日本が先進国でなくなった実感2024年05月01日 21:36

 日本は、確かに先進国といえる国だったと思う。単に経済規模だけではなく、その製品の品質に対する信頼、国際的な行事などを確実に運営する組織能力、交通マナーや災害時の対応など、誇っていいことが確かにあった。しかし、それらのほとんどが、今崩れかかっているように感じるのは、私だけではないだろう。
 たとえば、災害時に、途上国などは、略奪などが頻繁におきている。しかし、日本では、これまでそうした「火事場泥棒」的な行為は、ほとんどないとされ、国際的にも称賛されてきた。しかし、今年の元旦におきた能登半島の地震のその後をみると、これが先進国かと思われるような事態となっている。
 既に4カ月が経過しているのに、ほとんど放置されている地域が少なくないという。大手メディアはあまり報道しないが、youtubeなどでは、そうした状況が多数報告されている。そして、今日youtube(一月万冊)でいっていたのだが、詐欺がかなり横行しているというのである。いまだに下水道の復旧は遅々としているのだが、それを悪用して、実際に工事などやらないのに、前金という形で集金したり、工事をやっても形ばかりで、実際の技術をもっていないような人たちがいいかげんな作業でごまかし、かえって迷惑な結果になっていることが、少なくないというのである。そして、今後、下水道の工事が始まる関西万博が職人たちを大量に集めるだろうから、能登の被災地の復旧は本当に暗い状況だというのである。
 そして、避難所のことも大分話題になった。今や、少なくとも先進国においては、災害による避難者のプライバシーが守られるような体制が、避難所でとられるのが常識になっているが、能登の避難所は、あいかわらずのごろ寝状態が多いという。
 台湾でも大きな地震があったが、その対策をテレビでみたが、完全に日本は立ち遅れていることを確認させられた思いである。
 復興の経済力も十分でないし、犯罪も見逃せないほどだという。

 次に感じるのが、関西万博の醜態である。おそらく、このままいけば来年開催されるのだろうが、世界に対して恥をさらすことになるだろう。これほど馬鹿げた催しは、おそらく戦後日本の歴史のなかで、はじめてのことだろう。もともと、万博が目的ではなく、カジノ建設のための手段として計画されたのだから、うまくいっていないのも当然なのかもしれないが、しかし、このような無惨な状況になっている日本主催の行事はなかったことは確実だ。
 当初の予定されたが、実現しない部分がかなりでてきていること。本格的なパビリオンは当初の3分の2になること(それも現在の希望的見方であるが)、予算が当初と比較にならないほど、膨らんでいること、そして、予定された建物ができない部分に空きスペースができ、おそらく、まともな活用がなされないこと、交通機関があまり整備されない状況となるはずなので、観客たちがかなり歩かねばならないこと(だいだい夏場が中心の開催だから、熱中症で倒れる人がかなり出るに違いない。)、きちんとした水洗トイレが完備されそうにないこと、そして、最も危惧されるのは、メタンガスが爆発する危険性があること、等々。他にもいくつかあるに違いない。そして、驚くべきことに、運営の責任にあたる人たちが、情報をださず、こうした不都合が、さまざまなひとたちの告発によって知られるようになり、どうしても否定できない状況になってしぶしぶ認めるような、隠蔽体質をもっており、それがますます事態を悪化させていることである。
 東京オリンピックもかなり問題があったが、それでも、コロナなどの流行に見舞われたが、なんとか競技は終えることができた。そして、必要な建物ができていないというようなこともなかった。
 しかし、関西万博は、開催日がきても、確実に工事が終了せずに行われているに違いない。そして、これだけ悪い評判が拡散しているから、運営費を賄うことになるはずの入場者は、かなり少なくなるだろう。私は、近所に住んでいたとしても、絶対に行かない。
 東京オリンピックは汚職にまみれていて、事後に逮捕者が続出したが、関西万博も、検索が機能すれば、そうなることは間違いない。

 そして、政治の腐敗である。あれだけの裏金問題がおきたにもかかわらず、政治家はほとんど刑事責任を問われていない。政治資金規正法や税法に違犯している、列記とした犯罪であるにもかかわらずである。

 先進国である条件として、民主主義であることは最も重要であるように思われる。そして、民主主義であることの重要な要素として、政治の透明性がある。残念ながら、政治的透明性の国際比較において、日本は、かなり順位が低い。そして、そういう事態は安部内閣以降特に顕著になった。その典型は、嘘にまみれた原発安全神話である。これまで何度か書いたが、福島原発の危険性は、既にずっと以前から指摘されていたのであるが、第一次安部内閣のときに、共産党によって、大地震が起きたとき、電源が失われる危険性が指摘され、改善が必要ではないかと質問されたのに対して、当時の安倍晋三主張が、その必要はないと突っぱねたのである。このとき、安部内閣が真摯に事実に向き合い、改善策をとっていれば、あの福島原発事故は防げた可能性があった。それを不可能にしたのは、政治家や経済界の無責任体制であり、政治の隠蔽体質だったのである。
 もうひとつ、現在進行形のことをあげれば、リニア新幹線である。リニア新幹線に待ったをかけていたのは川勝前静岡県知事であり、そのことによって、川勝氏は大いに批難されており、失脚の背景になっていたと考えられる。しかし、川勝氏が指摘していた水問題だけではない環境破壊問題は、決して静岡県だけのことではなく、他県でも多々存在しており、住民たちは苦しめられているのである。実際に、工事が進められている地域の周辺では、住民たちの生活が理不尽に規制されている声を聞いている。しかし、メディアはそれを取り上げているようには思われない。
 さらに、リニア新幹線の問題は、収益性にもある。最近、採算がとれないに違いないという指摘が専門家からなされているが、常識的に赤字になることは十分に予想される。専門家でなくてもわかる。東京大阪間は、現在空路と新幹線、そして東名・名神高速道路が既に存在している。そこにリニア新幹線が割り込むわけである。日本は人口減少社会であるから、いくらこの東京大阪間の移動者が多くても、全体としては減少していく。しかも、ビジネス上の移動は、ネットワークの発展によって、不要になる部分が増大するはずである。会議は、まるで「どこでもドア」が実現するようなもので、移動が不要になるのである。そもそも、ほとんどがトンネルである移動手段を利用する人は、どういう人だろうか。それは仕事でどうしても速く移動しなければならない人だろう。しかし、そういうひとこそ、指導しないで仕事が可能になれば、利用しなくなる。そして、観光客は、一度は利用するかもしれないが、リピーターにはならないだろう。
 中国の高速鉄道網がほとんどが赤字路線になっていて、国家的重荷になっているという記事があったが、リニア新幹線もそれに近いものになることは、ほぼ間違いないように思われる。先進的技術と考えていたものが、実は社会的発展とは相いれないものになっていることが、わかっているのに、既に引き返すことができない状況になっているといえる。成田新幹線という鉄道が、着工されたが途中で頓挫し、すっかり工事された部分も跡形なく消滅していることを知っているひとは少ないに違いない。

