悠仁親王「東大進学反対書名」騒動について2024年09月02日 16:57

 8月30日に「週刊ポスト」の記事がウェブ上にアップされた。「「あまりに悪質」悠仁さまの「東大進学に反対署名1万人超」運営サイトが署名ストップさせた理由」という記事である。25日に秋篠宮夫妻とともに「国際昆虫学会議」に出席したあと、同会議のポスター発表をすることを報じたあとに、以下のように書いている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/77007afb53f810290c3a9eefb8dea940c14913e4

 「一方で、悠仁さまをめぐっては看過できない問題が起きている。この開会式前日まで「悠仁さまの東大進学に反対する署名活動」がオンライン上で2週間にわたって続いていたのだ。8月24日を境に署名ができないようになっているが、何が起きたのか。署名活動が展開されていたオンライン署名サイト「Change.org」の広報チームに問い合わせるとこう回答があった。」

 そして大学ジャーナリストの石渡嶺司という人の以下の言葉を紹介している。
「1万人以上が署名して物議を醸しています。悠仁さまに限らず誰であれ、どの大学に挑戦するかはまず本人の意思が尊重されるべき。仮に報道のとおり悠仁さまが東大への推薦入学を希望されているとして、名門校の学内では推薦を受けるのも高いハードルがあり、そのために論文執筆など努力を重ねて何が悪いのか。ネット上で匿名参加できるのをいいことに騒ぎ立てる行為はあまりに悪質ではないか」

 最後に、受験生にとっては「勝負の夏」であるから、雑音に惑わされない環境が望まれると結んでいる。
 この記事を書いた人や石渡氏は、書名に付された文章を読んだのだろうかという疑念がわく。もし読んでいれば、「高校3年生の悠仁さまが「トンボ論文」で国際デビューを果たしたことは、「来春に推薦入試制度を利用して東京大学への進学の可能性が報じられるなか、推薦入試で求められる活動実績として高く評価される可能性がある」(皇室ジャーナリスト)と見られている。」などと簡単に書けるはずがないと思われるからである。

 署名は、噂される悠仁親王の東大推薦入学に反対するひとたちがネット上で行ったものである。1万人を超えたところで、批判などがあり、署名サイト(Change.org)が中止させたようだ。しかし、文章そのものはまだ残っているので読めた。私自身は、この署名について知っていたが、趣旨に賛成でもこうした署名やアンケートには一切回答しないことにしているので、署名をしないでいたが、こういう状況になってみると、署名しておけばよかったという気持もある。
 まずこの記事(ポスト)のおかしさを指摘しておこう。
 石渡氏は、どの大学に挑戦するかは本人の意思が尊重されるべき、と書いている。もちろん、そのことは正しい。しかし、問題となっているのは、そもそも本人が東大を望んでいるかどうか、究めて疑問である点だ。もし、本人が望んでいるのだとしたら、この夏にはかなりの受験勉強に励んでいるはずである。いくら推薦入学でも、東大の場合には、共通テストで800点以上をとることが条件となっているといわれている。800点というのは、そんなにやさしいものではない。本人の高校での成績は、文春が暴露したことが、ほぼ正しいと思われるから、800点はほぼ無理だろう。しかし、本人の意思で東大進学したいのであれば、それを突破すべく猛勉強しているはずであるが、そのようにはみえない。これは、志望も含めて、まわりがお膳立てしているからだろう。
 また、学会誌に掲載されたという論文の研究を、ほんとうに親王自身が中心的に行い、論文を執筆したと考えている人は、実際に学問をしている人の間では、ほとんどいないと断言してもよいほどだ。推薦入試のハードルは、共通テスト以外はクリアしているなどとも報道されているが、推薦わくにはいるための「成績」にしても、この論文にしても、筑付や東大で、もしそう評価されているのならば、それは不当な皇室特権・権力によってなされていると考えのるが自然であろう。

