいに拒否してほしいと思いながら聞いていたのである。だから、実際に飲んでしまったときには、はやし立てているひとたちに本当に怒りを感じた。&#13;&lt;br&gt;
　このような、人に苦痛を与えて喜ぶような文化が、こうした放送をやっている人にもあるのかと思って、そのことは、今でも鮮明に覚えているのである。それから、その番組は聞かなくなったし、何十年も前のことなので、今は番組自体がない。だが、こうした文化は、学校でのいじめの芽をつくりだしていることは、充分に考えられる。今回のフジの騒動をみていると、公共性をもったメディアでありながら、本当に無責任な人たちが牛耳っている部分があるのだと、憤りを感じざるをえない。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>文化・生活</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>フジテレビやり直し会見の不毛</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2025/01/28/9750647</link>
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      <pubDate>Tue, 28 Jan 2025 19:05:08 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-01-28T19:05:35+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　おそらく前代未聞の会見だったのではないだろうか。もしかしたら、大学紛争時代の「大衆団交」なるものには、こうしたもの、あるいはもっと怒号が飛んだ会見があったかもしれないが、公共放送で生中継され、それが１０時間半も続いた会見などは、まずなかったに違いない。しかも、フジテレビは、それをまったくコマーシャル無しで、ノーカット放映した。フジテレビなど、ここ２０年以上みたことがないが、フジテレビが潰れるかどうかを注視しているので、この会見は、すべて見た。１６時にはじまり、終りは午前２時半だった。途中１０数分の休憩があったが、会見中は壇上の人は、だれもトイレ退出することなく、ずっと座っていたから、終盤は半分頭が働かないような印象をあたえるほどだった。その頃は、半分以上の記者たちは帰っていたから、壇上の役員たちにとっては、かなりつらいものだったに違いない。自業自得といえば、それまでだが。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さて、具体的な場面の映像がyoutubeで多数流れるだろうから、詳細は省くが、全体として感じたことを書いておきたい。&#13;&lt;br&gt;
　まず感じたことは、壇上の経営陣たちが、とにかく我慢強く、決して声を荒らげることなく、内容はともかくとして、最後まで答えていたことについては、正直感心した。記者たちを挑発的に怒らせることを絶対にしないように、という事前の確認があったのだろうが、針の筵にいるような１０時間を堪えたということについては、さすがに「高齢者」たちだと驚き、これを、最初の記者会見でやっていれば、その後のＣＭ騒動もおきなかったのに、と彼らのためにも残念に感じた。&#13;&lt;br&gt;
　他方で、希望すれば一度は必ず発言機会をあたえられていた記者たちの、多くは、極めてレベルの低い質問で、冷静かつポイントをつくような質問はあまりなく、とにかく自説の開陳と押しつけを目的とするような、演説調の質問が多く、聞いていていらいらした。一月万冊の佐藤章氏は、記者クラブだけが入れるような会見ではだめで、フリーランス記者こそがまっとうな質問をするのだ、と日頃からのべているが、こうした会見をみると、フリーランス記者の多くの質問は、レベルが低く、むしろ適格、かつ相手にきちんと答えさせるような質問をしていたのは、大手メディアの記者たちが多かったようにおもわれた。もちろん、だからといって、大手メディアに制限するような会見がよいといっているわけではないが、フリーランスの人たちの水準が低いことは、自身自覚すべきであろうとおもう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さて、長時間の拷問のような質問攻めにはよく堪えたと感心したが、答弁の内容については、酷いものだったといえる。それは、とうてい事実とは思えない「物語」が作成されていて、その「物語」を強固に固持し、それが事実によって破られそうになると、「プライバシー侵害の恐れ」などという理由で、質問がストップされるという形で、「物語」が最後まで維持された、そして、そのことによって事実が隠蔽されたということだ。おそらく、記者たちはみなそのことが気づいていただろう。&#13;&lt;br&gt;
　その「物語」とは何か。&#13;&lt;br&gt;
　その前に、「文春」やその他の報道によって、現在までに明らかにされている「ほぼ事実」と考えられることは、以下のようなものである。&#13;&lt;br&gt;
１　フジのプロディーサーＡが、他の局員を交えて行われる予定だった中居宅での食事会に、Ａやその他局員が全員直前にドタキャンし、結局アナウンサーのＸのみが中居宅にでかけ、食事のあと、トラブルになった。２０２３年６月のこと。&#13;&lt;br&gt;
２　その翌日Ｘはフジテレビの幹部に事実を報告し、佐々木恭子アナウンサー部長を交えた幹部３人と、フジと契約の産業医とＸが話し合いをしたが、佐々木アナが「たいへんだったね、少し休もう」といったのみで、Ｘがみずからの医師に診断を受けようとするのも阻んだし、その後、Ａには何もいわなかったと告げたのみであった。（ＡからＸが報復されないように黙っていたとの解釈もある。）&#13;&lt;br&gt;
３　何もしてくれないと考えたＸは、その後症状が悪化し、ＰＴＳＤのみならず、多くの疾患をかかえ、長期の入院を余儀なくされた。そして、快方にむかったので、フジを退社することになったが、その前に、元気になるためもあって、パリ五輪を見学した。&#13;&lt;br&gt;
４　いつの時点か不明だが、中居は当初、入院中のＸに謝罪するためにＡを見舞いにいかせ、その際２０万を渡そうとしたが、Ｘは断り、その後双方の弁護士による協議の結果示談が成立、９０００万の支払と守秘義務の約束がなされた。&#13;&lt;br&gt;
５　会社の認識としては、当時フジテレビの専務であり、現在関西テレビの社長である太田氏が。彼が記者会見でのべたことは、事件後すぐに自分にトラブルの件が報告され、（ということは、上記２の３人のフジ幹部職員のだれかが、すぐに専務に報告したのだろう。）太田専務は深刻な事態だと認識したために、すぐに社長に報告したと語った。&#13;&lt;br&gt;
　以上が、１００％確実ではないかもしれないが、おおよそ明らかになっている事実だろうとおもわれる。しかし、会見当日、港社長によって、かたくなに維持された「物語」は以下のようになっていた。&#13;&lt;br&gt;
６　事件後、Ｘの様子がおかしいと感じた同僚社員が、おそらく上役に伝え、それが港社長にあがってきたのは、８月だった。&#13;&lt;br&gt;
７　深刻に受けとった港社長は、被害女性の気持に寄り添うことを最大限重視し、噂が拡散しないように、ごくわずかのメンバーで対応をとった。そして、すぐに中居を番組からおろしたりすると、Ｘを刺激し、情態を悪化させることを危惧して、中居をおろす機会を探っていた。&#13;&lt;br&gt;
