近年稀な自民党の権力闘争 ― 2024年10月10日 21:29
自民党の総裁選から、総理大臣の選出、そして、その前後の石破茂氏の変容、これは、自民党支持ではない、まったくの傍観的立場でみていて、興味深い展開のように思われた。当事者たちは、生き残りをかけた闘いだろうから、必死だろうが。
総裁選の優劣の変動がまず第一幕だったろう。当初は、小林鷹之氏か小泉進次郎氏が圧勝するだろうという予測だったことも興味をかきたてた。なにしろ二人とも40代であり、これまでの常識でいえば、立候補すらできないような経歴にみえたからだ。すくなくとも前回までは、派閥を背負って選ばれた人が自民党の総裁選に立候補した。だから、派閥の数よりずっと少ないし、また、大物感はたしかにあるひとたちが多かった。しかし、今回は最初に話題に昇ってきたのか、この若手二人であり、そして、当初は12名もの立候補があるのではないかと予想された。実際に、意思表明したひとはそれだけいたのである。そして、まずは小林鷹之氏の印象が薄くなり、小泉圧勝のような雰囲気に一時はなった。しかし、実際に立候補を表明した記者会見で、はやくもつまずく。抜粋をみただけだが、よくもまあ、こんな反感をかうようなことを、堂々と述べるものだ、と通常経験しないような感心をしてしまった。小泉氏の真意かどうかはわからないが、企業が労働者を解雇する自由を拡大しようなどということが、国民だけではなく、おそらく自民党支持層からも受け入れられるはずがない。既に、日本は、大リストラ時代を経ており、実態として解雇が不自由だとは、一般に思われていない。リストラと非正規の拡大という、企業の横暴としかいいようのないことを、そして、現在ではさすがに、保守的な人ですら、そんなことをいう人はあまりいないときに、これほど、あっけらかんと主張したのだから、びっくりしたというのが、多くの人の実感だったろう。その後小泉氏は軌道修正というか、「より丁寧」な説明を試みたようだが、最初の記者会見の、しかも冒頭で述べたことだから、最後まで、解雇自由の小泉、という印象がつきまとった。
同感の人も多いだろうが、小泉氏の政治家としてのダメさは、環境大臣として、ニューヨークの国際会議に出席したときに、思い知らされた。ニューヨークについてすぐにビフテキを食べにでかけ、毎日でもビフテキが食べたいと、堂々と述べたのには、心底驚いた。環境問題に関心のある人であれば、牛肉が環境破壊の象徴的存在のひとつであることは、誰でも知っている。それを国際環境会議に、日本を代表して環境大臣としてやってきた矢先に、ビフテキを毎日食べたいと公言したのだから、何をかいわんやである。このことでわかるように、小泉氏の最大の弱点は、政策を知らないということだろう。政策を知らない人が、日本の総理大臣としてふさわしいとはとうていいえない。にもかかわらず、自民党の国会議員は、当初もっとも多く支持者がいたのである。
しかし、さすがに、小泉氏の政策音痴ぶりは次第に強く意識されはじめて、石破氏が追い上げ、そして、その後は高市氏にも抜かれてしまった。
そして、この二人の争いは、それまでの「選挙に勝つためには、誰が代表だと、自分や党にとって有利なのか」という、きわめて現実的、打算的な争いだったが、石破対高市になると、明かに、古典的な権力闘争的な側面が前面に出てきたように思われる。この二人の争いは、まずは、菅と麻生の争いであり、そして、さらに岸田が絡んだ、自民党内における権力を握るための闘いになってきた。かつて田中角栄と福田赳夫が熾烈な闘いをした歴史があるが、それは当人の闘いが主戦場だったが、今回は、候補者当人の闘いと、党内最大実力者となる者同士の闘いが重なったわけである。更に、一般党員のレベルでいえば、自民党の評判を深刻に悪化させた裏金問題の当事者と、自民党員としても裏金議員への批判をもたざるをえない者たち、そして、古くからの統一教会問題を抱えている者とそうでない者との対立が重なってくる。
こうしたなかで、裏金問題と統一教会に批判的立場をとりうる人たちが支持した石破氏が、後ろ暗いひとたちが支持する高市氏をやぶったという結果になった。興味深いことは、高市氏自身は、私の知る限り、裏金問題と統一教会問題を抱えている当事者ではない。にもかかわらず、20名の推薦人のかなりの部分が、裏金議員であり、また、統一教会から支持をうけていた議員なのである。そういう意味では、高市氏が勝利したら、それこそ自民党は選挙で酷い目にあったに違いない。
