オペラの筋を転換させる重唱 ― 2024年07月11日 19:03
前に「美しいメロディー」をあげたが、その多くはオペラのアリアだった。西欧クラシック音楽の最も魅力的なメロディーはオペラにあるのは、オペラがしめている位置から当然のことなのだが、ただ、オペラの最大の魅力は、実はアリアではなく、重唱にある。名曲オペラの、音楽的に最も素晴らしい場面は、大抵アリアよりは、何人かがやりとりをする場面であることが多い。
今回は、そうした音楽的な魅力にあふれた重唱の場面を選んでみた。その条件として、更に、その場面で大きく筋が転回すること、そして、それが主に歌の内容になって起きることという条件で考えてみた。
歌以外の要素がはいって、筋が転回するというのは除いた。例えば、フィガロの結婚には、そうした場面が各幕ごとにある。一幕では、スザンナとケルビーノが話しているところに、伯爵がやってきて、みつかるとこまるケルビーノが大きなソファの後に隠れる。伯爵がうごくとそれにあわせてケルビーノが位置を変えるのだが、やがて見つかってしまう。伯爵はスザンナにいいよるところを見られてしまったので、ばつが悪いのだが、とにかくケルビーノを軍隊行きを命じる。二幕では、クローゼットに隠れていたケルビーノが、伯爵が鍵をとりにいったすきにスザンナといれかわり、ケルビーノは窓からとびおりてしまい、戻った伯爵の前にスザンナが現れるという、いずれも笑いを誘う場面があるのだが、(三幕にも四幕にもあるが省略)、この場合、椅子とクローゼットという道具がうまくつかわれていることで、筋が変化していく。
ここでは、そういうのではなく、あくまでも歌詞の内容が事態を動かしていくような場面をとりあげる。つまり、それは音楽だけの力が状況を変化させていくのであって、それだけ音楽が魅力的なのだということなのだ。
まず最初にヴェルディの「椿姫」の第二幕のビオレッタとジョルジョ・ジェルモンの二重唱をあげたい。
高級娼婦のビオレッタとアルフレードが、パリの郊外で生活を始めているのだが、そこにアルフレードの父ジェルモンがたずねてくる。(そのときアルフレードは不在)ジェルモンは、あなたのような人が息子と一緒にいるので、娘の結婚がうまく進まない。だから息子とわかれてくれというわけだ。そして、どうせ息子のお金で生活しているのだろうと罵る。しかし、実際には、ビオレッタの資産で生活していることを示し、そこは納得するのだが、男は移り気なものだから、どうせ長続きもしないだろう、などと、聞くに堪えないことで、とにかく、一時的にはわかれると承知するビオレッタに、永久にだ、と追い打ちをかける。
仕方なく、わかれることを約束せざるをえなくなり、最後には、かなしい思いで去った人がいることを忘れないでくれと懇願しておわる。そのあと、ビオレッタは、友人のパーティにでかけ、昔の生活に戻ってしまうが、そのあと、アルフレードがかえってきて、父親との対話になる。
youtubeには、丁度この部分をきりとった映像があった。ネトレプコとハンプソンの二重唱だが、大道具がほとんどない簡単な舞台なので、それだけ動作などが大きなものになっている演出で話題になった。
https://www.youtube.com/watch?v=yg9GOdbVdWc
次はビゼー作曲の「カルメン」。 二幕ホセとカルメンの二重唱の場面だ。流れの理解が必要なので、幕開きからの説明になるが、まず酒場でのにぎやかな雰囲気で、ジプシーの踊りがあり、そこに人気闘牛士エスカミリオがやってきて、有名な闘牛士の歌をうたう。そのあと、密輸団の五重唱があり、カルメンを誘うが、今恋をしているので加われないとことわる。カルメンが残ったところに、カルメンを逃がした罪で営倉にいれられていたホセがやってくる。カルメンはホセのためにカスタネット片手に踊るが、帰営ラッパがなるので還ろうとするホセを、そんな浅い恋だったのかと罵る。