８　しかし、Ｘの情態が改善しないので、番組改編期にも、中居をおろす決断ができず、結局、昨年１１月に中居降板をきめて、その後中居に伝えた。&#13;&lt;br&gt;
　中居氏にもＸにも、港社長みずからが接したわけではなく、担当が接していたようだ。したがって、このような物語を語りながら、いつ、どんな人物が、どのような内容で、中居氏やＸと話し合ったのかは、具体的には何も提示されなかった。&#13;&lt;br&gt;
　どちらのストーリーが、より真実に近いだろうか。少なくとも、文春等が伝えているものは、無理がないのに対して、港社長の「物語」は、綻びだらけである。&#13;&lt;br&gt;
・大田専務が、６月にすぐに報告をうけ、それをただちに社長に報告した、と語っており、文春は、事件の翌日に、上司に報告したと語っているのに、港社長は、報告をうけたのが８月だったといっているのは、あまりに違いが大きすぎるだろう。それを港社長は、専務から、私に情報が届くまでに、中間の人がたくさんいたために、遅れたのだろう、などと語っていたが、誰がそんなことを信じるだろうか。専務が社長に、「直ちに報告した」といっているのに、「中間」が２ヶ月も遅らせるわけがない。常識的に、専務が公の場でのべたのだから、直ちに社長に報告したことは間違いないのだろうし、常識的に考えて、それは「直接に」伝えたと受けとられるものだろう。&#13;&lt;br&gt;
　これまでこの事件を冷静に受け止めてきた者からみれば、直ちに報告うけた社長は、Ａとともにどうやって隠蔽するかを考え、とりあえず無視することにした。そして、積極的にはなんら対策をとらず、中居の温存をはかったが、事態が発覚して、どのように説明するかを考えて、「報告をうけたときには、ＸがＰＴＳＤで入院していたために、彼女を刺激しないようにと考えた」という「逃げ口上」の物語を考えだしたのであろう。&#13;&lt;br&gt;
・中居を止めさせると、Ｘの精神に負担をあたえるなどと弁明しているが、常識的には、それは逆である。中居がテレビに出続けているのを見ることのほうが、中居が止めさせられるよりも、圧倒的に精神的に苦痛なはずである。食事会にでた食事と同じものを見るだけで、苦痛なのだから、当人のテレビ出演をみたら、それこそ、苦痛だけではなく、怒りが頂点に達するに違いない。そんなことは、誰にだってわかる。それをしゃーしゃーと逆のとこを発言するのだから、驚いてしまう。しかし、記者たちもおかしいと思っているから、何人もがそれを問いただそうとするのだが、肝心の部分になると、直ちに、司会者の広報担当が、「プライバシー侵害になるので」と強引にそれをとめてしまうのである。だから、あきらかにおかしな港社長の「物語」だが、それをただそうとすると、その質問そのものを遮ることによって、「物語」を守っているという構造になっていた。だから、事件後、直ちに、Ｘが上司に報告したなどという話も、発言しようとするとその前に「停止」をさせられてしまう。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　広報局長の司会の介入によって、事態が紛糾した最大の場面は、中居氏とＸの認識が違いが問題になったときだった。開始の比較的に前の段階で、港社長が、Ｘから聞いていた話と、中居氏からの話とで、食い違いがあったと発言していたのだが、それをある記者が、食い違いの内容を正したところ、遠藤副会長が、同意と不同意（一致と不一致という表現もあった）の違いだと説明して、それを記者が更に、突っ込んでいたとき（中居氏は同意があったと主張しているのか、等の質問をしていたと記憶する）司会から紙片が遠藤氏に渡され、発言そのものを取り消してしまったのである。そのことに回答すること自体が、プライバシー侵害であるというのが「会社の認識」であるとして、遠藤氏も回答を拒否してしまう。それに怒った記者が、何度もここは最も重要なことだ、と食い下がり、野次も激しくなり、けっこうな時間議事そのものがストップしてしまった。結局、ついに、遠藤氏は、答える事を拒否したまま、司会が次の質問者を指名することで、流れが次のところにいってしまったということだ。&#13;&lt;br&gt;
　これも、聞いている人には、実に不可解におもわれただろう。中居氏もＸ氏もトラブルがあったことを認めており、９０００万円（額について疑問もでているが）の示談金が支払われたのだから、両者の主張が対立しており、常識的に中居氏が同意があったと説明し、Ｘは同意はなかったとしているというのは、ごく当たり前の解釈であり、そのことは、世間に知れ渡っているのだから、プライバシーの侵害になるなどとはいえない。つまり、その回答を拒否するのは、中居氏が事実をまげているという「事実」を隠したいという以外の理由は見つからない。&#13;&lt;br&gt;
　この司会による介入は、実にフジ側の不都合をあぶり出していたひとつだった。中居氏の番組継続は、すべて港社長によって、上記「物語」で押し切られ、それ以上突っ込もうとすると、プライバシー侵害ということで、司会者に遮られる。また、答えにくい点は、ほとんどが第三者委員会の調査を待つ、などと逃げてしまう姿勢では、「信頼を取り戻す」どころか、「信頼をますます失う」結果にならざるをえない。&#13;&lt;br&gt;
　このようなことが、ほかにもたくさんあったので、この会見によって、スポンサーの信頼が回復したということは、おそらくないだろう。とくに港社長の回答は、「物語」に固執するために、方々で無理があり、嘘をついている感が濃厚であるし、それを権力的に守ろうとする司会も、フジへの不信感を増大させるに充分なものだった。みていた視聴者も、フジテレビは回復しつつあるなどとも、おもわれていないだろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかし、やはり、記者会見のやり方については、だれもが改善の必要を強く感じただろう。完全クローズドでもなく、完全オープン時間無制限でもない、記者会見のあり方が、工夫される必要がある。記者クラブの問題も明らかだが、単に自由にフリーランスの記者に語らせることを保障するだけでは、みのり多い記者会見にはならないということだろう。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>社会</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>田中将大問題で感じること</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2024/12/13/9739440</link>
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      <pubDate>Fri, 13 Dec 2024 21:41:42 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2024-12-13T21:42:04+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　現在の日本プロ野球界における屈指の名投手である田中将大が、楽天から自ら身を引く形で自由契約選手となり、新天地で活躍したいという希望を表明しながら、いまだに田中を獲得しようという球団が現われないという、たいへん注目される事態になっている。田中がなぜ、自由契約を望んだのか、なぜこれほどの実力ある投手を、どの球団もとろうとしないのか、その他さまざまなことが、実に多くの人によって意見表明されている。そういう中で、楽天球団で起った安楽選手のハラスメント問題が尾をひいているという見方が、多数だされていることにたいしてだろうと思われるが、田中が法的措置をとるかも知れないと宣言したように報道されている。&#13;&lt;br&gt;