ところが、実際に石破総理大臣が誕生すると、石破支持の内部が複雑な抗争を避けられない状況になってきて、自分の公約を進めたい石破本人とその強固な支持者たち、そして、それではあまりに党内分裂を激化させてしまうとして、石破路線を緩和しようとするひとたちの抗争である。当初後者が優勢だったが、それにたいして起った国内世論の反発が、石破をおそらく奮い立たせて、部分的に当初からの方向を少しだけ出す(裏金議員の非公認)ことになり、これが、高市陣営にも多少の亀裂を生じさせたように、私には思われる。おそらく、高市陣営には、ふたつの異なった勢力があったのではないだろうか。ひとつは、高市氏の超保守的な立場を支持する層であり、ひとつは、裏金問題を無視するような立場を支持する層である。もちろん重なる人も多いだろうが、重ならないひとも少なくないに違いない。とすれば、裏金議員の非公認という石破氏の方向転換は、この高市陣営に複雑な亀裂を生じさせずにはおかないはずである。当初反石破勢力は、国会解散時期をめぐる石破氏の方針の揺れを批判しており、その時点では、高市氏をもちあげておけば済んだが、裏金議員の一部非公認という政策を石破氏が打ち出せば、裏金議員たちは、自分たちこそ自民党の評判をさげた張本人であるのに、文句をいうのかという批判に曝されることになり、また、高市陣営の裏金批判派のひとたちは、その点では石破に文句をいいずらくなる。
そして、3人の長老たちには、大きな変化が生じているようにみえる。菅氏は、きわめて健康状態が悪く、とても権力者として力を発揮できる状態ではないという印象を国民に与えてしまった。そして、麻生氏は、高市氏に石破退陣を予期して、準備をしておけ、と発破をかけたとされる。しかし、本来麻生氏と高市氏は、真逆の政策的立場なのではないだろうか。今回、力の衰えを露呈したかっこうだから、麻生氏が復活するとは、私には思われない。最終的に石破総裁を実現するのに、大きな影響力を発揮した岸田氏と石破氏は、実は重要な経済政策が重なる部分が大きい。岸田氏は、あれだけの低空飛行を続けたのに、結局3年間の総裁任期をまっとうした。意外としぶといのだろう。
今後、石破が今年中にも退陣し、高市総裁が誕生するかのような論調がみられるか、そんな単純な勢力関係ではないだろう。これからも、傍観者(自民非支持)としてではあるが、権力闘争の推移を注意深くみていきたい。
総裁選の優劣の変動がまず第一幕だったろう。当初は、小林鷹之氏か小泉進次郎氏が圧勝するだろうという予測だったことも興味をかきたてた。なにしろ二人とも40代であり、これまでの常識でいえば、立候補すらできないような経歴にみえたからだ。すくなくとも前回までは、派閥を背負って選ばれた人が自民党の総裁選に立候補した。だから、派閥の数よりずっと少ないし、また、大物感はたしかにあるひとたちが多かった。しかし、今回は最初に話題に昇ってきたのか、この若手二人であり、そして、当初は12名もの立候補があるのではないかと予想された。実際に、意思表明したひとはそれだけいたのである。そして、まずは小林鷹之氏の印象が薄くなり、小泉圧勝のような雰囲気に一時はなった。しかし、実際に立候補を表明した記者会見で、はやくもつまずく。抜粋をみただけだが、よくもまあ、こんな反感をかうようなことを、堂々と述べるものだ、と通常経験しないような感心をしてしまった。小泉氏の真意かどうかはわからないが、企業が労働者を解雇する自由を拡大しようなどということが、国民だけではなく、おそらく自民党支持層からも受け入れられるはずがない。既に、日本は、大リストラ時代を経ており、実態として解雇が不自由だとは、一般に思われていない。リストラと非正規の拡大という、企業の横暴としかいいようのないことを、そして、現在ではさすがに、保守的な人ですら、そんなことをいう人はあまりいないときに、これほど、あっけらかんと主張したのだから、びっくりしたというのが、多くの人の実感だったろう。その後小泉氏は軌道修正というか、「より丁寧」な説明を試みたようだが、最初の記者会見の、しかも冒頭で述べたことだから、最後まで、解雇自由の小泉、という印象がつきまとった。
同感の人も多いだろうが、小泉氏の政治家としてのダメさは、環境大臣として、ニューヨークの国際会議に出席したときに、思い知らされた。ニューヨークについてすぐにビフテキを食べにでかけ、毎日でもビフテキが食べたいと、堂々と述べたのには、心底驚いた。環境問題に関心のある人であれば、牛肉が環境破壊の象徴的存在のひとつであることは、誰でも知っている。それを国際環境会議に、日本を代表して環境大臣としてやってきた矢先に、ビフテキを毎日食べたいと公言したのだから、何をかいわんやである。このことでわかるように、小泉氏の最大の弱点は、政策を知らないということだろう。政策を知らない人が、日本の総理大臣としてふさわしいとはとうていいえない。にもかかわらず、自民党の国会議員は、当初もっとも多く支持者がいたのである。
