オリンピックのボクシングの性別問題を考える ― 2024年08月09日 21:30
パリオリンピックが開催中であり、さまざまな議論がなされているが、大きなひとつが、女子ボクンシグにおけるふたりのトランス・ジェンダー選手の問題であろう。世界選手権では、男性だと判断されて出場を認められなかった二人の選手が、パリオリンピックでは、パスポートに記された男女別によって認めるという形で、出場が認められ、イタリア選手が、かつて経験したことのない強力なパンチを受けたとして、途中棄権する事態になった。
この問題は以前から論議されているが、結局、組織により、また個人により、見解がことなり、社会的合意が形成されていないのだといわざるをえない。
そもそもLGBTという言葉が、必ずしも共通理解があるわけではなく、人や団体によって、対立的な相違もあるようである。社会的な差別への取り組みで、広範にそうした対立的多様性はみられるものである。日本の代表的な社会的な差別であった部落問題でも、ある団体から、差別克服の優れた文学であるとみなされている作品が、他の団体から、かえって差別を助長する作品であると批判される、というようなこともある。(『橋のない川』など)そして、差別対応のあり方についても、1960年代から90年代にかけて、激しい運動上の対立があった。
アメリカの黒人差別への対応にしても、たとえばアファーマティブ・アクションにたいしては、いまでもアメリカ社会は共通理解に達しているとはいえず、激しい対立状況にあるといえる。
移民問題の扱いに対する政治的対立なども、現代における典型的な例である。
女性差別に対する運動についても、19世紀以来のさまざまな潮流がある。
政治的不平等からの解放、経済的平等の実現などは、古典的な女性解放運動だったといえるが、ウーマン・リブ運動などから、より社会的な意識のなかにある差別感情を問題とするようになり、そして、更に、性的志向の平等を訴える運動がおきてくる。それらを統合するような概念として、LGBTという標語が生れ、現在大きな社会運動となっている。しかし、差別解消論における多様性、対立性をまぬがれていないといえる。スポーツにおけるTの扱いなどがその典型であり、それが今回のオリンピックで現実的な問題として現れたということだろう。
私は、もちろん、LGBTの基本理念、性による不当な差別は許されない、という理念は、まったく賛成である。私は定年退職したので、現在では遭遇しないが、まだ現職だったときには、毎年、LGBTに該当する学生が聴講しているので、注意を願います、などという通知を受け取っていた。しかし、どういう「注意」をすればよいのか、に関する説明は、少なくとも私がいたときには、一切なされなかった。そして、そういう学生が聴講しているという通知は受けるが、誰がそうなのかは、知らされたことがなかった。だから、実際に、この学生がそうだ、という意識でみたことは一度もないし、誰のことかもまったく認識できなかった。実のところ、知ろうとも思わなかった。まさか、そうした観点で成績に影響させたり、受講を制限したりする、などということは、少なくとも私の勤めていた大学では聞いたこともない。ただ、体育の授業もあったから、そこでは問題があったかも知れない。
さて、今回の問題をどう考えるか。
私はLGBT運動をしているひとたちでも、生物学的な性、社会的な性(ジェンダー)、そして性的志向が、きちんと区別されずに、あいまいに都合のよい用に主張されている部分があるのではないかという印象が拭えない。
基本は、生物学的な性であり、それはXXとXY染色体の相違、そして、生殖機能の相違によって、判断されるだろう。この相違は、現代の医学では変更不可能なはずであり、スポーツのように、生物学的な男女では大きな影響がある分野では、男女は厳格に区別されるべきである。したがって、今回の事例では、染色体が明確に男性のものである以上、女子として出場を認めたIOCの決定は、間違っていたといわざるをえない。
これにたいして、日本の女性の大学教授が、染色体といっても、このふたつの種類だけではなく、他のパターンもあるのだ、といって、IOCを支持するような発言をしていた人がいるが、他のパターンの場合には、別の規準(たとえばホルモン等)で判断する必要があるだろうが、少なくとも、今回の事例は、明確に男性の染色体だったのだからは、多様性によるあいまいかは許されない。
こうしたことに誤解をあたえるのが、T、トランスジェンダーということだろう。トランスジェンダーはジェンダーを変えることであって、決して、生物的な性を変えることではない。手術をしたとしても、外形を変えるだけである。だから、トランスジェンダーしたといって、女性としてスポーツ大会にでることが許されるのはおかしいのである。
このようなことは、ごく当たり前のことだと思うのだが、誤解している人も少なくないようなので、書くことにした。
この問題は以前から論議されているが、結局、組織により、また個人により、見解がことなり、社会的合意が形成されていないのだといわざるをえない。
