図書館の閲覧制限2006年05月17日 22:13

 福井県の図書館で、フェミニズム関係の著書を閲覧できないようにしたことが、報じられている。

福島氏らの著書:福井県図書館で撤去 内閣府に申し入れへ
 社民党の福島瑞穂党首や東京大学の上野千鶴子教授らのフェミニズムなどに関する著書が今年3月、福井県の施設の書架から「内容が過激」などとして撤去されたのを受け、福島氏らは「知る機会や学習の機会を制限するのは問題」として、近く猪口邦子・内閣府男女共同参画担当相に対し、言論や思想統制につながらないよう申し入れることを決めた。
 福井県生活学習館の書架から撤去されたのは、福島氏の「結婚はバクチである・本当のパートナーシップを育てるために」などフェミニズムや性教育に関する書籍約150冊。市議らの抗議で書架に戻された。【山田夢留】
毎日新聞 2006年5月17日 20時42分

 このような記事だ。どのような本を図書として受けいれるかは、おそらく図書館によって異なるだろうし、昔から難しい問題である。今大学図書館などですら、受けいれ図書を自主的に選択しているところは、それほど多くないらしい。つまり、どこか選択する組織があって、それに任せているような具合である。公立の図書館となるとそうした割合が更に大きくなるに違いない。しかし、やはり、その図書館をどのような利用者があり、どのような図書を求めているのか、それを知っているのはその図書館員であり、また、図書館員である以上、利用者ができるだけいい図書を読むことを望んでいるだろう。したがって、司書という図書館の専門職員がいる以上、彼らが図書の選定をすること、そして、その力量をもち、責任を任せられていることが、好ましい利用者の学習状況を実現するはずなのである。
 そのような体制になっていれば、今回のような、実際に存在している本を閲覧できないようにするなどという措置はとらないはずである。図書の選定も任されていない、そして、権限もないところで、このような事件が起きたと考えるのが自然だろう。単に政治的な争いで起きたというだけのことではないような気がする。
 
 もちろん、この報道を見る限り、最近ずっと強化されている「思想や言論の統制的風潮」の一環であると考えざるをえない。教育基本法の改定案が提出され、愛国心を強制することはない、などと答弁しているようだが、国歌・国旗を法制化したときに、決して強制はしないと政府は答弁したにもかかわらず、学校の式典でこれを強制するように行政指導しているのは政府であり、また、その結果として、多くの処分者が出ている。こういうことを、通常は「強制」というのだろう。