　多くの人が指摘しているように、田中が楽天を退団した際、そしてその後の行動については、田中をとりたいと思っていても、それを躊躇しかねないような行為のように思われている。「自分が必要とされていないと感じた」とか、ニューヨーク・ヤンキースから楽天に移籍したときに、「もっといい条件を提示してくれた球団もあったが」などという発言などは、やはり、私が聞いても、言い方が適切ではないように感じられる。ただ、私の感覚では、やはり「法的措置」発言が、もっとも言ってはならないものだったと思うのである。まさか、実際に提訴したりはしないだろうが、そういう発言をすること自体の悪影響を考えなかったとしたら、少々未熟さを感じてしまう。&#13;&lt;br&gt;
　詳しいことは私も知らないが、安楽が、後輩選手たちにハラスメントをしたということで、退団せざるをえなくなったわけだが、その際、田中がそのハラスメントを黙認していた、あるいは煽っていた、さらには、自身もかかわっていたというようなことが、ネットでいわれていたわけである。私自身、そうした書き込みを少なからず読んだ。そして、私自身はみていないのだが、そういう書き込みには、安楽のやっているハラスメント行為を映した動画があり、そこでは田中が笑ってみていた姿が映っているという。それを「みた」という複数の書き込みがあったから、おそらく間違いないのだろう。田中自身のいいたいことは、自分は安楽のハラスメントにはまったく関わっていないということだろう、だから、そうした書き込みは誹謗中傷であり、名誉毀損であるということなのだが、そうした動画があれば、法的措置をとっても、田中の主張が通る可能性は低いと思われる。&#13;&lt;br&gt;
　それよりも、法的措置をとる、などという発言をしてしまうことが、抑圧的姿勢を感じさせてしまう。スポーツの世界では、しごきなどのハラスメント的行為は、とくに以前は日常茶飯事だったし、いまでもそうした体質がある団体も少なくないだろう。そうした背景を考えれば、田中の法的措置発言は、ハラスメント的体質を田中がもっていると感じさせてしまうのではなかろうか。ほんとうにないのであれば、田中はyoutubeをやっているようだし、また記者会見をすることも可能なのだから、そういう手段をもちいて、真実はこうだった、と公表すればよいのである。松本人志がそうであるように、みずから世間に説明せず、法的措置をとると言うことは、（松本は実際に提訴したわけだが）むしろ逆効果、つまり、ほんとうはそういうことがあったのではないか、という受取りをされがちなのである。&#13;&lt;br&gt;
　球界に居場所を見つけるのは、多くの人が指摘しているように、ネガティブな対応ではなく、自分の努力によるのではなかろうか。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>文化・生活</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>「紀州のドンファン」事件の無罪判決</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2024/12/12/9739244</link>
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      <pubDate>Thu, 12 Dec 2024 21:08:43 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2024-12-12T21:09:16+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2024-12-12T21:09:16+09:00</dcterms:created>
      <description>　いわゆる「紀州のドンファン」と呼ばれた資産家の殺害事件の判決公判があり、無罪とされた。この被害者は、生前からメディアでは有名だったが、死亡したというニュースには驚いたものだった。少し前に結婚した女性が、50歳も若く、通常ありえないと思うし、多くの人が、女性のほうの遺産狙いを感じたろう。&#13;&lt;br&gt;
　死亡したときのニュースでは、たしか殺害されたという断定はなかなかさなかったと思うし、現在でも、死因そのものは覚醒剤の過剰摂取ということになっているようだが、それが事故なのか、自殺なのか、他殺なのかは定かではないようだ。判決は、自身で「誤って致死量の覚醒剤を摂取」という可能性を否定していないと報道されている。ほんとうに不可解な事件だった。&#13;&lt;br&gt;
　妻は最初から疑われたが、考えてみれば、ドンファンはかなりの高齢であり、死亡すれば、遺言で公的機関に遺贈するという遺言書があったとされるが、当然遺留分はあるわけだから、かなりの遺産がそれほど遠くない時期に入るわけであり、殺害などしたら、それが無になってしまう。合理的に考えれば、殺害の動機は薄い。しかし、では他に可能性があるのか。等々。妻である女性は、以前に結婚詐欺をやっているので、犯罪などに縁のないまっとうな人間とも思われていなかった。死亡推定時刻に家にいたのは、妻だけだ、今は覚醒剤を入手しようとしていたらしいやりとりが残っている。&#13;&lt;br&gt;
　こうして、結局は状況証拠によって起訴されたわけである。&#13;&lt;br&gt;
　私は、場所が和歌山県であるということで、カレー事件を思い出さざるをえなかった。多くの人が、想起しただろうと思う。カレー事件のときにも、とにかくメディアの報道が加熱して、特定の女性への疑いが連日報道されたものだ。そして、結局彼女が起訴され、死刑が確定している。しかし、詳細に調べたわけではないが、私は冤罪だと思っている。これもかなり強引な状況証拠（ともほんとうはいえないのだが）と、マスコミの報道によって、彼女が犯人にされたが、なによりも、彼女が他の人に毒をもったことがあるとしても、それはすべてお金目的だったのであり、自身がいっているように、お金にならないのに、人を殺したりしない、というのは、ほんとうのところだろうと思うからである。彼女にとって不利なのは、たしか夫に毒をもって、（といって致死量ではない）保険金をとろうとしたことがあることは間違いないので、とにかく、「悪人」だと思われたのは、ある意味自然の成行であった。そして、一審では黙秘を通し、死刑判決になってしまったので、高裁からは無実の主張をしたが、判決は維持され、確定したのである。しかし、冤罪であるとして再審要求を援助しているひとたちもいて、彼女はいまでも無実を訴えている。最近ではネットでも、彼女の冤罪を主張する書き込みもある。彼女もやはり状況証拠だけで、起訴され、しかも、「疑わしきは罰する」ように死刑判決が確定してしまったのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　おそらく、和歌山の司法関係者もそういう反省的思いの人は、少なからずいるに違いない。判決の数日前、今回の事件が再度放送されたとき、私は、無罪判決がでるような気がした。それは、カレー事件のようになってはいけないという、裁判関係者の思いがあるに違いないと思ったからである。「疑わしきは罰せず」という刑事訴訟の大原則が、守られたことは、とてもよかったと思う。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>社会</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>103万の壁論議の疑問</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2024/12/10/9738788</link>