そして、うたわれるのがオペラ史上最高の愛の歌ともいうべき「花の歌」である。そして、帰ろうとした矢先、ホセの上官が現れて、ホセを帰れというので、逆にホセは拒否し、密輸団が現れて上官は押さえつけられて、ホセは密輸団に加わる、というのが、二幕の筋である。そして、二重唱は、ホセが現れてから、上官が現れるまでだが、そこで音楽が中断するわけではない。この場面は、なんといってもクライバー指揮のウィーンフィルが最高だ。「花の歌」の拍手がすさまじい。市販のビデオだとさすがに一部カットされているが、NHK放映のときは、もっとずっと長かった。youtubeには全幕ものがあったので、それをリンクさせておきたい。二重唱の直前の五重唱もぜひきいてほしいが、それは1時間2分半あたりからである。私は、なんどきいてもこの五重唱はおもしろいと思わなかったが、クライバーの演奏をきいて、始めて素晴らしいと感じた。丁度一時間少し経過したあたりから五重唱がはじます。
2幕のみの映像があったのでこれもリンクをはっておく。
https://www.youtube.com/watch?v=5O77mnwdZ_U
https://www.youtube.com/watch?v=u_fh84Iqetc
次はモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ 」二幕のフェランドとフィオルディリージの二重唱である。1950年くらいまでは、反道徳的な内容であるとして、あまり上演されなかったが、今では、人気オペラのひとつであるだけではなく、あらゆるオペラのなかの最高傑作であるという評価も少なくない。私もそう思っている。それは、史上最大の天才作曲家であったモーツァルトの、作曲技術が最高度に発揮されていると考えられるからである。内容は、ある意味たわいないものだが、他面では人間の心理をおそろしいまでに掘りさげ、それを音楽で表現してしまったともいえる。自分たちの愛は永遠だと信じているフェランドとグリエルモにたいして、恋心などすぐに変わってしまうものだという間に、その是非を確かめる賭が行われる。24時間以内に、恋人であるフィオルディリージとドラベラの心変わりをさせられるかどうかということだ。そして、軍人である二人は戦場にいったことにして、相手をチェンジしてせまるわけだ。最初はそうほうがとりあわないが、次第に心に変化がおきて、グリエルモにたいしてドラベラが陥落する。しかし、フィオルディリージは多少心が動きながら、グリエルモへの貞操をまもるために、軍服をきて戦場に行こうとする。そこに、フェランドがやってきて、刀を胸につきつけて、自分を殺してから行ってくれと懇願するなかで、ついに彼女も陥落するという場面である。音楽を聴けば、どんなやりとりがなされているかわかるだろう。
このオペラは、もうひとり女中のデスピーナを含めて、6人の歌手がほとんど平等に扱われて、多様な組み合わせてで重唱を歌う。そして、最初は冗談っぽく振る舞っているのに、少しずつ気持に変化がおきてくる、その過程の描き方がとにかく巧みなのである。そういうところが、最高傑作ということの根拠になっている。
以下の映像は、実は続き物で上の場面である。
https://www.youtube.com/watch?v=99I_dIGN1CMhttps://www.youtube.com/watch?v=bOaAwlqgobY
今回は、そうした音楽的な魅力にあふれた重唱の場面を選んでみた。その条件として、更に、その場面で大きく筋が転回すること、そして、それが主に歌の内容になって起きることという条件で考えてみた。