そもそもLGBTという言葉が、必ずしも共通理解があるわけではなく、人や団体によって、対立的な相違もあるようである。社会的な差別への取り組みで、広範にそうした対立的多様性はみられるものである。日本の代表的な社会的な差別であった部落問題でも、ある団体から、差別克服の優れた文学であるとみなされている作品が、他の団体から、かえって差別を助長する作品であると批判される、というようなこともある。(『橋のない川』など)そして、差別対応のあり方についても、1960年代から90年代にかけて、激しい運動上の対立があった。
アメリカの黒人差別への対応にしても、たとえばアファーマティブ・アクションにたいしては、いまでもアメリカ社会は共通理解に達しているとはいえず、激しい対立状況にあるといえる。
移民問題の扱いに対する政治的対立なども、現代における典型的な例である。
女性差別に対する運動についても、19世紀以来のさまざまな潮流がある。
政治的不平等からの解放、経済的平等の実現などは、古典的な女性解放運動だったといえるが、ウーマン・リブ運動などから、より社会的な意識のなかにある差別感情を問題とするようになり、そして、更に、性的志向の平等を訴える運動がおきてくる。それらを統合するような概念として、LGBTという標語が生れ、現在大きな社会運動となっている。しかし、差別解消論における多様性、対立性をまぬがれていないといえる。スポーツにおけるTの扱いなどがその典型であり、それが今回のオリンピックで現実的な問題として現れたということだろう。
私は、もちろん、LGBTの基本理念、性による不当な差別は許されない、という理念は、まったく賛成である。私は定年退職したので、現在では遭遇しないが、まだ現職だったときには、毎年、LGBTに該当する学生が聴講しているので、注意を願います、などという通知を受け取っていた。しかし、どういう「注意」をすればよいのか、に関する説明は、少なくとも私がいたときには、一切なされなかった。そして、そういう学生が聴講しているという通知は受けるが、誰がそうなのかは、知らされたことがなかった。だから、実際に、この学生がそうだ、という意識でみたことは一度もないし、誰のことかもまったく認識できなかった。実のところ、知ろうとも思わなかった。まさか、そうした観点で成績に影響させたり、受講を制限したりする、などということは、少なくとも私の勤めていた大学では聞いたこともない。ただ、体育の授業もあったから、そこでは問題があったかも知れない。
さて、今回の問題をどう考えるか。
私はLGBT運動をしているひとたちでも、生物学的な性、社会的な性(ジェンダー)、そして性的志向が、きちんと区別されずに、あいまいに都合のよい用に主張されている部分があるのではないかという印象が拭えない。
基本は、生物学的な性であり、それはXXとXY染色体の相違、そして、生殖機能の相違によって、判断されるだろう。この相違は、現代の医学では変更不可能なはずであり、スポーツのように、生物学的な男女では大きな影響がある分野では、男女は厳格に区別されるべきである。したがって、今回の事例では、染色体が明確に男性のものである以上、女子として出場を認めたIOCの決定は、間違っていたといわざるをえない。
これにたいして、日本の女性の大学教授が、染色体といっても、このふたつの種類だけではなく、他のパターンもあるのだ、といって、IOCを支持するような発言をしていた人がいるが、他のパターンの場合には、別の規準(たとえばホルモン等)で判断する必要があるだろうが、少なくとも、今回の事例は、明確に男性の染色体だったのだからは、多様性によるあいまいかは許されない。
こうしたことに誤解をあたえるのが、T、トランスジェンダーということだろう。トランスジェンダーはジェンダーを変えることであって、決して、生物的な性を変えることではない。手術をしたとしても、外形を変えるだけである。だから、トランスジェンダーしたといって、女性としてスポーツ大会にでることが許されるのはおかしいのである。
このようなことは、ごく当たり前のことだと思うのだが、誤解している人も少なくないようなので、書くことにした。
途上国からの脱出4 悠仁親王の進学問題 ― 2024年08月15日 20:39
今日は終戦(敗戦)の日とされている。正式に戦争が終ったのは9月の降伏文書の調印であるが、一般的には8月15日に戦争が終了したとされている。これは、天皇がポツダム宣言の受諾をラジオ放送したことによって、戦争が終ったのだという、一種の天皇制の意味づけを行っていることだと解釈できる。だが、戦前は決して許容されなかった天皇への批判も、戦後は可能になった。現在でもタブー視されている面はあるが、戦前に比較すれば、健全な状態になっているといえるだろう。しかし、しばらくは国民にも支持されてきた天皇制度も、近年不祥事もあり、国民の信頼はかなり低下しているように思われる。そしてそれが加速するような事態が起きつつある。
さて、現在、様々な面で日本の社会システムの制度疲労ともいうべき点が露になっているが、「能力主義」という面からみても、適切な意味での能力主義に反する現象が拡大しているように思われる。