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      <pubDate>Tue, 10 Dec 2024 21:58:12 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2024-12-10T21:58:40+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2024-12-10T21:58:40+09:00</dcterms:created>
      <description>　１０３万円の壁や１０６万円の壁が議論されている。しかし、この議論にどうも違和感を拭えない。１０３万円の壁を高くしようという議論は、結局、課税されない範囲でしか働かない原因になっている壁を多少とも高くして、働く時間を多少なりとも増やそうとしているわけだが、賃金の上昇を求めている状況では、結局、働く時間などそう増えないことも起きるわけである。そうして税収だけは確実に減ってしまう。さらに、社会保険にかかわる１０６万円の壁がからむと、同じように処理すれば、社会保険の収入が減ることになり、健康保険や年金の財源の減少となってしまう。つまり、今の議論をみていると、結局、パート労働者の労働時間はそれほど増加せず、社会の側で必要な財源が減少してしまうということになりはしないか。それがほんとうにいいことなのだろうか。&#13;&lt;br&gt;
　私自身は、そもそも、課税されない限度があるということに、あまり賛成できないのである。つまり、働いて収入がある以上、収入に応じて税金を払うのが、国民として当然なのではないかと思う。そんな酷いといわれるかも知れないが、現実の税制度が合理的であるとは思えない。&#13;&lt;br&gt;
　かなり単純化した言い方になるかも知れないが、問題になっているのは、基礎控除と配偶者控除が主なものだろう。&#13;&lt;br&gt;
　そもそも基礎控除とはなにか。所得税とは、えられた収入にたいしてかかる税だが、収入額全額ではなく、その収入を得るために必要だった経費を除いた額にたいしてかかるものである。ところが、雇用者にたいしては、最初からその控除額を収入に応じて決めてしまうのである。欧米などでは、実際にかかった経費を差し引いて、所得を決める方式をとっている国もある。というより、むしろ歴史的にはそうした方法からはじまったはずである。それが、日本の場合早く、そうした経費をかってに税当局が決めて、それを基礎控除としているのである。そのことによって、雇用者は自分て領収書など保存して計算する手間が省けるという利点はあるが、実際にはもっと多くの経費がかかっている場合もある。このやり方は、源泉徴収方式とあいまって、国が税を徴収することを確実にできるし、さらに、国民に納税者意識をあまり感じさせないという政治的効果があるとされている。日本人の多くが、納税者意識が弱いのは、この基礎控除と源泉徴収制度によるといえるのである。現在はそれでも納税者意識が向上しているが、それは消費税のためである。やはり、雇用者でも、自分で経費を計算して、納税額を計算して、自分で納税する、そうすることが、民主主義国家としての主権者として適切な方式だろう。もちろん、めんどうだから、現行でよいという人は、そういうやり方も認めてよい。予め前年度にどちらの方式をとるかを届けることにすれば、それほどの混乱はないだろう。&#13;&lt;br&gt;
　それから、配偶者控除というのは、女性が結婚したら、主婦となって子育てをするという生活様式を前提にした制度といえるだろう。配偶者が働いていなければ、その分生活費がたいへんだから、その分税で考慮しようということだ。しかし、現在の日本のように、圧倒的に労働者不足であるのに、１０３万の壁などで、労働時間を短いものにする、パートで働くなどという状況こそ克服する必要があるのに、その基本問題を視野にいれないで、壁を多少高額にするなどというやり方では、社会全体の問題を解決することはできない。&#13;&lt;br&gt;
　やはり、国民は、特別な事情がない限りは、原則として働くというシステムを前提に、税制度は考えるべきなのである。そして収入に応じて、合理的な税率、当然累進課税を決めればよい。収入が非常に低い場合には、非常に低い税率にすればよい。特別な事情があって労働できない者には、その特別な事情故に、特別な援助を制度化する必要がある。全員が働くことを前提とした制度にすれば、「壁」などという問題そのものが解消されるのである。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>社会</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>悠仁親王進学問題に関する八幡氏の論</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2024/12/09/9738586</link>
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      <pubDate>Mon, 09 Dec 2024 22:26:30 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2024-12-09T22:27:01+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　悠仁親王の大学受験をめぐり、さまざまな議論があり、また、それが皇室のありかたにまで発展している現状であるが、皇室に詳しいとされる八幡和朗氏の文章が、president online(ヤフー・ニュース掲載)が公表されている。悠仁さまに東大以外の「有力な選択肢」が浮上…秋篠宮さまご夫妻が頑なに「学習院」を避ける裏事情（プレジデントオンライン） - Yahoo!ニュース&#13;&lt;br&gt;
　経歴から見る限り、八幡氏は、きわめて知的レベルの高い優秀な人であるにもかかわらず、いかにも、事実誤認といわざるをえない表現が散見される。皇室問題は、日本社会のありかたをめぐる重要な柱であり、八幡氏の論のおかしな点を批判しておきたい。&#13;&lt;br&gt;
　１ページから４ページまであるが、１ページ目は、これまでの進学に関する整理で、とくに異論はない。「秋篠宮さまご夫妻がよりリベラルで知的な校風のお茶の水や筑波大学附属を好まれたのは理に適っていた。」と書かれている点については、そのはいり方が問題なのだという批判をもたれているが、八幡氏は、皇室は特権だらけだといっていることでわかるように、特権を使うことについては、ほとんど疑問を懐いていないようだ。&#13;&lt;br&gt;