歌以外の要素がはいって、筋が転回するというのは除いた。例えば、フィガロの結婚には、そうした場面が各幕ごとにある。一幕では、スザンナとケルビーノが話しているところに、伯爵がやってきて、みつかるとこまるケルビーノが大きなソファの後に隠れる。伯爵がうごくとそれにあわせてケルビーノが位置を変えるのだが、やがて見つかってしまう。伯爵はスザンナにいいよるところを見られてしまったので、ばつが悪いのだが、とにかくケルビーノを軍隊行きを命じる。二幕では、クローゼットに隠れていたケルビーノが、伯爵が鍵をとりにいったすきにスザンナといれかわり、ケルビーノは窓からとびおりてしまい、戻った伯爵の前にスザンナが現れるという、いずれも笑いを誘う場面があるのだが、(三幕にも四幕にもあるが省略)、この場合、椅子とクローゼットという道具がうまくつかわれていることで、筋が変化していく。
ここでは、そういうのではなく、あくまでも歌詞の内容が事態を動かしていくような場面をとりあげる。つまり、それは音楽だけの力が状況を変化させていくのであって、それだけ音楽が魅力的なのだということなのだ。
まず最初にヴェルディの「椿姫」の第二幕のビオレッタとジョルジョ・ジェルモンの二重唱をあげたい。
高級娼婦のビオレッタとアルフレードが、パリの郊外で生活を始めているのだが、そこにアルフレードの父ジェルモンがたずねてくる。(そのときアルフレードは不在)ジェルモンは、あなたのような人が息子と一緒にいるので、娘の結婚がうまく進まない。だから息子とわかれてくれというわけだ。そして、どうせ息子のお金で生活しているのだろうと罵る。しかし、実際には、ビオレッタの資産で生活していることを示し、そこは納得するのだが、男は移り気なものだから、どうせ長続きもしないだろう、などと、聞くに堪えないことで、とにかく、一時的にはわかれると承知するビオレッタに、永久にだ、と追い打ちをかける。
仕方なく、わかれることを約束せざるをえなくなり、最後には、かなしい思いで去った人がいることを忘れないでくれと懇願しておわる。そのあと、ビオレッタは、友人のパーティにでかけ、昔の生活に戻ってしまうが、そのあと、アルフレードがかえってきて、父親との対話になる。
youtubeには、丁度この部分をきりとった映像があった。ネトレプコとハンプソンの二重唱だが、大道具がほとんどない簡単な舞台なので、それだけ動作などが大きなものになっている演出で話題になった。
https://www.youtube.com/watch?v=yg9GOdbVdWc
次はビゼー作曲の「カルメン」。 二幕ホセとカルメンの二重唱の場面だ。流れの理解が必要なので、幕開きからの説明になるが、まず酒場でのにぎやかな雰囲気で、ジプシーの踊りがあり、そこに人気闘牛士エスカミリオがやってきて、有名な闘牛士の歌をうたう。そのあと、密輸団の五重唱があり、カルメンを誘うが、今恋をしているので加われないとことわる。カルメンが残ったところに、カルメンを逃がした罪で営倉にいれられていたホセがやってくる。カルメンはホセのためにカスタネット片手に踊るが、帰営ラッパがなるので還ろうとするホセを、そんな浅い恋だったのかと罵る。そして、うたわれるのがオペラ史上最高の愛の歌ともいうべき「花の歌」である。そして、帰ろうとした矢先、ホセの上官が現れて、ホセを帰れというので、逆にホセは拒否し、密輸団が現れて上官は押さえつけられて、ホセは密輸団に加わる、というのが、二幕の筋である。そして、二重唱は、ホセが現れてから、上官が現れるまでだが、そこで音楽が中断するわけではない。この場面は、なんといってもクライバー指揮のウィーンフィルが最高だ。「花の歌」の拍手がすさまじい。市販のビデオだとさすがに一部カットされているが、NHK放映のときは、もっとずっと長かった。youtubeには全幕ものがあったので、それをリンクさせておきたい。二重唱の直前の五重唱もぜひきいてほしいが、それは1時間2分半あたりからである。私は、なんどきいてもこの五重唱はおもしろいと思わなかったが、クライバーの演奏をきいて、始めて素晴らしいと感じた。丁度一時間少し経過したあたりから五重唱がはじます。