 さて、以上のような疑問は、署名に付された詳細な長文の文章によって説明されている。
https://www.change.org/p/%E6%82%A0%E4%BB%81%E6%A7%98%E3%81%8C%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E3%81%AE%E6%8E%A8%E8%96%A6%E5%85%A5%E8%A9%A6%E3%82%92%E6%82%AA%E7%94%A8%E3%81%97-%E5%B0%86%E6%9D%A5%E3%81%AE%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6-%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%89%B1%E3%81%84-%E3%81%A7%E5%85%A5%E5%AD%A6%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AF-%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%E3%82%92%E6%A0%B9%E5%BA%95%E3%81%8B%E3%82%89%E6%8F%BA%E3%82%8B%E3%81%8C%E3%81%99%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%99
 
 ぜひ実際にこの文章を読んでほしいが、石渡氏のようなムード的な見解を、完膚なきまでに論破している。
 象徴天皇制の意味と、その観点からの考察、筑付推薦入学の問題、中学時代の作文コンクールにおける剽窃問題(海外で大々的に報道されていることの紹介)、学会論文作成にみる欠陥、現代の教育制度的にみて、親王の筑付・東大入学の公正上の問題、等々が詳細に指摘されている。私自身、学会論文の問題について、教えられるところが多かった。
 それで、この署名活動の説明文で指摘されていない点について、考えておきたい。

 おそらく、この署名活動に反対する人の多くは、個人の進学に「反対する」などということが許されない人権侵害ではないか、というものだろう。もし、これが一般人に対するものだったら、たしかにとんでもない犯罪行為ともいえるものである。しかし、悠仁親王は、一般人ではない。そして、進学に関わって行われてきたことが、ほとんどすべて、一般人では決して実現できないような、特権の行使によって実現している。公人の行為に関して、それが批判されるべきことであれば、強い批判を公表することは、むしろ公益上必要なことである。
 それに加えて悠仁親王は、かなり高い確率で将来、日本の天皇になる存在である。そして、日本国憲法には、天皇は国民の「総意」によってなりたつことが書かれている。つまり、国民が、程度の差はあれ、多くのものが尊敬することによって成立するのである。「総意」がどのように証明されるかは、議論のあるところだろうが、すくなくとも、国民から、特別強い疑念が生じない状況と考えることができる。そして、たしかに、戦後の昭和、平成、令和の天皇は、国民からの支持があったし、あるように感じられる。しかし、次期天皇の可能性が高い秋篠宮については、国民の一部とはいえ、疑念がさまざまに表明されている。そして、親王の進学問題も疑念のひとつである。
 もうひとつ、今回の署名運動に対する非難は、まるで皇室批判は許されない、という「菊タブー」を思わせるようなところがある。昭和の時代には、まだ「菊タブー」はあったと思われるが、平成になって、皇室批判が雑誌などに堂々と書かれるようになり、特に、秋篠宮家の結婚騒動は、皇室批判が自由になったような一面があった。もっとも、それはインターネットの普及が促進したものであり、大手メディアにおいては、いまだに菊タブーに呪縛されているのだが。
 いずれにせよ、皇室批判が自由にできることこそ、「総意」を実感させるために必要な前提条件である。天皇が真に国民の「総意」として成立するためには、国民の間に強い疑念があれば、それを自由に表明できることが保障されており、そのうえで、そうした疑念がほとんど生じていない状況が実現していることが必要だと考えられる。そして、国民から強い疑念が表明されているような状況になったら、「総意」をえていないのだから、天皇が退位するか、天皇制というシステムが終了することになるのだろう。
 以上のことから、今回のような署名は、決して非難されるものではなく、むしろ大いに認められるものでなければならない。