しかし、さすがに、小泉氏の政策音痴ぶりは次第に強く意識されはじめて、石破氏が追い上げ、そして、その後は高市氏にも抜かれてしまった。
そして、この二人の争いは、それまでの「選挙に勝つためには、誰が代表だと、自分や党にとって有利なのか」という、きわめて現実的、打算的な争いだったが、石破対高市になると、明かに、古典的な権力闘争的な側面が前面に出てきたように思われる。この二人の争いは、まずは、菅と麻生の争いであり、そして、さらに岸田が絡んだ、自民党内における権力を握るための闘いになってきた。かつて田中角栄と福田赳夫が熾烈な闘いをした歴史があるが、それは当人の闘いが主戦場だったが、今回は、候補者当人の闘いと、党内最大実力者となる者同士の闘いが重なったわけである。更に、一般党員のレベルでいえば、自民党の評判を深刻に悪化させた裏金問題の当事者と、自民党員としても裏金議員への批判をもたざるをえない者たち、そして、古くからの統一教会問題を抱えている者とそうでない者との対立が重なってくる。
こうしたなかで、裏金問題と統一教会に批判的立場をとりうる人たちが支持した石破氏が、後ろ暗いひとたちが支持する高市氏をやぶったという結果になった。興味深いことは、高市氏自身は、私の知る限り、裏金問題と統一教会問題を抱えている当事者ではない。にもかかわらず、20名の推薦人のかなりの部分が、裏金議員であり、また、統一教会から支持をうけていた議員なのである。そういう意味では、高市氏が勝利したら、それこそ自民党は選挙で酷い目にあったに違いない。
ところが、実際に石破総理大臣が誕生すると、石破支持の内部が複雑な抗争を避けられない状況になってきて、自分の公約を進めたい石破本人とその強固な支持者たち、そして、それではあまりに党内分裂を激化させてしまうとして、石破路線を緩和しようとするひとたちの抗争である。当初後者が優勢だったが、それにたいして起った国内世論の反発が、石破をおそらく奮い立たせて、部分的に当初からの方向を少しだけ出す(裏金議員の非公認)ことになり、これが、高市陣営にも多少の亀裂を生じさせたように、私には思われる。おそらく、高市陣営には、ふたつの異なった勢力があったのではないだろうか。ひとつは、高市氏の超保守的な立場を支持する層であり、ひとつは、裏金問題を無視するような立場を支持する層である。もちろん重なる人も多いだろうが、重ならないひとも少なくないに違いない。とすれば、裏金議員の非公認という石破氏の方向転換は、この高市陣営に複雑な亀裂を生じさせずにはおかないはずである。当初反石破勢力は、国会解散時期をめぐる石破氏の方針の揺れを批判しており、その時点では、高市氏をもちあげておけば済んだが、裏金議員の一部非公認という政策を石破氏が打ち出せば、裏金議員たちは、自分たちこそ自民党の評判をさげた張本人であるのに、文句をいうのかという批判に曝されることになり、また、高市陣営の裏金批判派のひとたちは、その点では石破に文句をいいずらくなる。
そして、3人の長老たちには、大きな変化が生じているようにみえる。菅氏は、きわめて健康状態が悪く、とても権力者として力を発揮できる状態ではないという印象を国民に与えてしまった。そして、麻生氏は、高市氏に石破退陣を予期して、準備をしておけ、と発破をかけたとされる。しかし、本来麻生氏と高市氏は、真逆の政策的立場なのではないだろうか。今回、力の衰えを露呈したかっこうだから、麻生氏が復活するとは、私には思われない。最終的に石破総裁を実現するのに、大きな影響力を発揮した岸田氏と石破氏は、実は重要な経済政策が重なる部分が大きい。岸田氏は、あれだけの低空飛行を続けたのに、結局3年間の総裁任期をまっとうした。意外としぶといのだろう。
今後、石破が今年中にも退陣し、高市総裁が誕生するかのような論調がみられるか、そんな単純な勢力関係ではないだろう。これからも、傍観者(自民非支持)としてではあるが、権力闘争の推移を注意深くみていきたい。
プロムシュテット・N響の演奏会 ― 2024年10月20日 22:05
普段演奏会には行かないが、たまにいくのは専らオペラとたまに合唱付きの曲(ベルディのレクイエムとかベートーヴェン荘厳ミサ等)を聴きにいく程度だ。純粋にオーケストラの演奏会にいったのは、記憶では、小沢征爾指揮の新日フィルで、それは近くの音楽ホールにきたためだった。小沢が新日フィルをふっていたのだから、ずいぶん前のことになる。それが、定期会員になっている妻の親友が、急にいけなくなったので、代わりにでかけたというわけだった。
