官業と民業(2)2006年05月15日 23:08

 大分間が開いてしまった。半年ばかり忙しくてブログそのものを書けない状態が続いた。あちこちのブログを書いていたのだが、そろそろ明確な書き分けをする必要があると感じている。こちらでは、社会的な問題について自由に書くことにした。  官業と民業ということだが、小泉首相は民業派であることは、自他ともに認めるところだろう。しかし、BSEの問題はどうも逆であるようだ。民業派で言えば、食の安全なども国家は最低限のことをやるべきで、実際の検査や検査表示がなされた上での「選択」は個人が自己責任においてやるべきだということになるのだろう。しかし、日本では安全が確保されない限りアメリカ牛肉の輸入は認めるべきではないという人が多く、今のところ小泉内閣もその原則を守っている。しかし、本心はどうなのだろうか。  「交通事故より少ない」というアメリカの説明は、問題のすり替えである面が強いが、事実としてはその通りだろう。危険部位が料理されて出てくるわけではないし、十分に火を通した料理では、それほど危険がないとはわかっている。食べたい人もいるだろうし、また、業者にとってはかなり深刻な輸入禁止であるということになる。  むしろこの問題は、やはり「民営派」の論理的なあいまいさではないかと思う。

図書館の閲覧制限2006年05月17日 22:13

 福井県の図書館で、フェミニズム関係の著書を閲覧できないようにしたことが、報じられている。

福島氏らの著書:福井県図書館で撤去 内閣府に申し入れへ
 社民党の福島瑞穂党首や東京大学の上野千鶴子教授らのフェミニズムなどに関する著書が今年3月、福井県の施設の書架から「内容が過激」などとして撤去されたのを受け、福島氏らは「知る機会や学習の機会を制限するのは問題」として、近く猪口邦子・内閣府男女共同参画担当相に対し、言論や思想統制につながらないよう申し入れることを決めた。
 福井県生活学習館の書架から撤去されたのは、福島氏の「結婚はバクチである・本当のパートナーシップを育てるために」などフェミニズムや性教育に関する書籍約150冊。市議らの抗議で書架に戻された。【山田夢留】
毎日新聞 2006年5月17日 20時42分

 このような記事だ。どのような本を図書として受けいれるかは、おそらく図書館によって異なるだろうし、昔から難しい問題である。今大学図書館などですら、受けいれ図書を自主的に選択しているところは、それほど多くないらしい。つまり、どこか選択する組織があって、それに任せているような具合である。公立の図書館となるとそうした割合が更に大きくなるに違いない。しかし、やはり、その図書館をどのような利用者があり、どのような図書を求めているのか、それを知っているのはその図書館員であり、また、図書館員である以上、利用者ができるだけいい図書を読むことを望んでいるだろう。したがって、司書という図書館の専門職員がいる以上、彼らが図書の選定をすること、そして、その力量をもち、責任を任せられていることが、好ましい利用者の学習状況を実現するはずなのである。
 そのような体制になっていれば、今回のような、実際に存在している本を閲覧できないようにするなどという措置はとらないはずである。図書の選定も任されていない、そして、権限もないところで、このような事件が起きたと考えるのが自然だろう。単に政治的な争いで起きたというだけのことではないような気がする。
 
 もちろん、この報道を見る限り、最近ずっと強化されている「思想や言論の統制的風潮」の一環であると考えざるをえない。教育基本法の改定案が提出され、愛国心を強制することはない、などと答弁しているようだが、国歌・国旗を法制化したときに、決して強制はしないと政府は答弁したにもかかわらず、学校の式典でこれを強制するように行政指導しているのは政府であり、また、その結果として、多くの処分者が出ている。こういうことを、通常は「強制」というのだろう。

垣根・塀を考える2006年05月20日 17:06

 かねがね塀とか垣根に興味があった。というのは、日本でも塀や垣根が一般的にある地域とない地域がある。また、欧米でも国や地域によって異なる。単にいろいろあるというなら当たり前のことなのだが、それは地域性があるという点が気になるのだ。
 もちろん、垣根や塀は自分の家を囲うことだから、ある種排他的なものだろう。そして、自分の家を覗かれたくないという表明に違いない。
 オランダは長屋形式の家が多いのだが、表通りには垣根や塀がなく、しかも、大きな窓があってカーテンをしないのが一般的だ。最近はレースのカーテンくらいする家が増えているようだが、家の中を見せるというのが、何か倫理的な意味があるらしい。「地球の歩き方」によると宗教的な意味があるのだそうだ。
 しかし、そうした長屋形式の家には裏側に大きな庭があって、それはしっかりと垣根(たいていは生け垣だ)で仕切られており、庭は見えないようになっている。つまり、形式的に見せる部分と見せない部分とに分かれているというわけだ。垣根や塀のない構造をもった家の場合、庭が裏側にあって、そこは見えないという構造になっている場合が多いようだ。つまり、外に対して開く部分とプライバシーを守る部分とを共存させているわけだ。もっとも、垣根がないといっても、ずっと昔は都市そのものが城壁のようなもので囲われていて、その中は共同体のように見知った者が住んでいた時代もあるから、その名残に過ぎないのかも知れないが、やはり、現代でも垣根をもっていないということは、それなりの「意識」があるのだろう。
 私自身、垣根がない家が好きなので、家を建てたときには、やはり、表側は塀を作らなかった。そうした家は周りにけっこう少なくない。
 偶然、丸山真男に、「垣根とルソー」という短文があることを知って、読んでみた。西の郊外に引っ越したのだが、垣根を作らないでいたところ、近所に家が建ち始めたところ、最初に垣根を作って、それから家を建てるところが圧倒的で、垣根だけ作って家が建たないのもあるというのが話題となっている。そこで、丸山らしくルソーの「人間不平等起源論」を思い出したという。ルソーは、「誰かが自然の土地に勝手に囲いを作ってこれは俺のものだと宣言した瞬間から、私有財産がはじまったといい、その際『こんないさかまのいう事を聴くな、土地は万人のものだ』と叫んで杭を抜く結城を持った者がいたなら、戦争・殺人といった人類の罪悪の発生は防がれたであろうと慨嘆している」という引用がある。その影響で垣根を作らなかったそうだが、子どものちょっとしたいざこざで垣根を作ったのだとか。
 ルソーのその記述は記憶にないので、今度探してみようかと思うが、やはり、垣根という「囲う」意識と、「開く」=公共性の関係は、日常的な住民の意識として、地域性と絡んでなかなか興味深い問題なのではないかと思う。(丸山真男著作集5)