2幕のみの映像があったのでこれもリンクをはっておく。
https://www.youtube.com/watch?v=5O77mnwdZ_U
https://www.youtube.com/watch?v=u_fh84Iqetc
次はモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ 」二幕のフェランドとフィオルディリージの二重唱である。1950年くらいまでは、反道徳的な内容であるとして、あまり上演されなかったが、今では、人気オペラのひとつであるだけではなく、あらゆるオペラのなかの最高傑作であるという評価も少なくない。私もそう思っている。それは、史上最大の天才作曲家であったモーツァルトの、作曲技術が最高度に発揮されていると考えられるからである。内容は、ある意味たわいないものだが、他面では人間の心理をおそろしいまでに掘りさげ、それを音楽で表現してしまったともいえる。自分たちの愛は永遠だと信じているフェランドとグリエルモにたいして、恋心などすぐに変わってしまうものだという間に、その是非を確かめる賭が行われる。24時間以内に、恋人であるフィオルディリージとドラベラの心変わりをさせられるかどうかということだ。そして、軍人である二人は戦場にいったことにして、相手をチェンジしてせまるわけだ。最初はそうほうがとりあわないが、次第に心に変化がおきて、グリエルモにたいしてドラベラが陥落する。しかし、フィオルディリージは多少心が動きながら、グリエルモへの貞操をまもるために、軍服をきて戦場に行こうとする。そこに、フェランドがやってきて、刀を胸につきつけて、自分を殺してから行ってくれと懇願するなかで、ついに彼女も陥落するという場面である。音楽を聴けば、どんなやりとりがなされているかわかるだろう。
このオペラは、もうひとり女中のデスピーナを含めて、6人の歌手がほとんど平等に扱われて、多様な組み合わせてで重唱を歌う。そして、最初は冗談っぽく振る舞っているのに、少しずつ気持に変化がおきてくる、その過程の描き方がとにかく巧みなのである。そういうところが、最高傑作ということの根拠になっている。
以下の映像は、実は続き物で上の場面である。
https://www.youtube.com/watch?v=99I_dIGN1CMhttps://www.youtube.com/watch?v=bOaAwlqgobY
「鬼平犯科帳」殺人者となった武士の処遇 ― 2024年07月25日 07:47
鬼平犯科帳の魅力のひとつは、人間を単純なパターンに押し込めない点である。人は悪いことをしつつ、善いことをする、善いことをしながら、悪いことをする、善人と悪人の差は紙一重だというのが、基本にある。だから、盗賊であっても、許して密偵にする場合もあるし、容赦なく磔の刑にしてしまう、あるいは切り捨てる場合もある。
そして、自分の部下も悪事に染まってしまう例がけっこうある。その事後措置はけっして一様ではない。悪事が深刻で重大な場合には、平蔵自身が切り捨ててしまう。「殺しの波紋」では、与力の富田達五郎は、殺害現場を見られてしまい、みた人物が、弟を富田に殺害された竹松であったために、100両もってこいと脅迫される。そして100両つくるために辻斬りなどをしていることが発覚して、平蔵に切られてしまう。お吉なる女性を恐喝していた黒沢勝之助は、お吉が雇った殺し屋に切られそうになるのを平蔵が捕縛し、切腹を命じる。だが、美人局にひっかかった佐々木新助は、盗賊改方の警備情報を盗賊側に伝え、更に盗みのさいの見張りまで勤めてしまう。そして、平蔵に悟られたと錯覚して、お才をとらえようと乗り込むが、逆に盗賊達に切られてしまう。平蔵は真相をしったが、だれもそれを知っていないこともあり、新助が、秘密の探索を行っている最中に逆に殺害されたということにして、業務上の死という扱いにしてしまう。(「あばたの新助」)これは、新助の罪はかなり重いはずであるが、平蔵が温情をかけた事例となる。より微妙なのは、「狐雨」の青木助五郎の事例である。青木は、若いころに出入りしていた盗賊と情報のやりとりをして、彼に便宜をはかり、また小物の盗賊の情報をえて手柄としていた。そのことを平蔵に察知されたと思った青木は、狐に取りつかれた風を装って、とりついた狐が自白をする。その後重病となるが、死亡したかどうかは書かれていない。