 こうなってしまった要因として、考えられること、そして、打開策を私の考えられる範囲で次回書いてみる。

小池百合子氏の学歴詐称問題を考える2024年04月24日 21:01

 小池氏の学歴詐称問題は、ずっと以前から言われており、さまざまな専門家が、小池氏が詐称していることを論じているが、小池氏は、これまで、巧みに、というよりは図太くかわしてきた。特に大きく問題になったのは4年前の都知事選前に、『女帝』(石井妙子著)が現われたことである。これは大ベストセラーになり、さすがに小池氏も追い詰められたとみられていたが、在日エジプト大使館のホームページ(フェイスブック)に、カイロ大学の見解がアップされて、一挙に追求が下火になった。当時、このカイロ大学の声明を読んで、どうも変だと思った人は少なくないに違いない。私もその一人だ。『女帝』は、後で述べるように、この問題について決定的な情報を示していた。だからこそ、小池氏もかなり動揺したのだろう。側近の小島氏に「こまっている」として、相談をもちかけたわけである。そして、そこからの経緯について、『文藝春秋』によって暴露されたのが、現在の「盛り上がり」の原因となっている。そして、あのカイロ大学声明は、小池氏が、側近に作成させたのだ(つまり捏造)、というのが、小島氏の暴露の中心点である。たしかに、カイロ大学があのような声明文を、大使館のフェンスブックにのせるというのは不自然であるし、それよりも、後半にあった、小池氏が学歴詐称しているというような意見を公表することは、名誉毀損であるので、法的措置をとる、という文章に、大きな違和感をもったものだ。また、この文章によって、メディアの追求が下火になったわけである。この法的措置の脅し的文章がなければ、あそこまで一気に追求がなくなることはなかっただろう。今から考えれば、鎮静化させるためもっとも効果的に狙った文章を挿入したのは、それを望んだ人が作成したことを裏付けると解釈できるわけである。
 
 さて、今回考えたいのは、「証明」問題である。事情をよく知る人は、欧米や日本では、大学卒業について、当該大学に問い合わせれば正確な情報がえられるが、エジプトなどの途上国では、お金を出せば、卒業詔書などは、卒業実績がなくても、簡単に発行されるという。大学が正式にださなくても、そういう業者がいて、小池氏が示す卒業詔書や卒業証明書もそうした類のものだろうという。また、小池氏は父親からの縁もあるし、また小池氏が政治家になって築いてきたエジプトとの関係で、政府や大学が、たとえば外交ルートで問い合わせても、小池氏は卒業生であるという回答をするだろうという。そうだということを前提に考えてみよう。
 そうすれば、いかに小池氏がカイロ大学を卒業していなかったとしても、大学や政府に問い合わせたとしても、卒業したという「回答」が必ずかえってくるとすれば、「正式に問い合わせれば、簡単にわかるではないか」という詐称派の思いは実現しないわけである。
 私自身は、これまでのたくさんの関連文書を読んだが、小池氏がカイロ大学を卒業していないことは明らかだと思っている。しかし、それが大学当局によって、逆の証明がされてしまうことを考えれば、「卒業」ということの意味を確認することが必要なのだと思うのである。
 通常の日本人が「卒業」と考えるのは、その大学に通学して、授業をうけ、試験に合格して、必要な単位を修得して、卒業詔書をその時点で得ることだろう。いくら、卒業詔書があったとしても、(それもかなり内容的にあやしいものだそうだが)授業をうけ、試験に合格するほどの力を獲得していなければ、卒業したとは認められない。しかも、「首席」というのだから尚更である。
 しかし、当時の小池氏は、授業にはあまり出ていないようであるし、進級試験に落第したことは、同居人の記述によって疑いない。また、試験に合格するほどの実力であれば、アラビア語を駆使できるはずであるが、アラビア語に通じているひとたちの多くが、小池氏のアラビア語は幼児段階のレベルだという。また、卒論は書かなかったと小池氏は延べているが、当時も今も社会学科では、卒論は必修だという。
 そして、同居人氏のいうところでは、進級試験に落ちたその年に、日本に帰国し、再度エジプトにやってきたときに、日本では、カイロ大学を卒業した日本人の女性第一号だと公言し、それが新聞記事にもなっており、その記事を同居人に見せたという。進級すらできなかった人が、その年度内に卒業できるはずがないのである。
 このように考えれば、小池氏が、実際にカイロ大学を卒業していないし、また、ほとんど通学もしておらず、カイロ大学で身につけた学力はほぼないに等しいことは明らかであろう。(つづく)

原作の改変を考える22024年04月07日 21:01

 「セクシー田中さん」問題は、論議が活発に続いているとはいえないが、まだなされている。そのなかで、弁護士の人が書いた
『セクシー田中さん』問題で注目される「著作者人格権」 アメリカよりも強力に保護されていた原作者の権利とは?」という文章があった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fa3692f2afbb29b64125eaf08f4624445ffc0f86
 ここで注目したのは、著作者人格権は、欧米ではあまり法律としては厳格に規定されておらず、日本のほうが厳しいというのだ。しかし、だからといって、「同一性保持権」を欧米が無視しているとは思えない。これは、当たり前の常識として守られているので、特に法で規定することではないと思われているように思われる。パロディーなど問題にならないというが、(問題にあることもあるはずだが)パロディーは、二次的創作と考えられていて、別ものだという意識なのではないだろうかと思われるのである。

 さて、この間議論の中心のひとつになっていることに「原作(者)への尊重」がある。そこで、この点について具体的事例で考えてみたいと思った。私は、漫画も読まないし、テレビドラマもみないので、現在問題になっている漫画とドラマという枠ではないが、問題としてはどんなジャンルでも同じことだろうと思われる。
 ここでまずとりあげたいのは、トルストイ原作の『戦争と平和』の映画化である。『戦争と平和』は世界最高の文学作品という評価があるが、極めて長く、扱っている内容が社会全体にわたっており、原作に忠実に映画化することは、もちろん不可能である。9時間近い長さをもつソ連製の映画でも、省略されている重要エピソードはたくさんある。だから、そのことは問わない。問題は、些細なことだが、原作との異動である。
 『戦争と平和』の映画化は、著名なものとしてハリウッド映画とソ連の国をあげての制作映画がある。その他にイギリスのテレビドラマがあるが、これは、出だしからあまりに酷い「同一性保持権」の侵害としかいいようがない、筋が改変された展開があったので、最後まで見ることがなく、今回は省くことにする。