教育学の世界では、「能力主義」は現代の教育を歪めている最大の社会的価値意識であると考えられているが、それは、一般社会のあいだでは、それほど貫徹しているようには思えない「能力主義」が、学校教育のなかでは、かなり人々が囚われている考えであり、測られる能力がかなり一面的であるにせよ、それなりに「能力主義」によって、教育が実行されていると考えられてきたからであろう。しかし、学校教育の分野でも、究めて問題ある形で、能力主義をよい意味ではなく、まったく悪い形で蹂躙する動きが進展している。天皇継承順位2位とされている秋篠宮悠仁親王の進学問題である。この進学問題自体は、幼稚園入園からはじまり、中学進学、高校進学と続いて行われ、そして、いよいよ大学進学へと進んできたことは、国民周知のことである。そして、すべての段階で、国民が許容するとはいえない形での、皇室特権によって入園、進学が行われてきた。形の上では、制度によって進学がなされてきたが、皇室特権が行使される形で実質的には進学が実現してきたことは、否定しようがない。
そして、その弊害は悠仁親王自身にも及んでいると考えられている。
筑波大学附属高校は、有名な進学校である。私自身、この学校ではないが、同系列の附属の出身であり、おそらく、授業や生徒の雰囲気は似たようなものだと思うので、悠仁親王が、どのような状況にあるかは、だいたい想像がつく。
表面的には、なんら問題がないかのように、平穏な関係が取り結ばれているだろう。試験の結果は当然当人に知らされるだろうが、全体の順位等については、おそらく本人にも知らされていないはずである。だから、彼の成績がまわりの生徒たちに知られることはないだろう。そして、それを詮索したり、あいつは能力がない、などという態度をとられることもないだろう。それだけ大人の生徒が多く、多様性を認める雰囲気があるからである。
しかし、だれが優秀な生徒であるかは、おのずとわかる。そして、通常はほとんど存在しないのだが、授業にほとんどついていけない生徒がいれば、そのことも自ずと感じ取られるものだ。一度も受験勉強などをせずに進学して、特別に成績がよかったわけでもない人が、こうした有名進学校に入れば、授業についていける可能性は究めて低いことも、ほぼ予想がつく。このことは、悠仁親王が筑付に進学する前からいわれていたことであり、おりおり報道もされてきた。とくに筑付のような学校では、特別な補習とか、そういった対応も通常は一切しない。だから、置き去りにされたままになるに違いない。(悠仁親王のように特別な人は、特別な対応をとられているかも知れないが。)
こうした矢先、「週刊文春」が、「秋篠宮家の帝王教育は大丈夫か? 筑付で『異例の成績』 ひさひとさまの真実」という記事が掲載された。私にとっては、意外でもなんでもない記事だったが、こうした公の形で、悠仁親王の筑付における成績が、「生物」以外は惨憺たるものであって、とても進級できるものではないことが報道されてしまった。そうした成績であることは、ごく自然な状況といわねばならないだろう。常識的にみれば、東大どころか、偏差値の高い大学への進学など、正規の手続によって受験すれば、まず合格しないに違いない。
しかし、他の週刊誌は、東大に推薦入学で応募すれば、確実に合格すると書いているものがある。その根拠は、学会誌に掲載されたトンボの研究が根拠となっている。では、この学術論文はどうなのか。中学時代に、作文コンクールで入賞したとされるものが、他の文章からの剽窃があったことが指摘されたことは、まだ多くの人が記憶しているだろう。さすがに今回は、そうしたことはないだろう。そして、10年近くトンボの観察を行ったことは事実なのだろう。しかし、それを学術論文としてまとめ、審査に通るような形までもっていくことに、悠仁親王か主な貢献をした、と考えている者は、どれだけいるだろうか。もし、そう考えている人がいるとしたら、よほど学術論文が書かれる際の状況について、知らないのだといわざるをえない。
とくに理系の学術論文は、だれが本当の著者であるかを確定することは、実はとても難しい場合がある。通常は,最初に名前があがっている者(ファースト・オーサー)が中心的な役割をはたし、最後にある者(コレスポンデント・オーサー)が指導をしていると考えられる。しかし、通常理系の研究は、共同研究だから、2番目、3番目のひとたちが大きな功績がある場合もあるし、また例は少ないとは思われるが、業績つくりのために、実際には、2番目3番目の役割なのに、あえてフォースト・オーサーにしてもらって、著名な学術誌に掲載されたことで就職できる、というようなこともある。そうした実例を知っている。
悠仁親王の論文の場合、当該分野の著名な研究者が共同研究者となっているということだから、観察データなどを作成したのが親王だったとしても、そのデータを取捨選択し、整え、そして論理構成を含めて「作文」したのが、悠仁親王だというは、ほとんどありえないことである。それを行ったのは、その著名な研究者のほうであることは間違いない。
さて、もし悠仁親王が、筑付における東大推薦入試の枠に選択され、そして合格したとしたら、常識的に考えて、ふたつの不適切な選定が実行されたと考えざるをえないだろう。