したがって、青木が罰せられることもなかったようだ。
このように、与力、同心の場合には、それぞれの悪事によって、平蔵はかなり異なった対処をしている。
しかし、特に、平蔵と親しかった侍の場合には、かなり部下とは異なる対応になるように、物語を結んでいる。
「泥鰌の和助始末」に登場する松岡重兵衛は、若いころ平蔵が通っていた道場の指南の一人だったが、実は盗賊であり、一度だけ盗みの手伝いをしそうになったとき、松岡が、叱ってくれたというできごとがあった。その松岡が、久しぶりに、盗みの手伝いをするのだが、結果として、他の助っ人にだまされて、獲物をとられた上に、殺害されてしまう。優れた剣豪である割には、少々不自然なことだが、瀕死の状態の松岡のもとに平蔵がかけつけ、そこで息をひきとる。
松岡が盗みに加わっているかもしれないというときに、平蔵と左馬之助の間で、捕らえるかどうかの論争がなされるが、平蔵は捕らえるといい、左馬之助はそれを非難することがあった。
「高杉道場・三羽烏」では、平蔵、左馬之助とともに三羽烏といわれた長沼又兵衛は、いまや盗賊の首領となっている。そして、粂八の「鶴屋」で密談をしていた手下の話で、計画が平蔵に知らされ、高利貸しをして暴利をむさぼっていた僧侶を襲うことになっていた。その寺に一時的に泊り込んでいた平蔵が、又兵衛と合い交え、切腹せよ、そうしたら家名を傷つけないようにするというが、受け付けない又兵衛を切り捨てる。
「乞食坊主」で、平蔵の昔の剣友井関録之助は、ふとしたことで盗賊二人の会話をきいてしまったために、盗賊がやとった刺客に狙われる。その刺客は、また平蔵の同門の菅野伊介だった。菅野は貧乏御家人の息子で、家が潰れ、結局殺し屋になっていた。そこでたまたま録之助の殺害を依頼されたのである。そこで、録之助は平蔵のところにやってきて、事情を説明し、菅野の助命を頼むのだった。平蔵はそれへの回答を与えないまま、井関に協力を求め、最終的に、会話をきいた盗賊たちの盗みの現場を抑え、逮捕にいたるが、これから、菅野と話をしにいこうという朝に、菅野自害の知らせがくるのである。
小説では、ここでそのまま終るが、ドラマでは、井関が、自害の知らせをうけて、平蔵に、「あなたは、菅野が自害をするのを知っていたね」といって、そうしむけたかのように平蔵を非難する場面を創作している。この違いは、興味深い。
そして、「霜夜」では、たまたま料亭のとなりで食事をしていた池田又四郎に、平蔵は気づくが、声をかけることなく、あとをつける。池田又四郎は、若いころ、平蔵が継母にいじめられ、跡継ぎのために養子をとるなどと継母が主張していたときに、それなら又四郎を養子としようと目論見、かつ継母の殺害を目論む、という過去があった。又四郎は、拒否し、交流が途絶えるのだが、やがて又四郎は江戸から出奔してしまう。平蔵がみたときの又四郎は、盗賊の仲間になっており、盗賊を裏切った女の殺害を命じられたのだが、女はかつての妻の妹であったために、殺害を躊躇していた。それで歩き回っていたし、また、仲間に催促されていたのである。事情をわからないままに帰宅した平蔵のところに、又四郎からの手紙が届けられており、事情を説明して、平蔵に助けをもとめていた。しかし、平蔵を会えなかったために、盗賊たちと闘う決意をしていたのだった。そして、日時と場所を指定していたので、そこにかけつけると、仲間の盗賊たちをうちとったが、自身も重傷をおっており、結局平蔵の下で死んでしまう。