 二つの映画は、原作への尊敬は十分すぎるほどにあり、巨額の資金、圧倒的多数の人材投入等々、原作を尊重しつつ、原作が要求するスケールの大きさをできる限り追求しようとしている。作品には、アウステルリッツ、ボロジノという二つの大戦闘場面があるので、そこに投入されている兵士としてのエキストラだけでも、現在では絶対に実現できない程のものだ。CGなどなかったときの映画だから、すべて人が演じている。
 ハリウッド映画は、オードリ・ヘブバーンがヒロインを演じていることでも、大きな話題になっている作品である。そして、できるだけ原作に忠実に作ろうとしている姿勢がある。しかし、重要な(と私は思うのだが)点で、原作というよりも、歴史的事実を歪めている。それは、ロシア帝国のふたつの首都であるペテルブルグとモスクワを区別していないことである。物語は、最初にペテルブルグの社交界であるアンナ・パーブロブナのサロンの場面から始まる。そして、そこに来ていたアンドレイとピエールがアンドレイ宅にいって雑談をするが、そのあと、ピエールは、アンドレイとの約束を無視して、ふしだらな生活をしている若者サークルのところにいって、乱稚気騒ぎをし、更に警官を縛って運河に放り込むという乱暴を働いてしまう。そして、ピエールはペテルブルグを追放になって、モスクワにやってくる。モスクワには、ロストフ一家やピエールの父親がいる。つまり、舞台がペテルブルグからモスクワに異動してくるわけである。
 しかし、ハリウッド映画では、最初からこれらがモスクワで起きたことになっている。アメリカ人にとって、この二つを厳密に区別しなくても、特に気にしないかも知れないが、やはり、きちんとした教養をもっている人にとっては、またロシア人にとっては、相当腹立たしいことなのではなかろうか。
 日本にあてはめれば、江戸時代末期の動乱を描くさいに、京都と江戸を区別せず、同じ場所で起きたことのように描いていたとしたら、日本人としてはとうてい許容できないのではないだろうか。京都の鳥羽伏見の戦いに敗れて、徳川慶喜は江戸に船で帰り、静岡に謹慎する。そして、朝廷軍が江戸に攻めてきて、西郷と勝の対談となるわけだが、そうしたことすべてが江戸で行われているように描かれているようなものだ。江戸と京都は、社会的政治的意味あいがまったく違うように、ロシアのペテルブルグとモスクワも違うはずである。
 これは原作への尊敬だけではなく、歴史的事実への尊重という点でも疑問である。

 ソ連映画はどうだろうか。さすがに、国家的事業として制作された、世界的大小説の映画化なので、そうした変更はほとんどみられない。原作の重要な要素が欠けていることがいくつかあるが(たとえばフリーメイソン関連の話)それは仕方ないだろう。
 この映画の原作尊重姿勢は、俳優の選択に如実に表れている。主人公級だけではなく、隅々まで、原作から飛び出てきたような俳優が演じているのである。その典型が、アンドレイの妹のマリアであろう。原作ではマリアはとても醜い顔をしていることになっている。ところが、ハリウッド映画では、美人女優が演じている。しかし、ソ連映画では、ほんとうに醜いとしかいいようがない女優が演じており、動作なども原作を彷彿とさせる。ここまで原作に忠実にやるのか、と私は感心したものだ。
 ところが、これだけ原作に忠実な俳優選択をしているにもかかわらず、2名だけ原作イメージとかなり違う重要人物がいるのである。それは主人公の一人であるピエールと、その最初の結婚相手であるエレンである。ピエールは30前後で背が高く、進取の気風溢れる人物である。しかし、若者らしく自由奔放な面がある。しかし、ピエールを演じている俳優は50代で背は低く、太っている。まったく若者らしさがないのだ。そして、エレンだが、そこにいればすべての人が目を奪われるような絶世の美女ということになっているのだが、この女優は、どうみても中年の普通のご婦人である。思わず目を奪われそうにはない。明らかに、この二人は、原作のイメージとかなり違っている。しかも重要人物だ。ナターシャ役は、何千人もの候補者のなかから、オーディションで選ばれたのだから、ナターシャと結ばれるピエール役も、ふさわしい役者を選ぶべきだったのではないだろうかと思うのだが、こうなった理由は、おそらくはっきりしている。ピエール役をした人が、実はこの映画の監督であり、エレン役はその夫人なのである。意地悪い見方をすれば、監督という地位を利用して、重要な配役を自らとその夫人に割り振ったといえる。だから、この二人が出ている間は、どうも見ていて、入り込めないのである。厳密に解釈しても、この二人の役配は、同一性保持権を侵害しているとはいえないが、しかし、原作の尊重には反しているように思うのである。

 ニコライは、戦乱中の混乱で農奴たちに反乱されそうになったマリアを助け、その縁でマリアと結婚するのだが(そして、それは破綻した財産を立て直すためでもあった)、そうしたニコライとマリアの関係は、ほとんど省かれている。実は、この二人はトルストイ自身の父母がモデルだから、原作のなかでは極めて重要な筋なのだが。そして、ピエールとナターシャは、結婚後、幸福な生活をしている。物語はここで終わるが、ピエールがデカブリストの反乱に参加し、シベリア流刑になる。そして、ナターシャが夫の元にいき、刑期を終えたあとモスクワに戻ってくるという場面が始まるのが、未刊に終わった「デカブリスト」という小説の書き出しである。実際に夫婦でシベリアにいき、無事帰ったひとたちが何組かあったのだが、そうした人物を主人公に構想しながら、彼等の若きころに遡っていくうちに、「戦争と平和」という小説に結実したのである。「戦争と平和」の最後の場面は、ピエールがデカブリストの会合にでて、帰宅したあと、その話の内容をナターシャに語る場面で終わる。しかし、それが、デカブリストの会合であったことは示されない。こうしたエピローグまで含めれば、このソ連映画の印象もまたずいぶんと変るに違いない。