　「この反発は、悠仁さまが東京大学志望だという憶測によって頂点に達した。「皇族特権」といわれたが、皇族の生活や人生は特権だらけだ。スポーツ観戦やテーマパークでの遊びでも、庶民と同じように列に並んだり、抽選に参加されるわけでない。お召し列車に乗ったり、パトカー先導で車で移動したりもする。」という文章によくあらわれている。しかし、こうしたことがらに国民の批判が向けられることは、私はまだみたことがない。スポーツ観戦や音楽鑑賞、お召し列車などは、最初からそのように設定されていることであり、スポーツ観戦で特別席でみる人は、別に皇室だけではない。しかし、こういうとくに国民が異論をもっていない面をもって、受験の特権を肯定するのは、ほんとうの問題からそれているのである。&#13;&lt;br&gt;
　「もし東京大学に悠仁さまが入られたら、受験生1人が落とされるといわれたが、3人の五輪出場枠ならともかく、東大には何千人も定員がある。」という文章に、八幡氏の勘違いが典型的に表れている。東大の定員は何千人だから、悠仁親王一人くらい特別に入っても問題ないだろうということのようだが、その前段階では、東大の推薦は各高校に推薦枠があり、筑付は４人なのである。さまざまな条件がある中で、通常の学業成績でもきわめて優秀であることが、４人枠に入るために必要とされている。しかし、「事実に反する」と八幡氏はいうかもしれないが、悠仁親王の筑付での成績は惨憺たるものであることが、露顕している。私は事実そうだろうと思う。お茶の水女子大附属中学は、男子の偏差値は低いが、そのなかでもとくに優秀ではなかったといわれており、筑付も特別枠の事実上無試験入学だったから、そもそも筑付の授業についていけると考えるほうが不自然なのである。そうした予想とおりになったわけであり、そういう中で、筑付の東大推薦枠を悠仁親王がとるということは、八幡氏がいう「オリンピック３人枠」を特権である人物がとってしまうことと、ほとんど同質の問題なのである。&#13;&lt;br&gt;
　悠仁親王の現在進行しているらしいやり方での東大進学に反対している人も、まったく通常の定員を奪うことなく、まったくの別枠としての皇室特権を制度化して入ることは、反対していない人が多いのである。&#13;&lt;br&gt;
　東大何千人と書いたあとで、留学生枠、沖縄枠、女性枠などが議論されているというが、これは、そもそもいくら優秀であっても、条件等で不利になっているひとたちに機会を与えるという趣旨で論議されていることであって、そもそも最大特権人である皇室に、更なる枠、しかも、通常の受験生の枠を特権的に奪うこととは、まったく違う次元の問題であろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　そして、なぜ八幡氏が次のような見解を書けるのか、いささか不思議にすら思う。&#13;&lt;br&gt;
　「私は、学業に無理なくついて行けるのであれば東大進学は別に構わないと思ったし、悠仁さまは、推薦入試の基準にだいたい合致していたのである。」&#13;&lt;br&gt;
　学業に無理なくついていける、推薦入試の規準にあっているというが、どちらも適切な判断とはいえない。&#13;&lt;br&gt;
　筑付の授業にとてもついていけない状況であることは、さまざまにいわれており、私自身、それは充分ありうる事態であると思うし、また、入学前からそうなると思っていた。だから、生物以外の科目は、きわめて不充分な成績であるというのは、まったく驚くことではない。筑付という高校の授業についていけないのに、東大の理系の授業についていけるはずがない。&#13;&lt;br&gt;
　推薦入試の規準にあっているというのも、まったく説得力のない言い方である。トンボに関する学術論文といっても、データをいくらかだしたかもしれないが、専門の研究者が書いたものであると思わざるをえないし、学会発表といっても、全体の式典に出席しただけで、みずからのワークショップでの説明はせずに帰宅してしまったと報道されているのである。それで学会発表したことにならないことは、誰の目からみてもそうだろう。筑付進学のためと思われた九州の作文コンクールでは、剽窃が指摘されていることも記憶に新しい。剽窃は禁止というルールの下に行われたコンクールであるにもかかわらず、当選が無効にならなかったのは、いかにも歪んだ皇室特権であったろう。今回の学術論文でも、実は、東大入学反対署名をした会のホームページに、詳細にそのおかしな点が指摘されているのである。&#13;&lt;br&gt;
　八幡氏のようなエリートコースを歩んだ人間であれば、悠仁親王の学力については、よくわかっていると私は思う。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　次に皇位継承問題にうつっている。（３ページ目）ここでは、悠仁親王は帝王教育を受けていない、人物的にも愛子内親王のほうが人格、成績等天皇にふさわしいという神道研究家の隆盛明勅氏の論を批判する形で、悠仁親王を擁護している。ただ、絶対的に悠仁親王が天皇になるべきで愛子天皇はふさわしくないとまでは書かれていない。たしかに、愛子内親王は、八幡氏のいうように、帝王教育を受けているわけではないと、私も思う。なぜなら現在のシステムでは天皇になることはないからである。ただ、国民の少なからぬひとたちが愛子天皇期待論を、人柄や能力などを根拠に懐いていることはある。しかし、私は、そういう理由ではなく、きわめて単純に、男女平等のこの社会で、男系男子のみが皇位継承するなどという時代錯誤的なことをしてはならないということだ。私自身は、天皇システムの支持者ではないので、皇位継承者がいなくなることについて、別に危機感を懐かないが、国民が分裂しそうになるかもしれないような大問題をあえて議論して、天皇制廃止をする必要は感じていない。ただ、維持されるならば、憲法の大原則である男女平等の原則にたつべきであり、皇室典範は憲法違犯であると思っている。能力や人格においても、愛子内親王のほうが、悠仁親王よりも天皇にふさわしいと思うが、その理由で、特別に愛子内親王の即位を主張するものではない。&#13;&lt;br&gt;
　皇室継承の危機が、男系男子にかぎる点にあることは、明々白々なのに、Ｙ染色体などというカルト的な主張による時代錯誤の主張を、八幡氏はなぜ、こういう文章で問題にしないのだろうか。&lt;br&gt;
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      <dc:subject>社会</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>兵庫知事選から考える</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2024/12/08/9738318</link>
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      <pubDate>Sun, 08 Dec 2024 21:40:00 +0900</pubDate>
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      <description>　前回ブログを書いてから、ずいぶんと日時が経ってしまった。実はふたつほど途中まで書いたのだが、内容が古くなってしまったそのままにしている。そのひとつが、斉藤知事問題である。とにかく、事態が目まぐるしく動いた。選挙前のパワハラ非難の大合唱から、議会の全員一致による不信任決議、そして、再選挙、立花氏の登場による選挙戦の転換、斉藤氏の再選、そして、その後の展開も、ＰＲ会社による暴露と公選法違犯論議というように展開して、いまだに議論はおさまらない。&#13;&lt;br&gt;