結社の自由と訴訟2024年09月15日 21:16

 松竹伸幸氏が、共産党を除名処分になったとき、いくつか文章を書いたが、その後、とくに追いかけていなかった。たが、最近第二の著書を出して、党員資格の保持を求めて、共産党を司法に訴えたことを知った。おそらく、類似の訴訟もないような、新しい挑戦ではないかと思うし、人権論としても、非常に興味深いと思った。
 結局、結社の自由に関わることであるが、法論理としては「部分社会の法理」に関わることだろうと思う。
 通常結社の自由とは、ある団体(とくに政治団体)を結成したことによって、国家権力の干渉を受けない、国家にたいして、結社を禁止したり、結成に関わった人を逮捕したりすることを禁止するものである。松竹氏の除名にたいして、朝日新聞が社説で批判をしたときに、当時の志井委員長は、「朝日新聞は結社の自由を侵すのか」と非難したが、朝日新聞に、政党の結社を禁ずる権限などありえないのだから、この非難は的外れもいいところであった。
 しかし、結社の自由と関連のあることがらで、訴訟になるとしたら、それは「部分社会の法理」に関わることとして、見逃すことはできないし、また、かなりの法的難問となるはずである。私の専門分野でいうと、これまでは校則に関する訴訟で多く問題になってきたのが「部分社会の法理」である。その意味は「団体内部の規律問題については司法審査が及ばない、とする法理」というもので、その団体内部では、一般社会では許されないことでも、許されるということになっている。校則をめぐる訴訟がいくつかあったが、たとえば、以前は公立中学で、男子全員が坊主頭を校則で強制される学校が多数あり、校則が公序良俗にはんするという理由で提訴が行われたが、部分社会の法理で訴えは退けられてしまったわけである。
 しかし、現在では、そうした校則は、次第に減っているが、私は何度か、校則については、部分社会の法理は適用されないのだという主張をここで書いてきた。部分社会の法理が成立するためには、その団体のルールについて、以下のことが完全に実施されていることが必要だからである。
1その規則が事前に容易にアクセスできる形で開示されていること。
2その団体への所属が、規則を知った上で、本人の自由意思で行われること。
3団体の活動に賛同できなくなった場合には、自由に脱会できること。
 しかし、学校の校則は、この3つ条件は当てはまらないから、部分社会の法理は適用されないということである。
 義務教育学校では、本人の意思で入学するわけではなく、指定されている。 
 高校や大学、あるいは私立学校でも、校則が容易にアクセス可能になっていることは、究めて稀である。入学時点で校則を理解している生徒、学生はまずいないと考えられる。入学後に説明されるのである。
 入学は当人の自由意思であるとしても、校則がいやだから退学するという選択は、究めて困難である。オランダのように、ある学校をやめて、ちがう学校に移ることが、社会全体で保障されているような場合は別だが、日本の私立学校、高校・大学は、途中入学などは、究めてかぎられた場合しか認められない。結局、退学すれば、教育機関そのものから排除される状況になってしまう。したがって、よほど校則に不満であっても、我慢することになる。
 以上の理由から、学校の校則は、一般的な社会的感覚に適合する範囲でしか、制限を加えることはできず、社会的には認められないようなことを、校則で生徒に押しつけることは許されないと考えるべきである。

 では、政党はどうか。政党すべてがそうとはいえないだろうが、国会に議席をもつような政党は、上記の3つの条件は完全に満たしているだろう。だから、政党の内部規則については、司法は判断しないという、部分社会の法理は成立すると考えられる。したがって、松竹氏の主張は通る可能性が低いとひとまずはいわざるをえない。
 対応は、おそらくふたつ考えられる。
 多くの人が考えていると思われることは、そんな党はどうせ変わらないのだから、別の道を模索したらどうか。松竹氏のいうことが正しいとすれば、共産党は次第に落ち目になっていくだろう、そういう政党とともにする必要はないというものだ。つまり、法的ではなく、政治的な発想である。
 それにたいして、あくまで司法をつかってまで、復党の可能性を探るという、松竹氏自身が追求している道である。そして、氏はそれを司法によって認められることを、現在模索している。それがいいこととは氏も思っていないだろうが、党が大会において、処分を撤回しないことをきめた以上、外部の力(司法)に頼る他に道はないのもたしかであろう。