大谷最大のピンチ?2024年03月22日 21:40

 韓国におけるドジャースの開幕戦の最中に、とんでもないニュースが流れ、多くのニュース番組がこの問題に覆われた感じすらあった。ニュースで詳しく報じられているので、内容には触れないが、最大の問題は、水原氏の説明の逆転の真実と、それによって、大谷自身が水原氏を援助したのかということに尽きるだろう。とくに、大谷が罪に問われるのか、大リーグにおいてなんらかのペナルティを課されるのかということである。
 大谷自身が賭博そのものを行ったわけではないことは、確実であるといってよいだろうから、ピート・ローズのような永久追放などということにはならないだろうが、逆に、単に大リーグが禁止しているという意味での賭博に関わったというレベルではなく、違法賭博だから、刑事罰を課せられるような事態がありえないわけではない。そうなれば、間違いなく大リーグからの追放となるに違いない。情報は錯綜しているので、何が事実であるかは、現時点では誰にもわからないのだろうから、大谷にとって、マイナス面がないように進展することが望まれるが、しかし、それにしても、考えさせられる事件であると、多くの人が感じたことだろう。

 大谷は、とにかく野球に人生をかけ、野球の向上のために、生活のすべてを企画実行してきたことで知られている。しかし、そのことは逆に、通常の社会的な常識や知識が欠けているかも知れないと思わせることがある。それでも、通常は道をはずすことはないだろうが、あれだけ若く、お金をもっている人間には、悪意をもって近づくものが多いことも、世の常だ。悪いことでは決してないが、お金の使い方には、常識外れなところがある。自分に背番号を譲ってくれた選手夫婦に、何かお礼の贈り物をするのが慣行だというが、ポルシェをプレゼントしたというのは、かなり驚きをもって受け取られた。いろいろなところに多額の寄付もしているらしい。そのことは、通常は称賛の気持ちをもたれるのだろうが、しかし、そうした金銭感覚を利用しようとする人がいることも間違いない。大谷が、もっとずっと締まり屋で、決して多額の寄付をしたり、融通したりはないという人間であれば、水原氏が、7億円近い借金の返済に協力してほしい、などと頼みにいかなかったかも知れない。そして、そういう違法性のある行為の始末をすることが問題であることは、常識があればわかることだから、水原氏の願いをいれる前に、球団なり弁護士に相談することを、しっかりした金銭感覚の持ち主だったら、実行するに違いない。違法行為に加担することが、自分の人生を台無しにする可能性があることは、当然認識していなければならない。大リーグは、毎年、シーズン開始前に、全員に対して、賭博問題についての講義を実施しているということだ。だから、何度も大谷は、そのことを聞かされているはずである。まさかとは思うが、通訳が水原だから、正確に通訳しなかったなどということで、大谷が正確な理解をしていなかったなどということなのだろうか。
 あるいは、大谷が全く知らなかったということだったとしても、それなら窃盗にあったわけで、資金管理やパソコン管理が徹底していなかったことになる。あれだけの収入があってそうした管理が甘いとすれば、かなり危ない状況だ。

 球団は当然大谷を守ろうとするだろうが、守りきれないこともありうる。なにしろ、大谷の口座から違法賭博の人間に巨額な振込があったことは、事実だろうから、大谷が賭博をしなかったとしても、違法行為を認定される可能性はあるわけだ。
 大リーグを追放されたら、日本のプロ野球は受け入れるだろう。日本では、やはり被害者として理解されるだろうし、日本で違法行為をしたわけではない。日本でプレーすれば、実際に大谷を見ることができる。大リーグで活躍するのもいいが、実際にそのプレーをみれないよりは、見られるほうが、野球ファンにはうれしいかも知れない。

最近のウクライナ情勢を考える2024年02月28日 22:20

 ウクライナの状況が厳しいことが、かなり頻繁にいわれるようになり、領土をロシアに一定割譲しても、和平をすべきではないか、という意見が、日本だけではなく、ウクライナ内部においてもでているように報道されている。そして、ウクライナでも最高軍司令官が交代になるなど、ウクライナを支援するひとたちにとっても、全面的に信頼していいのだろうかという要素もでてきている。
 ただ、これまでの支援する側の対応をみている限り、ウクライナが苦戦することは、ごく当たり前のことであり、支援する側が、支援の姿勢をかえることで、現状をかなり打開できることも間違いないのである。そして、ウクライナがロシアに領土を割譲するような状態で停戦すれば、つまり、ロシアが政治的にも軍事的にも勝利するようなことがあれば、その国際的な影響は測り知れないものがあり、真の意味で第三次対戦を誘発する要因にもなりえるのである。

 では、何故ウクライナは苦戦しているのか。それは、ウクライナが当初から要請して武器を援助せず、量は多いかも知れないが、ロシアに対抗するには、脆弱としかいいようがないレベルでの援助に限定されてきたからである。そして、それは決して、そういう援助が不可能だからなのではなく、臆病だから、あるいはもっと隠微な理由のためである。
 ウクライナは、ロシア軍を戦闘によって打ち破る必要はないのである。ロシアはウクライナ領土に侵略してきた軍隊なのだから、追いだせばいいだけである。戦車戦をしてロシア兵を殺害する必要などないのである。ロシア軍は侵略軍なのだから、武器や食料をロシア国内から運んでこなければならない。もちろん、占領地域からの略奪をする方法もあるが、そこをロシア領にしようというのだから、略奪もかなり限度がある。やはり、完全にそこが領土になるまでは、ロシア国内からの補給が必要なのである。だから、ウクライナとしては、その補給を徹底的にたたいて、補給ができなくしてしまえば、占領軍は撤退せざるをえないのである。
 だからウクライナ政府としては、そのための武器をずっと強く要請してきた。
 それは、戦闘機と、長距離のミサイル、そして、防空システムである。この三つの武器で、ロシアからのミサイル攻撃を防ぎつつ、ロシア国内の兵站を徹底的にたたけば、補給ができなくなる。そうすれば、短期的には無理であるが、この2年間の間に確実にロシア兵を撤退させることができただろう。