　途中まで書いて中断した文章は、この一連の流れを、単にパワハラ問題や公益通報問題などの個別的なことよりも、一連の動向が、最初から仕組まれた政治的な斉藤廃除勢力による、計画的な動きであって、兵庫県の政策をめぐる旧体制と新体制の相剋であるという中に、位置づけようと考えたわけである。廃除の活動は、斉藤知事側の反撃もあり、事態はすこしずつ、斉藤追い落とし派の計画とは違った方向に動き出して、「事実は小説より奇なり」という様相を呈したことを整理して、議論すべき点を自分なりに論じようと思ったわけである。&#13;&lt;br&gt;
　最初の　「公益通報」なるものが、そういえるものであったのか、公益通報であったのか、あるいはたんなる怪文書的なものであったのか、通報したとされる人物の自殺の原因は何だったのか、というような論点は、ずいぶん議論されたが、あたらしく出た公選法違犯問題については、違犯かどうかという点に議論が集中しているように思われる。&#13;&lt;br&gt;
　しかし、私の基本的な立場として、斉藤知事を支持しているわけではなく、私が兵庫県民だったとしても、斉藤氏に投票したわけではないという立場で考えてみても、一連のメディアによる現在も続いている斉藤批判には、疑問を感じるのである。とくにメディアのダブルスタンダードについては、大きな問題であるといわざるをえない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　現在の最大の論点である公選法違犯についても同様である。特定の企業に頼んで選挙戦略をたて、それにしたがって選挙運動をしたことが、公選法違犯になるかどうかについては、法律論的には、違犯の可能性が高いのであろう。もっとも、だからといって起訴されるかどうかはまた別問題であるが。私がメディアの報道に疑問をもつのは、近年において、ＰＲ会社などに依頼して、選挙活動を行うことは、いくらでも行われているのではないかということだ。都知事選の「石丸現象」が相当話題になったが、石丸氏の選挙活動は、そうした選挙運動のプロとして有名な人に依頼して、全面的なバックアップをうけて、当選はしなかったけれども、予想もつかなかったような得票をえたわけである。そして、バックアップした人物も名前もさんざん報道されていた。しかし、そのことに関して、公選法違犯だなどと、メディアは問題にしただろうか。石丸氏は当選しなかったから、違犯は問題にならないということでもないはずである。実際に石丸氏の応援をした当人が、斉藤知事の選挙活動が問題視されたことで、今後かなり制約されるような談話を発表した。&#13;&lt;br&gt;
　それから、そのことが法律上の違犯にならないとしても、知事選挙であれば、その政党の県議や市長が実質的な選挙活動を担っていることも、常識である。当然、表面的には選挙応援をしないとしても、実質的に支持拡大のために動いていることは誰も否定しないだろう。もちろん、そのために彼らが、その活動に関わる支払をうけているわけではないから、公選法の違犯にはならないかもしれないが、しかし、やっていることは、ＰＲ会社でやっていることと似たようなものであり、むしろ、彼らが税金で生計のみならず、政治活動、つまり選挙期間中は実質的な選挙運動をしていることになるのだから、ＰＲ会社に依頼することよりも、選挙戦としての公正さをそこなうものではなかろうか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このように考えていけば、今回の選挙が公選法違犯であるかどうかという問題とは別に、現在の社会状況のなかでの選挙活動のありかたは、検討しなければならない、活動の自由の範囲を拡げる形での検討が必要であると思うのである。これまでの選挙のやり方に関する原則は、ネット社会以前のあり方である。しかし、社会システムは、ネットの普及によって根本的に変化しているのであるから、選挙のあり方についても、ネット社会に適した方法を許容していく必要がある。&#13;&lt;br&gt;
　逆に考えてみればすぐにわかることだが、既に政権をとっている、あるいは知事選等での現職の陣営は、旧来の方式が好ましいわけである。現職を何期かつとめている知事にとってみれば、当然自分の選挙のために動いてくれる議員等が多数いるだろう。彼らがお金を配れば当然買収だから違犯だが、電話をかけたり、政治活動の一環で支持を訴えるようなことは自由にできる。しかし、新人は、そうして動いてくれる人はほとんどいないわけであり、新しい方式を使わざるをえない。今回の兵庫知事選で、斉藤氏が新しい方式をとり、稲村氏が比較的組織に頼った方式をとっていたのは、当然のことであるといえるだろう。しかし、ＰＲ会社に依頼して、有償で動いてもらうことは、公選法で禁止されているから違犯だとしても、民主主義にとって悪いことなのだろうか。「有償」部分が買収的な要素をもったら問題だろうが、それは、完全に収支の全面的な開示を義務つけることによって、問題性を防ぐことはできるだろう。むしろ、お金はないが、支持を拡げられるような政策をもった候補者が、クラウドファンディング等で資金を集め、その資金で宣伝活動を充実させたり、あるいは、適切なＰＲ会社を使って政策を広めることができれば、それは民主主義にとって、非常に好ましいことなのではないかと思うのである。要は、お金を使うことではなく、裏金であったり、闇の使用であることが問題であって、透明性を確保すれば、お金を選挙で使うことの不正は抑止できるはずである。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>社会</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>兵庫県知事選について思うメディアのありかた</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2024/11/18/9732876</link>
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      <pubDate>Mon, 18 Nov 2024 21:40:22 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2024-11-18T21:40:49+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　昨日兵庫知事選があり、前知事であり、議会での不信任決議で失職した斉藤氏が、再選された。議会全員一致での不信任決議、数ヶ月に及ぶテレビ・新聞等での激しい斉藤非難、当初圧倒的な不利と考えられていた斉藤氏の逆転勝利という、前代未聞ともいうべき結果に、実質的な選挙戦の期間中、以前とはまったく違うように、沈黙を貫いたテレビも、とりあげざるをえなかったようだ。今日、たまたま「羽鳥モーニングショー」と「ごごすま」で、この選挙結果をとりあつかったのを見た。そして、いかにも旧メディアの代表格であるテレビらしい反応をしていた。私は高齢者であるが、ほぼ新メディア派なので、このテレビのいいわけ的な扱いは、予想とおりであったが、腹立たしく感じた。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　私自身、率直にいって、次々にテレビでパワハラやおねだりを「暴露」されていた時期には、斉藤氏はやはり問題だと感じていた。しかし、同時に、あまりに執拗なテレビなどの扱いと、１００％斉藤氏への非難に固まっていたことについては、違和感を感じていたことも事実である。いくら問題があるといっても、パワハラやおねだりなどで、これほどの攻撃一辺倒というのもおかしい。多少の弁護論があるのが普通だろう。しかし、告発者が自死したということは、重い事実であるから、斉藤氏の初期対応がまずかったと思っていたことはこれまた事実である。&#13;&lt;br&gt;