第一は、筑付としての4名の推薦枠にいれるために、本来はいるはずの実力をもった者が除外されたということ。そして、共通テストの点数をなんらかの形で操作されたということ、このふたつである。推薦枠にはいるためには、当然筑付での成績が究めてよくなければならない。しかし、確定的事実ではないかも知れないが、文春によって、生物以外の科目は、ほとんどが「異例」の成績であるということだから、推薦枠にはいるはずがないのである。そして、同じ理由によって、共通テストで8割という高得点をとれるはずがないということだ。そもそも、普段の生活で、受験勉強をしているようには思われないのに、そんな高得点をとれるはずがないと断言できる。究めて優秀な生徒が、たまたま調子が悪く低い点をとることはあっても、進級もできないような学力で、受験勉強をしていない生徒が、やさしいとはいえないテスト(しかも科目数が多い)で8割をとるなどということは、おこり得ないといってよい。
筑付にしても、東大にしても、国立の教育機関であって、国民の税金で成り立っており、その入学については、公正な入学試験に合格したことをもって許可されるものである。少なくとも、国民の多くはそうしたことが実際に行われていると信頼しているだろう。そして、悠仁親王が、東大に合格し、それが皇室特権のごり押しだったとしても、表の論理としては、試験に正当に合格したと、されるならば、それは日本の学校教育の根本原則が踏みにじられたことになる。そして、国民の信頼によって成立している東大や筑付の権威が大きく揺らぐことになる。そして日本人にあたえる、負の精神作用も小さくないだろう。
もちろん、日本の学校が全体として、それほど信頼できるような形で運営されているものではないが、しかし、それでも、公正であるべきだという意識が揺らいでいるわけではない。それが揺らいでしまう危険がある。
そして、それを秋篠宮が強行したとすれば、それは将来の天皇制というシステムにたいして、大きな傷を残し、制度そのものが崩壊する要因のひとつとなるに違いない。
もっとも、私は、悠仁親王が東大で学ぶことは絶対にあってはならないと思っているわけではない。将来天皇になる可能性がある人であることは間違いないのだから、そのために、ぜひ東大で学びたいというのであれば、入学試験ということとは無関係に、つまり試験など受けずに、更に入学定員にまったく影響をあたえず、また筑付の推薦枠にも影響しない形で、東大での学習を認めることを、特別にきめるのであれば、私はかまわないと思っている。そして、単位をとりたければとるもよし、学びたいことだけをまなび、試験などを受けないというのもありだろう。単位認定に関しては、一切の特別措置をとらないことは当然である。むしろ、単位もとらず、学びたいことを学んだから、自然退学となる。皇室に「東大卒」などという「資格」は、まったく不要である。個人的な見栄で、国全体の教育制度の公正さを破壊しようというのは、「国民の信託」に基づく皇室のやることではあるまい。
さて、現在、様々な面で日本の社会システムの制度疲労ともいうべき点が露になっているが、「能力主義」という面からみても、適切な意味での能力主義に反する現象が拡大しているように思われる。
教育学の世界では、「能力主義」は現代の教育を歪めている最大の社会的価値意識であると考えられているが、それは、一般社会のあいだでは、それほど貫徹しているようには思えない「能力主義」が、学校教育のなかでは、かなり人々が囚われている考えであり、測られる能力がかなり一面的であるにせよ、それなりに「能力主義」によって、教育が実行されていると考えられてきたからであろう。しかし、学校教育の分野でも、究めて問題ある形で、能力主義をよい意味ではなく、まったく悪い形で蹂躙する動きが進展している。天皇継承順位2位とされている秋篠宮悠仁親王の進学問題である。この進学問題自体は、幼稚園入園からはじまり、中学進学、高校進学と続いて行われ、そして、いよいよ大学進学へと進んできたことは、国民周知のことである。そして、すべての段階で、国民が許容するとはいえない形での、皇室特権によって入園、進学が行われてきた。形の上では、制度によって進学がなされてきたが、皇室特権が行使される形で実質的には進学が実現してきたことは、否定しようがない。
そして、その弊害は悠仁親王自身にも及んでいると考えられている。
筑波大学附属高校は、有名な進学校である。私自身、この学校ではないが、同系列の附属の出身であり、おそらく、授業や生徒の雰囲気は似たようなものだと思うので、悠仁親王が、どのような状況にあるかは、だいたい想像がつく。
表面的には、なんら問題がないかのように、平穏な関係が取り結ばれているだろう。試験の結果は当然当人に知らされるだろうが、全体の順位等については、おそらく本人にも知らされていないはずである。だから、彼の成績がまわりの生徒たちに知られることはないだろう。そして、それを詮索したり、あいつは能力がない、などという態度をとられることもないだろう。それだけ大人の生徒が多く、多様性を認める雰囲気があるからである。
しかし、だれが優秀な生徒であるかは、おのずとわかる。そして、通常はほとんど存在しないのだが、授業にほとんどついていけない生徒がいれば、そのことも自ずと感じ取られるものだ。一度も受験勉強などをせずに進学して、特別に成績がよかったわけでもない人が、こうした有名進学校に入れば、授業についていける可能性は究めて低いことも、ほぼ予想がつく。このことは、悠仁親王が筑付に進学する前からいわれていたことであり、おりおり報道もされてきた。とくに筑付のような学校では、特別な補習とか、そういった対応も通常は一切しない。だから、置き去りにされたままになるに違いない。(悠仁親王のように特別な人は、特別な対応をとられているかも知れないが。)