 しかし、アメリカがこのウクライナの要請をそれなりに満たしたのは防空システムだけである。いまだに、戦闘機を(ある程度準備中とはいえ)援助していないし、ミサイルの距離を制限している。これでは、徹底的な兵站破壊はできないから、結局、戦車でもって侵略されている領土を取り返そうという作戦をせざるをえなくなり、そうなれば、圧倒的に大国であるロシアが有利なことは、最初からわかっていることである。
 だから、最初からウクライナはこの三つを要求していた。しかし、アメリカがそれを現在でも認めていないのは、ロシアを刺戟する、核兵器をつかう口実を与えるということだ。しかし、このアメリカのやり方は、ふたつの点でいかにも、おかしなものだ。
 ひとつは、これまでロシアはずっと核兵器の使用をちらつかせてきたが、実際には、つかっていない。これは、アメリカ・NATOがかなりつよい圧力をかけて、つかった場合の報復を伝えているからだとされている。つまり、アメリカは、ロシアの核兵器使用を断念させることは、かなりの程度可能なのである。にもかかわらず、いまでもロシアの核の脅しに拘っている。第二に、ロシアの侵略は、アメリカがそそのかした面があるという点である。バイデンがおろかな発言(アメリカ軍は参加しないと明言)をしなければ、ロシアは躊躇した可能性もあるのである。バイデンの明言によって、ロシアは安心して、ウクライナ侵略を敢行したのである。だから、アメリカには責任があるだけではなく、我々日本人としては、アメリカのそうした面を決して忘れてはいけないということである。有事にはアメリカが助けてくれるなどという甘い考えは絶対にもたないことだ。といって、だから、中国との衝突を準備せよ、というのではない。逆である。あらゆる外交的努力によって、中国との衝突を回避しなければならないということだ)。
 アメリカはウクライナの要請を、もっと真剣に満たしていく必要がある。


 3月くらいには、戦闘機がウクライナに配備されると噂されている。もし、それが実現すれば、状況はかなり変る可能性がある。そのことも十分に認識しておく必要があると思われる。

ボクシングはスポーツか?2024年02月04日 12:23

 昨年の12月26日に行われた日本バンタム級王座に挑戦したプロボクサーの穴口選手が、試合後倒れ、病院で手術を受けたが、意識が戻らず2月2日に死亡したというニュースが、大きな話題を呼んでいる。死因は右硬膜下血腫ということだ。

 様々な論議を呼んでいるが、そのなかで、「だからボクシングはスポーツではない、という議論はおかしい」というような意見が多数あった。こういう事故がおきることとは関係なく、私は、ずっと以前から、ボクシングをスポーツとして扱うことに反対してきた。それは、ボクシングという競技がスポーツとしての基本的性格から逸脱していると考えるからである。もちろん、ボクシングという競技そのものを廃止すべきであると主張する気持ちはない。やること、みることが好きな人がたくさんいるのだから、危険な競技であることを承知でやることまで反対する理由はない。しかし、スポーツであると位置付けられ、オリンピックはもちろん、学校の部活になっている場合もあるのだから、本当にスポーツとしての意味があるのかどうかは、きちんと議論される必要がある。

 私がスポーツである条件と考えるのは以下のことである。
・詳細なルールが決まっている。そこには行うべき運動、型、そして、禁止される運動、型等が明確に決まっている。
・そのスポーツの結果が数量的に計測される場合には、その量によって勝敗が決められる。(陸上の投擲、跳躍競技、スキーのジャンプ、滑降、バレーボール、バスケットボール、サッカー、野球等々)
・順位を競う競技では、順位(競走、競泳等々)
・演技を競う場合には、演技の難易度、点数などが明確に決められていること。判定の透明性。
・直接対峙して力技を競う場合には、勝ちの型によって判定。
 問題になるのは4番目で、ボクシングもこの類型にはいる。しかし、ボクシングだけ、判定基準がまったく異なる要素がはいっているわけである。
 柔道、フェンシング、レスリング、空手、そしてオリンピック競技ではないが相撲、県道などすべて、勝ちとされる技の型が決まっていて、その型が実現されれば勝ちとなるのであって、たとえば柔道の投げ技が決まったときに、相手に怪我をさせてしまうことがあったり、あるいはたてなくなったりしても、そのことが勝敗に影響するわけではなく、あくまでも結果としての事故である。つまり、相手に身体的な打撃を与え、対戦困難な状況に追い込むことが、カウントされることはない。
 ところが、ボクシングだけは、そういう直接的、実質的な身体的打撃がカウントされる。ノックアウトというのは、一定時間立ち上がることができないほどの打撃を受けたということで、勝利になる。そして、その勝ち方が最強であるとされている。もちろん、重大な身体的ダメージを受ける前に、レフリーが試合をとめ、ダメージを与えた者を勝ちとするように配慮はされている。だが、今回の場合、接戦だったために、それが難しかったという。そのために、試合後その場で倒れることになったが、実は、他にも、試合から何カ月か経過してから、発症し、最悪死亡するという例は、報道されないが少なくないとされている。頭を強打することもあるわけだから、脳出血していることは当然ありうる。それが少量であれば、すぐには症状がでないが、少量の出血がつづいて、ある時点で発症するような場合である。

 ボクシングを愛する人にも、ボクシングが極めて危険なスポーツであることは十分に理解できるだろう。今回の事件で、安全策を講ずるべきだという意見はけっこうあるが、具体的な安全策を提示している書き込みには、これまで接していない。これまででも事故はあったのだから、これから考えようなどというのは、無責任だといわざるをえない。
 私は、まずスポーツという類型からはずすべきだと思うが、最低限、以下のことはすべきではないかと思う。
・アマチュアのように、頭をガードするものを身につけて試合をする。
・ダウンやノックダウンをカウント要素からはずし、あくまでもどこを打ったか、という型でカウントする。そして、危険な場所(頭等)への打撃を禁止し、行った場合には、減点する。

 そんなのはボクシングじゃない、迫力がなく、つまらないということであれば、スポーツとしてのボクシングではなく、「格闘技」として行えばよい。

漫画のドラマ化で原作者が自死2024年01月30日 21:02

 この問題を知ったのは、事件(原作者の自死)の前に、さっきー氏のyoutubeを見たからだった。テレビの裏側を解説するというyoutubeで、なるほどと思うことが多いのだが、このなかで、「セクシー田中さん」というドラマで、原作者と脚本家の争いになっているということから、珍しい揉め方として紹介していた。原作をかなり改変してドラマ化することはよくあることだが、通常は、表立ったトラブルにはならないというのだ。というのは、ふたつのパターンがあって、改変されることを嫌う原作者が、ドラマ化を断るか、改変されるのは、いっても無駄とあきらめて、任せてしまう場合のどちらかがほとんどだという。もちろん、当事者にとっては、どちらかが不満足な展開になるのだが、トラブルにはならないという。今回の場合には、原作者が、原作を改変しないことを条件にしたが、それにもかかわらず改変が行われ、原作者が自分で脚本を書くという事態になったことが、極めて例外的だという解説をしていた。そして、この問題が難しいのは、だれもがよかれと思っていることだ。改変する脚本家やプロデューサーにしても、面白くなくするために改変するのだ、などということは絶対になく、このほうが面白いと考えて、改変する。原作者は原作の形をベストと考えているのは当たり前だ。善意と善意がぶつかり合って、トラブルになると、解決が非常に難しいというのが、さっきー氏の結論だった。
 そして、その後あまり日時がたたない時点で、事件が報道された。その後のネットの情報等を見ると、原作者と脚本家の間で、SNS上でのやりとりがあり、脚本家への批判が強く、また、テレビ局(日テレ)や出版社への批判を強まっている。