 さて、双方はどのような見解の対立があるのだろうか。
 事実としては、昨年、松竹氏は共産党を除名され、今年はじめの党大会に処分撤回の申請をしたが、却下されているという状態である。そして、党員資格の認定(処分の不当性)を求めて、提訴していることになる。
 処分のきっかけは、松竹氏が「シン共産党宣言」という本(党の委員長の党員による公選で選出することを主張)を文藝春秋社から出版したことが、反党分派活動であるという理由で除名を受けたわけである。「党内では、自由に意見をいえるにもかかわらず、一切党内で主張することなく、党外(出版)から党を攻撃した」という理由である。
 これにたいして、松竹氏は、以下のような点を指摘して、処分が不当であることを主張している。
1 党内で意見をいわなかったなどというのは間違いで、支部の会議で頻繁にのべており、同支部の人は松竹氏の主張を充分にしっていた。
2 党首公選制という、党の決定に反することを党外から攻撃したというが、党首公選制を党の機関で正式に否定する決定をしたことはなく、したがって、公選制を主張することは、党の決定に反することを主張しているのではなく、したがって、ひとつの意見として党外での出版をしたにすぎない。党員が出版をすることはいくらでもある。
 以上は、見解の対立に関してであるが、除名の手続については、党は正規の手順で処分を決定したとするが、
3 松竹氏は、規約上党員の処分は、その所属する支部での決定によるもので、その決定を上部が承認するものであるが、松竹氏の場合、所属支部では、まったく討議されておらず、当初から上部での審議が行われたのは、規約違犯であり、なぜそうしたから、支部での議論にすると、擁護の見解が強く、処分が不可能になるから、規約をねじ曲げたのであり、したがって、処分そのものが規約違犯となる。

 考えるべきこととして、2点あるように思われる。
 まず第一に、やめたいのにやめることができない、というのは、当然、部分社会の法理の前提に反しているわけだから、おそらく、訴訟の対象になるだろうが、やめたくないのに、ルールによってやめさせられたという場合である。部分社会においては、ルールは、自由にきめることができるのだから、そのルールが適正に適用されて、除名されたのならば、これまでの例でいえば、司法の対象にならない。
 しかし、第二に、除名された事例として、ルール自体が不適切に適用された場合には、門前払いというわけにはいかないのではなかろうか。一般に部分社会とされていないが、企業で、不当に解雇されたら、解雇撤回の訴訟をおこすことは一般的といえるだろう。政党は部分社会として認められているから、不当な除名でも訴訟の対象とはならないとしたら、政党と企業は、どこがちがうのだろうか。
 企業のルールは、労働基準法によって制約があるし、また、違法な就業規則や規則の違法な扱いは、当然法によって認められないから、司法の対象になるのは当然である。しかし、政党には、労働基準法のような法律はない。議会の選挙に当選し、公費を支給されて政治活動をする場合には、公費に関して、また、議員として生じることの使用について、法が規定しているから、その違犯は、民事でも刑事でも対象となる。しかし、そうした議会との関係とは切り離された、政党内部の活動については、これまで司法は関与しないことになっていた。
 しかし、現在の政党は、かなりの部分が税金によって運営されており、国民の納得のいく運営が求められることも否定できない。そして、政党で働く人にとってみれば、一種の職場でもある。松竹氏の主張するように、処分に際して、規約が不当に扱われたことが事実であるとすれば、司法による救済はあるべきなのではなかろうか。