こうした矢先、「週刊文春」が、「秋篠宮家の帝王教育は大丈夫か? 筑付で『異例の成績』 ひさひとさまの真実」という記事が掲載された。私にとっては、意外でもなんでもない記事だったが、こうした公の形で、悠仁親王の筑付における成績が、「生物」以外は惨憺たるものであって、とても進級できるものではないことが報道されてしまった。そうした成績であることは、ごく自然な状況といわねばならないだろう。常識的にみれば、東大どころか、偏差値の高い大学への進学など、正規の手続によって受験すれば、まず合格しないに違いない。
しかし、他の週刊誌は、東大に推薦入学で応募すれば、確実に合格すると書いているものがある。その根拠は、学会誌に掲載されたトンボの研究が根拠となっている。では、この学術論文はどうなのか。中学時代に、作文コンクールで入賞したとされるものが、他の文章からの剽窃があったことが指摘されたことは、まだ多くの人が記憶しているだろう。さすがに今回は、そうしたことはないだろう。そして、10年近くトンボの観察を行ったことは事実なのだろう。しかし、それを学術論文としてまとめ、審査に通るような形までもっていくことに、悠仁親王か主な貢献をした、と考えている者は、どれだけいるだろうか。もし、そう考えている人がいるとしたら、よほど学術論文が書かれる際の状況について、知らないのだといわざるをえない。
とくに理系の学術論文は、だれが本当の著者であるかを確定することは、実はとても難しい場合がある。通常は,最初に名前があがっている者(ファースト・オーサー)が中心的な役割をはたし、最後にある者(コレスポンデント・オーサー)が指導をしていると考えられる。しかし、通常理系の研究は、共同研究だから、2番目、3番目のひとたちが大きな功績がある場合もあるし、また例は少ないとは思われるが、業績つくりのために、実際には、2番目3番目の役割なのに、あえてフォースト・オーサーにしてもらって、著名な学術誌に掲載されたことで就職できる、というようなこともある。そうした実例を知っている。
悠仁親王の論文の場合、当該分野の著名な研究者が共同研究者となっているということだから、観察データなどを作成したのが親王だったとしても、そのデータを取捨選択し、整え、そして論理構成を含めて「作文」したのが、悠仁親王だというは、ほとんどありえないことである。それを行ったのは、その著名な研究者のほうであることは間違いない。
さて、もし悠仁親王が、筑付における東大推薦入試の枠に選択され、そして合格したとしたら、常識的に考えて、ふたつの不適切な選定が実行されたと考えざるをえないだろう。
第一は、筑付としての4名の推薦枠にいれるために、本来はいるはずの実力をもった者が除外されたということ。そして、共通テストの点数をなんらかの形で操作されたということ、このふたつである。推薦枠にはいるためには、当然筑付での成績が究めてよくなければならない。しかし、確定的事実ではないかも知れないが、文春によって、生物以外の科目は、ほとんどが「異例」の成績であるということだから、推薦枠にはいるはずがないのである。そして、同じ理由によって、共通テストで8割という高得点をとれるはずがないということだ。そもそも、普段の生活で、受験勉強をしているようには思われないのに、そんな高得点をとれるはずがないと断言できる。究めて優秀な生徒が、たまたま調子が悪く低い点をとることはあっても、進級もできないような学力で、受験勉強をしていない生徒が、やさしいとはいえないテスト(しかも科目数が多い)で8割をとるなどということは、おこり得ないといってよい。
筑付にしても、東大にしても、国立の教育機関であって、国民の税金で成り立っており、その入学については、公正な入学試験に合格したことをもって許可されるものである。少なくとも、国民の多くはそうしたことが実際に行われていると信頼しているだろう。そして、悠仁親王が、東大に合格し、それが皇室特権のごり押しだったとしても、表の論理としては、試験に正当に合格したと、されるならば、それは日本の学校教育の根本原則が踏みにじられたことになる。そして、国民の信頼によって成立している東大や筑付の権威が大きく揺らぐことになる。そして日本人にあたえる、負の精神作用も小さくないだろう。
もちろん、日本の学校が全体として、それほど信頼できるような形で運営されているものではないが、しかし、それでも、公正であるべきだという意識が揺らいでいるわけではない。それが揺らいでしまう危険がある。
そして、それを秋篠宮が強行したとすれば、それは将来の天皇制というシステムにたいして、大きな傷を残し、制度そのものが崩壊する要因のひとつとなるに違いない。
もっとも、私は、悠仁親王が東大で学ぶことは絶対にあってはならないと思っているわけではない。将来天皇になる可能性がある人であることは間違いないのだから、そのために、ぜひ東大で学びたいというのであれば、入学試験ということとは無関係に、つまり試験など受けずに、更に入学定員にまったく影響をあたえず、また筑付の推薦枠にも影響しない形で、東大での学習を認めることを、特別にきめるのであれば、私はかまわないと思っている。そして、単位をとりたければとるもよし、学びたいことだけをまなび、試験などを受けないというのもありだろう。単位認定に関しては、一切の特別措置をとらないことは当然である。むしろ、単位もとらず、学びたいことを学んだから、自然退学となる。皇室に「東大卒」などという「資格」は、まったく不要である。個人的な見栄で、国全体の教育制度の公正さを破壊しようというのは、「国民の信託」に基づく皇室のやることではあるまい。