 ただ、私は、この漫画もドラマもみていないので、この問題に関しては見解を述べられない。ただ、小説のドラマ化については、このブログでも、「鬼平犯科帳」と「シャーロック・ホームズ」で、原作とドラマの比較検討を大分行ってきた。当然、違うジャンルに移す場合、どうしても表現形式が異なるので、ある程度改変が必要であることは、誰でも認めることだろう。原作者でもそれは受け入れるに違いない。どうしても嫌であれば、ドラマ化等を拒否するに違いない。
 ただ、今回の漫画の実写化の場合には、他のジャンルの場合と異なる要素があるかも知れないと思うのである。
 小説をドラマにする場合、小説は必要なことを書くのに対して、それをドラマにすれば、小説には当然書かれていないことも、表現しなければならない。そういう要素は実にたくさんある。たとえば、食事の場面で、何を食べているかが書かれていても、食器や部屋の様子、服等々まで書かれていることは少ない。しかし、食事をしている以上食器が使われるのは当然だが、その食器のイメージが原作者と脚本家、監督などで異なる場合も出てくる。こうしたことが無数にある。
 更に、小説の展開では不要でも、ドラマではあったほうがよい場面などもたくさんあるだろう。小説の展開とドラマの展開の順番が異なる場合もよくあるし、ドラマでの変更が合理的と思われることも少なくない。
 それぞれのジャンルには、表現様式があるから、そのなかで表現したい内容をとりだすのであって、それ以外の部分は表現しないままだ。そして、ジャンルが違えば、表現方法が異なるから、当然強調点が異なってくる。一番わかりやすいのは、長編小説を映画にするような場合だ。長編小説は朗読すれば、何十時間もかかるだろうが、映画はせいぜい3時間程度におさめなければならない。だから、小説に書かれている場面でも、大部分はカットしてしまう。連続ドラマにしても、同様だろう。小説家が映画化を承諾したときには、そうしたカットを当然のこととして受け入れるだろう。

 ところが、漫画の実写化は、少々違う面があるように感じるのである。映画制作では、原作があり、脚本があるが、それだけでは具体的映像イメージが乏しいので、絵コンテを作成して、それをもとにして、書かれた大道具、小道具、そしてその配置や人物の動きなどを共通認識にして制作していくようだ。つまり、原作(小説)や脚本だけでは、できあがりのイメージがつきにくい、それを示すのが絵コンテだ。
 漫画家の場合、自分が描いている絵をそのまま絵コンテとして使用してもらえば、台詞ははいっているのだから、漫画に極めて忠実で、ほとんど変更のない実写化が可能なはずだ、と思うのではないだろうか。小説家や戯曲家と違って、漫画家は、自分の描きたいことを、最大限漏れなく描きたいという意思をもって人なのだろうと思う。だから、それを実写化する場合にも、それにしたがってほしいし、それが可能だと思っているのではないか。そして、そういう思いは決して不合理ではないし、なるほど可能だと思うのである。おそらく、さっきー氏のいうように、変更仕方なしとしてあきらめる漫画家もいるが、それを拒否して実写化を断る人も少なくないに違いない。それは、自分が創作した内容が、部分的表現ではなく、全体を描ききっているからだ、という思いからだ。

 だが、ドラマ制作者にとっては、だからそうできるとは思えない要素も確実にある。たとえば、漫画で描かれている人物を演じるのにふさわしい俳優がいるかということだ。というより、漫画にぴったりのイメージの俳優を配置することのほうが、稀であるかも知れない。漫画で描く以上、当然個性的なわけだから、似た個性の俳優をさがす難しさは容易に想定できる。また、いたとしても、まったく知名度がなく、主人公にあてるわけにはいかない。それなら、漫画のイメージとは違っても、人気俳優をつかったほうが、ドラマとしては成功する可能性が高い。そうすると、その俳優なら、原作と少々違うストーリーにしたほうがぴったりくる、というようなこともおきてくる。漫画のアニメ化なら、そうした問題はおきないだろうが、実写化とすると避けられない。脚本家は、当然採用されている俳優を考慮しつつ、ストーリーや台詞を書いていくわけだから、そこで、原作と乖離していくことは、十分にありうることだろう。
 その漫画家の想いと、実写化の制約の相剋はなくなることはないかも知れない。ただ、今回の事件では、脚本家が、原作者を非難するような書き込みを行ったことは、批判されてしかるべきだろう。

西武・ソフトバンクのFA騒動2024年01月28日 21:00

 もうすっかり過去のできごとになってしまったが、プロ野球オフのひとつの騒動として、FAに関連する人的補償問題があった。経過は次のようだった。
・女性問題を起こした西武の山川が、FA宣言をした。
・GMの王は反対したとされているが、現場の強い要望で、ソフトバンクが西川をとった。
・FAで移動する選手がでると、人的補償というシステムで、だれかが代わりに西武にいかねばならないのだが、自由に指名できるのではなく、指名できない選手をソフトバンクはプロテクトすることができる。その名簿以外からほしい選手を指名するのだが、プロテクトされていないなかに和田がいたので、西武は和田を指名したらしい。
・ソフトバンクが和田にその旨伝えると、和田は、西武にいくなら引退するという意思を伝えたという。
・あわてたソフトバンクは、西武と交渉し、プロテクトされていた甲斐野を指名して、了承された。
 以上が経過である。これらの一連の途中経過は、秘密なので、漏れ伝わっているにすぎない。しかし、とんでもなく事実と違うことが報道されることは、この手のニュースではあまりないので、大方正しいのだろう。
 一応、こうした事実があったという前提で考えたい。