　しかし、公益通報を無視して、ということについては、なんとなくおかしなことだとも感じていた。というのは、最初は、マスコミなどへの通報であり、それにたいして知事が対応したところ、法的な手続としての公益通報を行ったということだったが、批判されているのは前者にたいしてであり、厳密にいえば、前者は公益通報とはいえないものだったからである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　さて、こうした雰囲気が変り始めたのは、選挙戦が始まり、ネット情報として、旧メディアが毎日のように垂れ流してきた情報に対する疑問がだされてきたことである。その正確な転機は、私も知らないが、私がみて、それまでの受取りへの捉えなおしの必要を感じたのは、斉藤氏、稲村氏、立花氏他が同席しての討論会だった。偶然youtubeで見ることになったのだが、この三者が同席しているということ自体が驚きだった。そこで論を展開している立花氏の発言内容は、それまでのメディアの主張とはまったく異なるもので、稲村氏がそれに強く異議をとなえている風でもなかったので（全部みたわけではないので、他の部分ではちがっていたかもしれないが）、再度考えてみるきっかけになった。&#13;&lt;br&gt;
　そのとき立花氏はだいたい以下のようなことを述べていた。&#13;&lt;br&gt;
１　最初の局長による通報は「公益通報ではなく」、むしろ怪文書のようなものであり、それにたいして知事が調査し、内容が不正であれば、処分するのは当然だ。&#13;&lt;br&gt;
２　パワハラ、おねだりは、実際には存在しなかった。&#13;&lt;br&gt;
３　局長の自死は、処分が原因ではなく、自分の職務用のパソコンに、自身の不倫の記録があったこと、そのことを委員会で公表されそうになったことだった。&#13;&lt;br&gt;
４　斉藤知事が行った政策が、旧来の利権をもっていた人の反感をかったことで、知事の追い落としにあったのであって、斉藤知事がやろうとしていたことは県民のためになる政策だったのだ。&#13;&lt;br&gt;
以上のようなことだった。そして、これらのことが、立花氏だけではなく、多くの人によって、ネットで拡散していった結果、稲村氏と立場が逆転していったわけである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こうした見解を知って、その後はネットを調べて、どちらが正しいのかを考えてきた。しかし、テレビや新聞は、こうしたことにほとんどふれることなく、投票日を迎えた。&#13;&lt;br&gt;
　さて、結果を踏まえて、羽鳥モーニングショーやごごすまの対応を検討してみよう。&#13;&lt;br&gt;
　まず非常におおざっぱに言えば、ネットはまちがった情報が横行し、テレビは公共性という枠があるので、とくに選挙が始まった段階では、発言が制限されているので、対応が難しかった、といういい訳が前面に出ていたことである。しかし、私からみれば、ネットよりテレビの斉藤氏への誹謗中傷のほうが、よほど酷かったように思われる。とにかく数カ月間、テレビに毎日のように、どこかで斉藤知事のパワハラ、おねだり、をこれでもかというくらい流し続けてきた。ネットでまちがった情報がひろがるといっても、テレビの影響力からみれば小さなものだ。公共性という割には、とうてい公正な報道だったとはいえないだろう。その点について、若干でも反省的に語っていたのは、ごごすまの大久保氏だけだった。東国原氏などは、居直りとしかいいようがない、ネット批判を繰り返していた。&#13;&lt;br&gt;
　そして、こうした番組の参加者は、いかにもネット情報はデマで溢れているかのようにいうのであるが、そうだろうかと私はいつも、彼ら（テレビ）の認識こそ疑問をもつ。私がみるネットの書き込みが、特別だとは思わないし、よく誹謗中傷の巣のようにいわれるヤフコメをよくみるが、誹謗中傷と感じる書き込みは、ほんとうに稀にしかない。ほとんどは、考えられた内容であって、たまにみる誹謗抽象的な書き込みには、たいていたしなめる書き込みがある。だから、ネット空間は、問題がないとはいわないが、全体としては、健全な意見の交流があると思っている。ワイドショーのコメントなどのほうが、よほどレベルが低いものが多い。&#13;&lt;br&gt;
　もし、ほんとうに旧メディアがまじめに問題に取り組むのであれば、斉藤知事が「利権」問題にメスをいれようとしていたことは、記者をたくさんかかえている旧メディアはすぐに把握できるはずであるから、「利権」問題を解明すべく努力すべきであった。もちろん、利権といっても、ある面不可避なものもある。県庁舎の立替えは必要であるという認識は、共通のものだったのだし、立替えがなされれば、どんなに小さな規模であったとしても、受注はどこかの企業が受けるわけだから、そこには利権が発生するともいえる。ただ、兵庫の場合１０００億円という従来の計画にたいして、斉藤知事が２００億程度という提案をしていたということなので、その差はあまりに大きい。そこに深刻な対立が生れたことは当然のことだろう。旧メディアは、そこに公正な立場で検討を加えることができたはずである。しかし、そうしたことは、旧メディアはやらなかったようだ。いまからでも、公共事業のありかたに厳しい玉川氏は、この問題にきちんと取り組むべきであろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　パワハラやおねだりというのは、人によって受取りが違うだろうが、報道されていたことが事実であるとすれば、あれだけ強烈に批判されるようなことではないとも思うが、知事の態度としては改めるべき点であろう。そう感じていた。３の局長の死については、当初からすっきりしないものを感じていた。テレビは、だいたい処分が原因であるとしていたが、百条委員会に出席して、知事批判をする強い意思をもっていたにもかかわらず、その直前に自死したということは、多くの人が不自然なものを感じていたにちがいない。立花氏の主張のような要素があったとすれば、取扱はそれでも非常に難しいものがあったと思われる。だから、百条委員会側がパソコンのなかみを公表しなかったことは、プライバシーの保護という点で納得できるが、斉藤知事への非難の中心的論点のひとつである点を考えれば、斉藤擁護派としては、明かにする必要があったのだろう。公用パソコンにプライベートなことを保存してよいか、その内容がプライバシーとして保護されるか、という点については、私的内容をいれている人は少なくないように思うが、問題が発生したときに、プライバシーを理由に当人が秘匿できるものとは思わない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　県民の意思は表明されたわけだが、全員一致で不信任をしたり、アンケートにパワハラがあったと書いた職員と、協力して県政をしていかなければならないわけだから－、斉藤知事の苦労はまだまだつづくということだろう。誠実に対応してほしいものだが、利権にしがみつく職員や議員には厳しくすべきであろう。&#13;&lt;br&gt;