鬼平犯科帳 がっかりする話3 瓶割り小僧 ― 2024年08月29日 20:44
鬼平犯科帳ネタで「がっかりする話」を2回、中途半端になっているので、もう少し続けてみたい。優に100を越える話があるのだからは、どれもが優れた出来ばえというわけにはいかない。何度か書いているように、ある回の話と別の回の話が、辻褄が合わないことも、けっこうある。しかし、それでも全体として、小説、ドラマを含めて、鬼平犯科帳の面白さはとびきりのものだと思う。
そういうなかで、がっかりする話として、今回とりあげるのは、「瓶割り小僧」だが、これは、実は、作者の池波正太郎が、気に入った話の5つのなかにいれているものなのだ。だから、池波は、この話を非常によくできたものだと考えていたことは、間違いがない。しかし、私は何度読んでも、あまり感心しないのだ。
話の筋はこんなところだ。
この話の前のことだが、旗本の息子に小便をかけてしまい、ころされそうになっているところを必死でとめて助けた(最終的には平蔵に助けられるのだが)盗賊の高萩の捨て五郎が、怪我を癒している間に、平蔵に説得されて密偵になっている。そして、足ならしででかけた先で、偶然、盗賊の石川五兵衛を発見するところから、この物語が始まるわけである。捨て五郎は五兵衛の顔見知りなので、同伴していた彦十が五兵衛のあとをつけ、翌日宿屋で逮捕される。
そして、普段容疑者の取り調べ(拷問に近いことが行われる)に関与しない小林金弥が、取り調べを命じられるのだが、なれないせいか、黙秘する五兵衛にてこずっている。その様子を平蔵は別室からみているわけだが、はっきりしないが、なんとなく過去にあっているような気がしている。自室に帰るときに、お茶を運んできた小者が、茶わんを落として割れてしまう。その音で、昔のことを平蔵は思い出すことになる。
それは20年前のことだが、京都奉行だった父がなくなって、江戸に帰って家督をついだ平蔵が、用事で麻布にでかけ、刀の研ぎ師の店にたちよったところ、真向かいの瀬戸物屋で子どもと主人梅吉が争っている。子どもたちがうるさいので梅吉は追い払うのだが、一人音松は立ち去らず、自分は客だといいはる。そして、大きな瓶をふたつ買うというのだ。子どもにはとうていもてないし、お金も払えないと馬鹿にした梅吉は、自分でもって帰るという条件をつけて、6文で売るという。音松は4文銭を2枚わたして、「釣りはいらない」という。そして、さあもって帰れ、といわれると、大きな石で、瓶を割ってしまう。「オレのものだから、割るのは自由だ、破片にしてもってかえるのだ」といって、立ち去ってしまう。それをみていた梅吉の義理の弟の浪人赤松が、音松をおいかけ、切りかかる。音松は恐怖で助けてくれと懇願するが、おいかけてきた平蔵に救われるわけである。そのとき、平蔵は、気がついた音松に、「大人を莫迦にするな」「莫迦な大人ばかりではない」と諭し、逃がしてやる。
そこで、ふたたび20年後に戻り、翌日、平蔵直々の取り調べが行われる。当初五兵衛は前日と同じように平蔵を無視していたが、平蔵を「どこかでみたような」と思い、そして、ついに思い出してしまう。そして、平蔵に平伏してしまうのである。
平蔵の裁きをみていた小林金弥と筆頭与力の佐嶋にたいして、自分はたまたま彼のことを知っていたので、白状させることができたのだ、といい、音松が義父を殺害して、母を捨てて逃げたという白状にたいして、音松にもっと目をかけてやる大人はいればよかったと語り、赤松は、瀬戸物やの主人である義兄がなくなったあと、あとを継ぎ、平蔵も目をかけてやったと語って、酒になったところで物語が終る。
ではどういう点にがっかりするのか。
まず、捨て五郎が五兵衛を見つける場面だが、最初どの程度の距離があったかは書かれていないが、本所弥勒寺まえの茶店にいるのだから、けっこうにぎやかだったはずである。そして、五兵衛は頭巾をかぶっており、「両頰から顎のあたりまで隠れていた」状態だった。捨て五郎は、五兵衛に以前仕事を斡旋されてあったことがあるが、「一目で嫌気がさした」というのだから、そのとき一度あっただけに違いない。にもかかわらずこの場面で、「一瞬の間に見破った」のは、いかに「捨て五郎の眼力」が優れていても、かなり不自然ではなかろうか。しかも、すぐに捨て五郎は、五兵衛のことを彦十に告げて、店の奥にいってしまうのである。
そして、すぐに彦十は追跡して、宿屋をつきとめ、五兵衛は、翌日捕縛される。
いかに江戸時代とはいえ、五兵衛は「江戸ではまったく盗みをしたことがない」のだし、捕まったときに、現行犯でもないのだから、なんら証拠がないわけである。いくら火盗改めとはいえ、誰であるかもまったくわかっていない人物を、拷問まで含めた取り調べをするだろうか。彼が盗賊であることは、まったく確証がないのである。あるのは捨て五郎の証言だけだ。捨て五郎に面通しをさせているわけでもないようだから、ほんの一瞬のため、見間違えの可能性だってある。しかし、そういうことは、ここでは露考えられていない。