 まず、和田への批判がかなり強かったようだ。日本プロ野球におけるルールなのだから、和田には拒否することはできないのに、なんとか居残ろうという姑息な手段をとったということなのだろう。ただ、これに関しては、まったく的外れの批判だと思われる。というのは、人的補償の対象となった選手は、通常はそのまま移籍するが、どうしても受け入れられないときには、拒否することができるが、そのときには、プロ野球界から引退しなければならないというルールなのだそうだ。そういう意味では、移籍を拒否して引退する、という認められた道をとると宣言しただけなのだから、なんら非難される理由はない。実際に、あわてたソフトバンクが次善の策をとろうとしなければ、和田は引退したのだろう。その場合、つよい同情の念が起きただろう。
 選手個人からみれば、妙な制度だ。プロテクトされないということは、所属球団からいなくてもこまらないという烙印をおされたようなものだが、相手の球団からはぜひ来てほしいということだ。トレードもそうだが、トレードの場合には、球団にとっては、ほしい選手を双方がとれるし、選手にとっては、環境をかえることで、活躍の場を確保できることが多い。だが、人的補償の場合には、やはり、犠牲にされるという印象が強い。

 ソフトバンクは、まさか和田が指名されることはないと思っていたようなのだ。実際に、前年にもFA獲得選手がいて、その際にも和田をプロテクトしなかった。それは、和田は既にプロ野球選手としては高齢であり、かつ高額の年棒をとっている。そういう選手を指名するはずがないということで、あえて和田をプロテクトから外していたというのだ。ありうる話だが、姑息といわざるをえない。当然、何故和田をプロテクトしないのか、という批判も強くあるし、和田を出すつもりもなかった球団は、あわてて西武と交渉し、甲斐野を代わりに提供したというわけだ。しかし、甲斐野は、活躍が期待されていた選手で、プロテクトしていたのに、とられてしまったということで、ソフトバンクとしては、大きなマイナス面を生じさせてしまったことになる。指名されないはずだ、などという安易な考えで、プロテクトから外し、いざ指名され、当人から引退を申し出られると、あわてて、やってはいけない交渉をもちかけて、かえって不利な結果を招いてしまった。
 選手からフロントへの不信感も当然起こっただろう。

 ただ、一連の騒動をみて、一番感じたことは、人的補償なる制度の不合理性である。そもそも、FAというのは、ある年限出動し、一定の条件を満たした人物が、他の球団と入団交渉ができる制度である。世の中の職場は、入りたい職場を志望して、入社試験を受けるわけだが、プロ野球は周知のように、各球団が一方的に取りたい選手を順番に指名し、重なったときには抽選で入団するところをきめる。ドラフト制度だ。選手側の意思は無視されるシステムである。だから、その代わりに、FAという制度を導入しているわけだ。大リーグの制度を真似てつくったわけだが、大リーグよりは、ずっと選手に不利で球団に有利にできている。その最たるものが、この人的補償制度だ。大リーグには存在しない。
 誰が考えてもわかるように、自分がいきたい球団と交渉して、そこに移ることになると、その代わりに、その球団のだれかが、自分の意思とは無関係にやってくる選手がいた球団に移らねばならないという制度である。つまり、自分の犠牲者がでるというシステムなのだから、FAの権利を行使するのを躊躇う人がでることは予想できる。逆にいえば、選手に対して、FAを行使しにくくさせる方法なのである。
 人的補償などという制度がなければ、今回の問題はおきなかったし、選手がFAというごく当然の権利を行使しやすくなる。球団は、選手が働きやすい環境をととのえて、球団に継続して活躍できるようにすることで、流出をとめる努力をすべきであろう。人的補償などという姑息な制度は、当然やめるべきだと感じた。当然選手会は強くそれを要求している。

前文「松本人志氏提訴」の訂正2024年01月25日 21:43

.前文「松本人志氏提訴」の訂正

 前回の文章で、松本氏が提訴したのが、「分限春秋社と他の一名」となっていた、その他の一名とはだれかについて、想像としてA子さんと考え、それに基づいて書いたが、その後、「週刊文春の編集長」であると判明した。だから、松本氏側が「悪手」を採用したのではないことがわかった。しかし、A子さんを証人にたたせないことが、松本氏側の有利であり、結局は、双方の証人による証言が判断材料になるのだから、A子さんが文春側の証人として登場して、反対尋問で崩れなければ、文春側の勝訴になることは、ほぼ確実であるということは、見解としては変らない。

 ついでに、これまでも書こうと思って書かなかったことを書いておきたい。
 松本氏に関する議論で、ほぼ共通して指摘されることに、性加害に対する社会の感覚が変ったことがあるが、それとは異なる側面をもうひとつ加えて考える必要があると思うのである。それは、インターネットが普及する以前は、ひろく映像をともなう発信は、ほとんどテレビであった。映画などがあったとしても、日々更新されるものではなく、日常的な手段としてはテレビであった。だから、視聴率という基準で、番組が作られ、テレビは公共性の観点から番組が作られねばならない、という放送法の規定などは、事実上無視されてきた。そして、いかに公共的な観点からはあるべきでない番組も、視聴率がよければ積極的に放映されてきたといえる。
 しかし、インターネットが発達・普及したことによって、テレビ局でなくても、小さな組織、そして個人であっても、映像をともなう表現を広く提示することが可能になってきた。しかも、代表的なそうした手段であるyoutubeは、アクセスすれば誰でも見ることができる形式や、メンバーだけに限定できる形式なども可能になっている。
 この変化は、テレビが公共的な観点から是認できるものに限定し、特別な観点から作られるものは、youtubeなどに移行させることが可能になったことを意味している。
 松本氏が関わった番組で、事件後に掘り起こされ、強い批判を受けているものがある。少なくとも、社会的意識がかわった現在では、とうてい放映できないものだろう。しかし、youtubeで見ることができる。そして、もっと特別な意味合いで作られるものは、メンバー制限型で作成すれば、テレビで放映された場合にうける批判を受けることはないはずである。

 法理論のひとつとして「部分社会の法理」というのがある。一般社会においてはとうてい認められない事柄であっても、部分社会の法理が適用される場合には許されるというものである。非常におかしな校則が違法であるという訴訟が起こされても、かつては部分社会の法理で違法ではないとされることが多かったのだが、それは部分社会の法理を間違って適用した結果であり、最近では、部分社会の法理で適法とされることが少なくなった。しかし、部分社会の法理自体が否定されたわけではない。
 私は校則問題を講義するときに、部分社会の法理のわかりやすい事例として、ボクンシングをあげていた。ボクシングでやっていることは、一般的には、なぐりあいだから、暴行罪にあたる。しかし、部分社会の法理が適用されることで、スポーツとして成り立っているわけである。しかし、そのために、厳格な条件が必要となる。
・あらかじめ行われることが十分に情報開示されていること。
・自分の自由意思で行うこと。
・嫌であれば、いつでもやめられること。
 学校の校則は、この条件を満たさないから、一般的に極めて不合理な校則を子どもに強制することは、少なくとも部分社会の法理で適法化することはできないわけである。