ファミリー・コンサート2024年09月30日 21:41

 昨日は、私の属する市民オーケストラ(松戸シティフィル)のファミリー・コンサートだった。ほとんどその話題では書いたことがないのだが、今回はいろいろとおもうところがあって、演奏会のことを書こうとおもう。
 まず、プログラムだが、前半にベートーヴェンの7番の交響曲、後半に、サウンド・オブ・ミュージックの抜粋接続曲(オーケストラ用の編曲なので、歌は入らない)、スター・ウォーズ組曲というものだった。このプログラムが団員に示されたとき、私も含め多くの団員は、「えっ、ベートーヴェンが前プロなの?」と驚いた。実は、指揮者が、けっこう練習が進んだ段階で、そのことを知り、「ほんとうですか、はじめて知りました」とやはりびっくりしていた。ベートーヴェンの交響曲が前半にある場合は、私が知るかぎり、ほとんどベートーヴェンプログラムで、前半に偶数番号あるいは1番、そして、後半に1番以外の奇数番号の交響曲を配置するものだ。7番は長く、激しい曲だから、前半というのは、聞いたことがない。
 まして、後半が映画音楽というのだから、更に驚きだった。
 しかし、このプログラミングは集客力において、非常に力を発揮した。だいたい、私たちのオーケストラは、プロオーケストラの定期演奏会のようなプログラムを組むので、普段は客の入りが悪い。私が所属した他のふたつの市民オケのほうが、はるかに集客力があった。市民オーケストラとしては、松戸のほうが絶対的に強力なのだが。今回のスター・ウォーズの演奏でも、ハープ・ピアノ・チェレスタ、多くの打楽器などは仕方ないとし、ごくわずかの弦楽器のエキストラだけで演奏できるというのは、市民オケとしては、比較的少ないと思う。団員が多いということだ。しかし、通ごのみのプログラムでは、たくさんの客はこない、しかし、誰でも知っているようなポピュラーな曲をいれれば、たくさんの人が聴きにきてくれるということが、改めてわかった。ただ、だから、そのほうがいいというわけではない。松戸シティフィルは団員が長く所属している人が多いので(私も20年以上在籍している)、やはり、いろいろな曲をやりたいわけだ。すると、これまでやらなかった曲を中心にプログラムを組むことになり、どうしても、ポピュラーな曲、こうした映画音楽はほとんどやらないことになる。むずかしいところだが、やはりやりたい曲をやるのが、アマチュアのいいところではないかというのが、私の実感だ。

 ベートーヴェンの7番の演奏も、団員がけっこう考えるものがあった。というのは、今回の指揮者の設定したテンポが、非常に速いのだ。2度ばかり別の指揮者が代振りにきたのだが、テンポの速さに驚いていた。もっとも、そのテンポが非常に不自然で、異常に速いというものではなく、とくに近年ベートーヴェン演奏のテンポは速い場合が多いので、そのなかでも、おそらくもっとも速い部類にはいるというようなものだったろう。
 演奏会が終ったあと、他に仕事があって、すぐに帰ってしまった指揮者から、メールがきたそうで、これまで7番をやっても、どうしても要求とおりの演奏ができず、今回はじめて、納得が行く演奏ができた、と書いてあったそうだ。リップサービスということもあるだろうが、しかし、以前にも、別の指揮者が、プロオケである曲をやったのだが、この部分がどうしてもうまくいかなったが、私たちとの演奏ではうまくいった、よかった、という話をされたことがある。
 ただ、その別の指揮者のその部分の解釈が、通常のものとは著しくちがっていたので、プロオケはそんな妙な演奏はできないと抵抗したのではないかと思うのである。ところが、私たちは、まったくのアマチュアだから、かなり普通ではない解釈だとは思っていても、指揮者がこうやれというのだから、そのとおりやろうとしただけのことで、もちろん、プロオケより私たちがうまくできたわけではない。
 今回の7番では、私たちのオケには元プロだった優れた奏者がいるのだが、彼の演奏を聴いていると、なんとか指揮者の解釈を多少なりとも穏健なものにしようと、試みているのが感じられた。これまで何十人もの指揮者がきたが、彼の演奏に注文する人はほとんどいないのだが、今回の指揮者は、なんども注意していた。彼の抵抗を感じていたのだろうと、私には思われた。プロの指揮者とプロのオーケストラとの間というのは、かなりシビアなものだと、実感したおもいだった。