昔の親しい友人であった者が、盗賊となっていた武士たちの事例は、これだけだと思われる。そして、いずれも、彼らを死んでいるのである。平蔵自身が切り捨ててしまうのは、長沼又兵衛だけだし、いかにも、助命の意思があるかのように思われた菅野も、結局平蔵の意思を察したのか、自害してしまう。
この意味を、いろいろと考えてしまう。
やはり、武士である以上、悪事を働いてしまった者は、最終的には罪を償う必要がある。武士ではない町人の盗賊は、悔い改め、殺人などおかしていない場合には、密偵としてつかうことはあっても、それは武士にはあてはめることはできない。そういう意思を明瞭に表わしているとも考えられる。
しかし、そうではないのかもしれないとも思えるのである。いずれの場合も、優れた剣客なのだから、密偵というより、左馬之助のような助っ人として活用することは、充分に可能である。そうする試みをあってもよいはずである。池波正太郎も、そういうことを考えたに違いない。
だが、結局は、与力・同心も含めて、武士たるもの、死罪にあたるような悪事をなしたときには、情状の余地はないのだ、という「倫理観」を押し出したと考えるのが妥当だろう。それにしても、最近の自民党の「悪事」をまったく反省しない姿勢には、呆れてしまうのである。
そして、自分の部下も悪事に染まってしまう例がけっこうある。その事後措置はけっして一様ではない。悪事が深刻で重大な場合には、平蔵自身が切り捨ててしまう。「殺しの波紋」では、与力の富田達五郎は、殺害現場を見られてしまい、みた人物が、弟を富田に殺害された竹松であったために、100両もってこいと脅迫される。そして100両つくるために辻斬りなどをしていることが発覚して、平蔵に切られてしまう。お吉なる女性を恐喝していた黒沢勝之助は、お吉が雇った殺し屋に切られそうになるのを平蔵が捕縛し、切腹を命じる。だが、美人局にひっかかった佐々木新助は、盗賊改方の警備情報を盗賊側に伝え、更に盗みのさいの見張りまで勤めてしまう。そして、平蔵に悟られたと錯覚して、お才をとらえようと乗り込むが、逆に盗賊達に切られてしまう。平蔵は真相をしったが、だれもそれを知っていないこともあり、新助が、秘密の探索を行っている最中に逆に殺害されたということにして、業務上の死という扱いにしてしまう。(「あばたの新助」)これは、新助の罪はかなり重いはずであるが、平蔵が温情をかけた事例となる。より微妙なのは、「狐雨」の青木助五郎の事例である。青木は、若いころに出入りしていた盗賊と情報のやりとりをして、彼に便宜をはかり、また小物の盗賊の情報をえて手柄としていた。そのことを平蔵に察知されたと思った青木は、狐に取りつかれた風を装って、とりついた狐が自白をする。その後重病となるが、死亡したかどうかは書かれていない。
したがって、青木が罰せられることもなかったようだ。
このように、与力、同心の場合には、それぞれの悪事によって、平蔵はかなり異なった対処をしている。
しかし、特に、平蔵と親しかった侍の場合には、かなり部下とは異なる対応になるように、物語を結んでいる。
「泥鰌の和助始末」に登場する松岡重兵衛は、若いころ平蔵が通っていた道場の指南の一人だったが、実は盗賊であり、一度だけ盗みの手伝いをしそうになったとき、松岡が、叱ってくれたというできごとがあった。その松岡が、久しぶりに、盗みの手伝いをするのだが、結果として、他の助っ人にだまされて、獲物をとられた上に、殺害されてしまう。優れた剣豪である割には、少々不自然なことだが、瀕死の状態の松岡のもとに平蔵がかけつけ、そこで息をひきとる。
松岡が盗みに加わっているかもしれないというときに、平蔵と左馬之助の間で、捕らえるかどうかの論争がなされるが、平蔵は捕らえるといい、左馬之助はそれを非難することがあった。