 先の問題にもどれば、テレビでは公共性を厳格に適用して、一般的な価値観にはあわないような番組は、テレビ放映では制限すること、しかし、インターネットで部分社会の法理が適用される形では、公共性を有するとはいえない内容も可能にする。そうした棲み分けをしていくように、情報発信のありかたを変えていくべきなのである。
 もちろん、テレビから排除された松本氏も、youtubeでは自由に発信できる。そのことを非難する人はいないだろう。そういう転換点として、今回の事件を考えることができると思う。

松本人志氏が提訴2024年01月23日 21:53

 もしかしたら、提訴しないかも知れないと思っていたが、やはり、提訴に踏み切った。メディアもネットでも、かなりの見解が表明されている。私は、問題になっているような行為があったのかどうかは、あまり興味がないが、裁判の先行きと、文春が狙っていることについては、強い関心をもっている。
 今回の提訴について、あまり触れられていないが、相手を文春だけではなく、他1名となっていることに驚いた。公式見解や大手メディアも報じていないので、誰なのかはわからないが、常識的に考えれば、A子さんだろう。まさか、わざわざ週刊文春の編集長とか、文藝春秋社の社長などをわけて提訴するはずもないから、消去法で考えれば、不同意だったことを訴えているA子さんということなのだろう。違ったら以下の話はまちがいになるが、これは、私には松本氏にとって、悪手であるように思われる。
 松本側からすれば、A子さんが、証人として登場しないほうがいいはずである。そうすれば、文春側としては、もっとも強力な証言者がいなくなってしまうことになる。この裁判では、物的証拠などはほとんどないのだから、証人の証言によって、裁判官が判断することになる。とすれば、文春側の証人を少なくし、自分に協力してくれる証人を多数だすことが、松本氏にとっては大切だ。しかし、A子さんを被告にしてしまえば、当然自身が証言にたつことになり、かつ敵対的な関係が固定するから、明確に不同意であったことを証言するはずである。そうしないと自分を守れないことになる。文春との面談も弁護士同席だったそうだし、裁判になれば証言にでると発言しているというので、あえて松本氏として、A子さんを被告にしたのかも知れないが、文春のもつ武器を強力にしてしまったと思うのである。A子さんが、自分の体験を明確に述べれば、松本氏が、いくら自分に有利な証言をしてくれる人をだしても、それは無意味である。文春報道でも、不同意の行為をされたといっているのはA子さんだけなのだから、その証言が明確であれば、松本氏の提訴内容は崩れてしまうのである。
 ということで、本件は、細部は別として、大筋において文春が勝訴することは、間違いないと思う。

 さて、前にも書いたが、文春は、特別に松本人志氏を追放することを狙って記事を書いているのではないと思われる。松本氏に圧倒的に不利な内容は第一弾のみで、それも松本氏が刑事責任を問われるような内容にはなっていない。文春としてはそういう材料をもっているのにだしていないという可能性もある。だから、初動のミスがなければ、もっと松本氏にとって不利でないような状況を作り出すことはできたかも知れないのである。
 第二弾、第三弾となるにしたがって、本当の相手は吉本であり、テレビ局であることが感じられる。そして、その意図は、ふたつのことを改めさせることにあるのではないか。
 第一は、吉本などの芸人が、テレビ番組の中枢のひとつになったことによって、テレビのレベルが落ちてきたことの批判である。松本ファンのひとたちは、ダウンタウンがでなくなったら、テレビが面白くなくなると、さかんに書いている。そういうひとたちがいることは、もちろん事実だろう。しかし、逆に、ダウンタウンに代表されるような芸人が、テレビで闊歩するようになって、テレビがつまらなくなった、みなくなったというひとたちも、たくさんいるのである。私もそうだ。
 現在のテレビ全体のなかでも、安定的に高い視聴率を維持している番組に、羽鳥のモーニングショーがある。朝の時間帯でトップであるだけではなく、全番組のなかでも、上位なのだそうだ。私も、食事中ということもあり、ほぼみているのだが、この番組が人気がある理由ははっきりしていると思う。それは、他のワイドショーなどが、極めて薄っぺらな掘りさげ、出演者の発言に終始しているからだ。とくに、高い知性をもっているとも思えないようなタレントがでて、当たり障りのない発言をしているのが、ほとんどのワイドショーだろう。しかし、モーニングショーは、とりあげる話題に関して、非常にしっかりした専門家が解説者としてでてきて、常連の出演者とかなり自由で活発なやりとりをする。常連のひとたちも、芸人などはおらず、しっかりした意見をもっているひとたちであり、さらに、違う見解をもっているので、議論になることも頻繁にある。つまり、放送法に規定されている、異なる意見のある話題に関しては、できるだけ多様な意見の持ち主を登場させる、ということに忠実なのである。中立なんてありえないではないか、などという人もいるが、大事なのは、こうした多様な見解を登場させて、自由に議論させることなのだ。私にとって、いつもではないが、なるほどと思うことがしばしばある。
 そういう番組が視聴率が高いということは、お笑いなどはみたくない、みたいのはこうしたためになる番組だと考えているひとたちが多数いるということだ。
 松本氏のような芸人に私物化されているような状況を打破することによって、よりまともなメディアとしてのテレビにしたいと、文春はひとつ提起しているのではないか。
 そして、それを強力に勧めるために、私物化=権力的となり、「権力は腐敗する」を象徴するような、「上納システム」などを例に出すことで、上記のような番組をつくっている中心のひとたちを崩すことが意図することなのではないかと思うのである。
 そういう意味において、文春の提起は大事だといえる。
 ホリエモンがさかんにyoutubeでこの問題をとりあげつつ、文春はただただ金儲けのために記事を書いているだけだ、と繰り返しているが、きちんと読んでいる人の多くは、反対の感想をもっているように感じる。そして、ホリエモンが現在のテレビの状況をよしとしているとも思えないのだが。

 youtubeでは、文春の意図は、吉本潰しだけではなく、吉本が大きく関与している万博を潰すことにあるのではないかと述べているひとたちがいるが、そこまでは、私は感じない。もっとも、万博は中止すべきだと思っているので、そういう意図があるとしても、違和感は感じないが。