　この間の報道のしかたをみていると、テレビは、ジャーナリズムの騎手としての位置はまったく機能していないのだと改めて感じた。&lt;br&gt;
</description>
      <dc:subject>社会</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>松本人志訴訟取り下げについての「解釈」</title>
      <link>http://openbaar.asablo.jp/blog/2024/11/12/9731101</link>
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      <pubDate>Tue, 12 Nov 2024 22:03:16 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2024-11-12T22:03:43+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　松本人志氏が、文春を訴えた際には、私の見解をけっこう書いたが、取り下げについては、別に書くこともないだろうと思っていた。しかし、youtubeでのいくつかの「解説」をみて、少々疑問に思うことがあったので、整理しておきたいと思った。とくに疑問に思ったのは、郷原信郎氏と元週刊朝日編集長山口一臣氏の対談である。通常は、山口氏が聞き手になって、郷原氏が解説しているのだろうが、今回は、週刊文春絡みの訴訟ということで、雑誌側にたって名誉毀損訴訟に当事者としてタッチしたという山口氏が、主に見解を述べる形になっていた。&#13;&lt;br&gt;
　当然、弁護士である郷原氏との対談だから、論理的におかしなことをいっているわけではないのだが、いくつか気になる点がある。&#13;&lt;br&gt;
　その主な点は、世間での受取りとして、松本側が勝った、いや文春が勝った、というように、自分の応援する側の勝訴を強調する論調に分れているが、そうではなく、痛み分けだというような「雰囲気」の論調なのである。そして、当然二人は「和解」と「取り下げ」の違いを正確に理解しているのに、どうも山口氏の見解を聞いていると、氏が、「和解」であるかのようなニュアンスで語っている場面が散見されるのである。松本氏が、あれだけ強行に事実無根であるという前提で、しかも、名誉毀損としては通常ありえない５億（＋訴訟の費用の５千万）の損害賠償を請求するなどという訴訟をおこしておきながら、「取り下げ」たということは、あきらかに、松本氏が、敗訴を避けるために、敗訴よりは取り下げのほうが、傷が少ないという判断の下に、取り下げたと見るのが、正確であろう。提訴後の流れは、明かに、松本氏側が、余計な、やってはならないような愚行を繰り返すことによって、判事たちの心証を悪くするような状況になっていた。それは、探偵をやとって、記事の当事者である女性を尾行させたり、女性の相談相手であった弁護士に対して、訴訟を記事の取り下げを迫ったり、さらに、ありもしないその弁護士の不倫で脅しをかけるなど、あいた口がふさがらないような暴挙をしたことが、暴露されていた。もともと、文春の記事がいいかげんな取材に基づいたものではないことは、おそらく読んだ人の多くが感じていたところであり、もともと松本氏に勝ち目がないことは、ほぼ明かであった。だからこそ、こうした暴挙をしたのだろう。当初から松本氏の不利は明かだったが、こういう愚行をすることで、敗訴は確定的といってよかった。&#13;&lt;br&gt;
　文春側は徹底抗戦の構えであり、かつもっともっと多くの証拠を握っていたはずであり、そして、女性は何度も証言台にたつということを明言していた。まず、松本氏が恐れたことは、その証言が実現して、赤裸々にさまざまなことが語られることが第一だったろう。今回、「強制性を示す物的証拠はない」ということの確認が、松本氏に有利な条件であるために、文春側が取り下げに合意したかのような解釈がけっこうあるが、そもそも、「物的証拠」など存在しないことは、当初からわかっていることであり、文春側としても、認めていることだろう。だから、松本氏に有利だなどということはまったくないのであって、民事の名誉毀損訴訟なのだから、ほとんどは、「証言」によって判断されるのである。被害者である女性自身と、松本氏自身の証言の、それぞれについて、そしてそれを踏まえた双方の「理由付け・論理」のどちらが真実であるかを、裁判官が判断するということである。私は、松本氏のいくつかの過去のテレビでの映像をみて、この人は、論理的に追求されたときの応答力に乏しいと感じていた。おそらく、松本氏は自分の証言に自信がないに違いないと思う。さらに、松本氏の弁護士は、かつて検事時代に不正取り調べをしたことで、事実上検事を辞任せざるをえなくなったわけだが、その不正を、実際の裁判の場面で追求して暴露したのが、文春側の弁護士なのだから、その点でも、判決がでるとしたら、その結果は明かなのである。&#13;&lt;br&gt;
　つまり、松本氏は、裁判が進展して、証言という段階になったときに、女性から生々しい事実が語られること、自分の証言を、文春の弁護士によって、徹底的に追求されること、そのことを恐れたこと、それだけでもかなり致命的な痛手となるうえに、判決で負けたら（その可能性がほとんどなわけだが）、タレントとして、致命的、つまりテレビはもちろん、youtube等の場でも、活動しにくくなってしまう、ということを、恐れたはずである。それで「取り下げ」という、事実上文春の記事を認めるような措置をとったということだろう。&#13;&lt;br&gt;
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　山口氏は、文春側も、血の滲むような、苦しい作業として、なんども交渉しつつ、合意に達したのだろうなどと述べているが、文春側のコメントを読めば、そういう雰囲気はまったく感じられない。松本側が「取り下げ」を申し出てきたので、女性たちと相談して受け入れたという程度のことしか述べていない。裁判手続き上、相手が取り下げをしたい場合、被告側の同意が必要だから同意したということにすぎないように思われる。もちろん、裁判などなくなったほうがいいに決まったから、しぶしぶというわけではないだろうし、郷原・山口氏がいっていたように、「被告としても、自分たちの見解が認められる判決を引きだすことを望むだろうから、勝訴だと思っていたら、取り下げに応じないはずだ」などということはなく、通常は、訴えてきた相手が引き下がるというのだから、同意するだろう。時間と労力が膨大にかかる訴訟など、回避したいのは、被告だった同様であろう。訴えた相手が取り下げたということは、被告側にとっては事実上勝訴となったこととほとんどかわらない。&#13;&lt;br&gt;
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　蛇足だが、山口氏の発言を聞いていると、こういう人が編集長をしていたのでは、週刊朝日が廃刊になるのも、なんとなくわかるような気がした。公平な立場で、双方の主張をまとめている、などというのではなく、論理的に明解な説明ができるところを、明確に切ることができないような煮え切らない感じなのだ。&lt;br&gt;
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