次に、何故五兵衛は、2、3年に一度江戸にやってくるのか。生れ故郷といっても、義父に虐待され、最後は義父を殺害して、逃亡した場所である。母親がいきていて会いに来るということも考えられるが、殺人犯なのだから、近所の者に通報される恐れがある。しかも、江戸には「鬼の平蔵」が活動しているのである。通常は、そんな江戸には絶対にいかないのではないだろうか。しかも、堂々と宿に泊まっているのである。ここに不自然さを感じてしまう。
もちろん、このふたつの要素がなければ、この物語は成立しないのだから、不可欠なのだろう。だがもう少し自然さがほしい。
五兵衛の義父殺しについては、五兵衛の白状によって、平蔵たちは知ったことになっているのだが、平蔵は、瓶割りの事件以後も、切りつけようとした赤松と交流しているのだから、義父殺しについて聞いているはずである。義父とはいえ親殺しであり、通常の殺人より重罪である。逆にいえば、五兵衛が自白したことも不自然にみえてくる。江戸以外では盗みの罪は、捨て五郎の進言で言い逃れできないとしても、まさか、捨て五郎が、この殺人まで知っているはずもないのだから、わざわざ罪を重くするようなことはいわないだろう。
盗賊が裁かれたときには、多くが具体的な処分について触れられているが、この場合は、明日から小林がより詳細に尋問するという、途中経過で終っている。なんとなく物足りない感もあるが、獄門は明白なのでぼかしたのだろう。
このように、私には不満なところが多いのだが、作者はなぜ、これを優れた5本に含めたのだろうか。
考えられるのは、自白を引きだす機微がうまくできているし、平蔵の人間理解が滲み出ているのだが、構成の巧みさなのかと考えられる。最初に紹介した粗筋は、時系列に組み直してあるが、原作では、場面がこまぎれに転換していく。
小林金弥のうまくいかない尋問の様子→別室でみている平蔵が記憶を呼び起こしている→うまくいかない翌日再び小林による尋問→5日前の捨て五郎による五兵衛発見の場面→翌日捨て五郎の進言で逮捕→尋問の場面で、戻る途中で小者が茶わんをわることで思い出す
ここまでが(一)で(二)は20年前の瓶割りの場面が語られる。(三)も引き続き瓶割りの場面だが、途中で音松の家庭の事情が説明される。そして、赤松が音松をおそい、平蔵が助ける場面。(四)が平蔵による尋問で、五兵衛が自白、夕餉のやりとり、という展開である。
そして、瓶割りの場面以外は、非常に短い挿話のように転換していく。下手すると、展開がわかりにくくなって、興味が失せていくことに陥りやすいのだが、ここでは、「なぜ?」という疑問が自然にわきおこり、それを説明する場面が続く、というように、知りたい場面が続いていくので、挿入が興味を増していくように働いているのだ。こうした構成上の工夫がうまくいったと、作者は考えたのではないかと解釈してみた。
構成の巧みさに惹かれるか、不自然さに不満が残るか、ぜひ原文を読んでみてほしい。(文庫本では21巻にある)
そういうなかで、がっかりする話として、今回とりあげるのは、「瓶割り小僧」だが、これは、実は、作者の池波正太郎が、気に入った話の5つのなかにいれているものなのだ。だから、池波は、この話を非常によくできたものだと考えていたことは、間違いがない。しかし、私は何度読んでも、あまり感心しないのだ。
話の筋はこんなところだ。
この話の前のことだが、旗本の息子に小便をかけてしまい、ころされそうになっているところを必死でとめて助けた(最終的には平蔵に助けられるのだが)盗賊の高萩の捨て五郎が、怪我を癒している間に、平蔵に説得されて密偵になっている。そして、足ならしででかけた先で、偶然、盗賊の石川五兵衛を発見するところから、この物語が始まるわけである。捨て五郎は五兵衛の顔見知りなので、同伴していた彦十が五兵衛のあとをつけ、翌日宿屋で逮捕される。
そして、普段容疑者の取り調べ(拷問に近いことが行われる)に関与しない小林金弥が、取り調べを命じられるのだが、なれないせいか、黙秘する五兵衛にてこずっている。その様子を平蔵は別室からみているわけだが、はっきりしないが、なんとなく過去にあっているような気がしている。自室に帰るときに、お茶を運んできた小者が、茶わんを落として割れてしまう。その音で、昔のことを平蔵は思い出すことになる。
それは20年前のことだが、京都奉行だった父がなくなって、江戸に帰って家督をついだ平蔵が、用事で麻布にでかけ、刀の研ぎ師の店にたちよったところ、真向かいの瀬戸物屋で子どもと主人梅吉が争っている。子どもたちがうるさいので梅吉は追い払うのだが、一人音松は立ち去らず、自分は客だといいはる。そして、大きな瓶をふたつ買うというのだ。子どもにはとうていもてないし、お金も払えないと馬鹿にした梅吉は、自分でもって帰るという条件をつけて、6文で売るという。音松は4文銭を2枚わたして、「釣りはいらない」という。そして、さあもって帰れ、といわれると、大きな石で、瓶を割ってしまう。「オレのものだから、割るのは自由だ、破片にしてもってかえるのだ」といって、立ち去ってしまう。それをみていた梅吉の義理の弟の浪人赤松が、音松をおいかけ、切りかかる。音松は恐怖で助けてくれと懇願するが、おいかけてきた平蔵に救われるわけである。そのとき、平蔵は、気がついた音松に、「大人を莫迦にするな」「莫迦な大人ばかりではない」と諭し、逃がしてやる。