「高杉道場・三羽烏」では、平蔵、左馬之助とともに三羽烏といわれた長沼又兵衛は、いまや盗賊の首領となっている。そして、粂八の「鶴屋」で密談をしていた手下の話で、計画が平蔵に知らされ、高利貸しをして暴利をむさぼっていた僧侶を襲うことになっていた。その寺に一時的に泊り込んでいた平蔵が、又兵衛と合い交え、切腹せよ、そうしたら家名を傷つけないようにするというが、受け付けない又兵衛を切り捨てる。
「乞食坊主」で、平蔵の昔の剣友井関録之助は、ふとしたことで盗賊二人の会話をきいてしまったために、盗賊がやとった刺客に狙われる。その刺客は、また平蔵の同門の菅野伊介だった。菅野は貧乏御家人の息子で、家が潰れ、結局殺し屋になっていた。そこでたまたま録之助の殺害を依頼されたのである。そこで、録之助は平蔵のところにやってきて、事情を説明し、菅野の助命を頼むのだった。平蔵はそれへの回答を与えないまま、井関に協力を求め、最終的に、会話をきいた盗賊たちの盗みの現場を抑え、逮捕にいたるが、これから、菅野と話をしにいこうという朝に、菅野自害の知らせがくるのである。
小説では、ここでそのまま終るが、ドラマでは、井関が、自害の知らせをうけて、平蔵に、「あなたは、菅野が自害をするのを知っていたね」といって、そうしむけたかのように平蔵を非難する場面を創作している。この違いは、興味深い。
そして、「霜夜」では、たまたま料亭のとなりで食事をしていた池田又四郎に、平蔵は気づくが、声をかけることなく、あとをつける。池田又四郎は、若いころ、平蔵が継母にいじめられ、跡継ぎのために養子をとるなどと継母が主張していたときに、それなら又四郎を養子としようと目論見、かつ継母の殺害を目論む、という過去があった。又四郎は、拒否し、交流が途絶えるのだが、やがて又四郎は江戸から出奔してしまう。平蔵がみたときの又四郎は、盗賊の仲間になっており、盗賊を裏切った女の殺害を命じられたのだが、女はかつての妻の妹であったために、殺害を躊躇していた。それで歩き回っていたし、また、仲間に催促されていたのである。事情をわからないままに帰宅した平蔵のところに、又四郎からの手紙が届けられており、事情を説明して、平蔵に助けをもとめていた。しかし、平蔵を会えなかったために、盗賊たちと闘う決意をしていたのだった。そして、日時と場所を指定していたので、そこにかけつけると、仲間の盗賊たちをうちとったが、自身も重傷をおっており、結局平蔵の下で死んでしまう。
昔の親しい友人であった者が、盗賊となっていた武士たちの事例は、これだけだと思われる。そして、いずれも、彼らを死んでいるのである。平蔵自身が切り捨ててしまうのは、長沼又兵衛だけだし、いかにも、助命の意思があるかのように思われた菅野も、結局平蔵の意思を察したのか、自害してしまう。
この意味を、いろいろと考えてしまう。
やはり、武士である以上、悪事を働いてしまった者は、最終的には罪を償う必要がある。武士ではない町人の盗賊は、悔い改め、殺人などおかしていない場合には、密偵としてつかうことはあっても、それは武士にはあてはめることはできない。そういう意思を明瞭に表わしているとも考えられる。
しかし、そうではないのかもしれないとも思えるのである。いずれの場合も、優れた剣客なのだから、密偵というより、左馬之助のような助っ人として活用することは、充分に可能である。そうする試みをあってもよいはずである。池波正太郎も、そういうことを考えたに違いない。
だが、結局は、与力・同心も含めて、武士たるもの、死罪にあたるような悪事をなしたときには、情状の余地はないのだ、という「倫理観」を押し出したと考えるのが妥当だろう。それにしても、最近の自民党の「悪事」をまったく反省しない姿勢には、呆れてしまうのである。
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