そこで、ふたたび20年後に戻り、翌日、平蔵直々の取り調べが行われる。当初五兵衛は前日と同じように平蔵を無視していたが、平蔵を「どこかでみたような」と思い、そして、ついに思い出してしまう。そして、平蔵に平伏してしまうのである。
平蔵の裁きをみていた小林金弥と筆頭与力の佐嶋にたいして、自分はたまたま彼のことを知っていたので、白状させることができたのだ、といい、音松が義父を殺害して、母を捨てて逃げたという白状にたいして、音松にもっと目をかけてやる大人はいればよかったと語り、赤松は、瀬戸物やの主人である義兄がなくなったあと、あとを継ぎ、平蔵も目をかけてやったと語って、酒になったところで物語が終る。
ではどういう点にがっかりするのか。
まず、捨て五郎が五兵衛を見つける場面だが、最初どの程度の距離があったかは書かれていないが、本所弥勒寺まえの茶店にいるのだから、けっこうにぎやかだったはずである。そして、五兵衛は頭巾をかぶっており、「両頰から顎のあたりまで隠れていた」状態だった。捨て五郎は、五兵衛に以前仕事を斡旋されてあったことがあるが、「一目で嫌気がさした」というのだから、そのとき一度あっただけに違いない。にもかかわらずこの場面で、「一瞬の間に見破った」のは、いかに「捨て五郎の眼力」が優れていても、かなり不自然ではなかろうか。しかも、すぐに捨て五郎は、五兵衛のことを彦十に告げて、店の奥にいってしまうのである。
そして、すぐに彦十は追跡して、宿屋をつきとめ、五兵衛は、翌日捕縛される。
いかに江戸時代とはいえ、五兵衛は「江戸ではまったく盗みをしたことがない」のだし、捕まったときに、現行犯でもないのだから、なんら証拠がないわけである。いくら火盗改めとはいえ、誰であるかもまったくわかっていない人物を、拷問まで含めた取り調べをするだろうか。彼が盗賊であることは、まったく確証がないのである。あるのは捨て五郎の証言だけだ。捨て五郎に面通しをさせているわけでもないようだから、ほんの一瞬のため、見間違えの可能性だってある。しかし、そういうことは、ここでは露考えられていない。
次に、何故五兵衛は、2、3年に一度江戸にやってくるのか。生れ故郷といっても、義父に虐待され、最後は義父を殺害して、逃亡した場所である。母親がいきていて会いに来るということも考えられるが、殺人犯なのだから、近所の者に通報される恐れがある。しかも、江戸には「鬼の平蔵」が活動しているのである。通常は、そんな江戸には絶対にいかないのではないだろうか。しかも、堂々と宿に泊まっているのである。ここに不自然さを感じてしまう。
もちろん、このふたつの要素がなければ、この物語は成立しないのだから、不可欠なのだろう。だがもう少し自然さがほしい。
五兵衛の義父殺しについては、五兵衛の白状によって、平蔵たちは知ったことになっているのだが、平蔵は、瓶割りの事件以後も、切りつけようとした赤松と交流しているのだから、義父殺しについて聞いているはずである。義父とはいえ親殺しであり、通常の殺人より重罪である。逆にいえば、五兵衛が自白したことも不自然にみえてくる。江戸以外では盗みの罪は、捨て五郎の進言で言い逃れできないとしても、まさか、捨て五郎が、この殺人まで知っているはずもないのだから、わざわざ罪を重くするようなことはいわないだろう。
盗賊が裁かれたときには、多くが具体的な処分について触れられているが、この場合は、明日から小林がより詳細に尋問するという、途中経過で終っている。なんとなく物足りない感もあるが、獄門は明白なのでぼかしたのだろう。
このように、私には不満なところが多いのだが、作者はなぜ、これを優れた5本に含めたのだろうか。
考えられるのは、自白を引きだす機微がうまくできているし、平蔵の人間理解が滲み出ているのだが、構成の巧みさなのかと考えられる。最初に紹介した粗筋は、時系列に組み直してあるが、原作では、場面がこまぎれに転換していく。
小林金弥のうまくいかない尋問の様子→別室でみている平蔵が記憶を呼び起こしている→うまくいかない翌日再び小林による尋問→5日前の捨て五郎による五兵衛発見の場面→翌日捨て五郎の進言で逮捕→尋問の場面で、戻る途中で小者が茶わんをわることで思い出す
ここまでが(一)で(二)は20年前の瓶割りの場面が語られる。(三)も引き続き瓶割りの場面だが、途中で音松の家庭の事情が説明される。そして、赤松が音松をおそい、平蔵が助ける場面。(四)が平蔵による尋問で、五兵衛が自白、夕餉のやりとり、という展開である。
そして、瓶割りの場面以外は、非常に短い挿話のように転換していく。下手すると、展開がわかりにくくなって、興味が失せていくことに陥りやすいのだが、ここでは、「なぜ?」という疑問が自然にわきおこり、それを説明する場面が続く、というように、知りたい場面が続いていくので、挿入が興味を増していくように働いているのだ。こうした構成上の工夫がうまくいったと、作者は考えたのではないかと解釈してみた。
構成の巧みさに惹かれるか、不自然さに不満が残るか、ぜひ原文を読んでみてほしい。(文庫本では21巻にある)
最近のコメント