NHKホールもまたずいぶん久しぶりだ。全盛期のポリーニを聴くために、N響の会員になったのだが、ポリーニが手の故障で衰える前だから、これも何十年ぶりということになる。オーケストラは毎週自分で経験しているので、聴くほうはすっかりご無沙汰というところだが、今回心が動いたのは、指揮がブロムシュテットだからだ。もちろん、はじめて生を聴くのだが、CDやyoutube、テレビではけっこう試聴してきた。そして、がっかりしたことが一度もないから、実演を聴けるのは、これが最後であることは確実で、逃したらやはり後悔しただろう。前にブログに書いたが、ベートーヴェンの第九の演奏(ライチチッヒでのライブ映像)は、ほんとうに感心した。
また、ブロムシュテットについては、前に、幸せな老化をした演奏家と老害をさらした演奏家というテーマでいくつかブログを書いたが、ブロムシュテットは、最も幸福な高齢演奏家の代表といえるだろう。なんといっても、現在97歳である。以前にはストコフスキーが超高齢指揮者で、100歳までの契約があったが、95歳で亡くなってしまった。つまり、ストコフスキーよりも高齢の現役指揮者なのである。しかも、ストコフスキーはアメリカ中心の活動だったが、ブロムシュテットは、日本にまでやってきてくれたわけである。そして、近年のウィーンフィルやベルリンフィルとの共演も話題になっている。
演奏会始まりの前に団員が出てきて席に座り、コンサートマスターが登場して音合わせ(チューニング)をすませると、指揮者が登場するのが普通だが、今回は、バラバラと団員が出てくる途中で、ブロムシュテットが団員(たぶんコンサートマスター)に支えられて出てきた。まだ団員は半分くらい。とにかく、支えられてゆっくりゆっくりだ。私の性分として、式台にあがれるのかと心配になったが、これも支えられながら、やっとの思いであがり、そして椅子に座った。
曲目は前半がオネゲルの交響曲3番(典礼風)、後半がブラームスの4番だった。
オネゲルは名前以上のことは知らなかったから、当然曲も聴いたことがなかった。オネゲルは、パリで育ったので、ナチスによるパリ占領という苦い経験をし、それに対する反発心が反映されているそうだ。戦後の作曲家で、現代音楽に分類されるというが、この曲は、いわゆる現代音楽風ではなく、聴きやすい音楽ではあった。配布された解説によると、1楽章怒りの日、2楽章深い淵から、3楽章われらに安らぎを与えたまた、という題がつけられている。全体が20程度なので、長い曲ではない。
実はこの文章をかきながら、ブロムシュテットはこの曲のCDをだしているか調べてみたらなく、なんとカラヤンのがでていることがわかった。なら我が家にあるはずだと探して、今聴きながら書いている。1969年の録音で、カラヤンがすっかりベルリンフィルを手中におさめた時期のものなので、さすがにオーケストラが見事だが、N響も決して劣ってはいないが、弦の厚みはカラヤン・ベルリンフィルはさすがだという感じがしている。1楽章は激しい音楽で、絃がアタックの強い、しかも速い音楽をしているなかに、金管楽器が攻撃的なパーセッジを重ねていく。そうしたバランスは、N響の演奏は見事だった。2楽章は、解説によると、とても美しい音楽がつづくというのだが、実際に聴いているときには、それほどうつくしいとは感じなかった。しかし、カラヤンで聴くと、後年新ウィーン楽派の音楽できかせた妖しいまでの美しさを、このオネゲルでも響かせていて、たしかにこの楽章の美を感じさせてくれる。3楽章は、安らぎに重点があるというより、神がやってきて、救いを与えるという、「やってくるときの行進」を描いているような音楽で、結局、そんなのは幻想なのだ、ということなのかもしれない。プログラムの解説には、安らぎが与えられたように静かに終る、ということになっているが、与えられなかったようにも聴ける音楽だ。そして、消えるように終るのだが、終ったあと、かなり長い間沈黙が支配し、拍手がおきるまで、ずいぶんと間があった。チャイコフスキーの「悲愴」は、いつ終ったかわからないような曲(チェロが長く弱音で伸ばすのだが、弓がなくなって自然に音が消えるまで、つまり人によって音がなくなるときがちがうので、最後の一人の音が消えて終る)なので、拍手がおきるまでの沈黙の時間が長い方が成功というような、妙な感覚があるのだが、今回もとにかく、だれかが拍手をするまで躊躇しているような雰囲気が漂った。
さて、今日の主目的であるブラームスだ。4番は、私自身オーケストラで3回実際に演奏しているので、ブロムシュテットがどのような指示をだしているかを専ら注視した。指揮というのは、もちろん音楽的な行為だが、実際にやっているのは、身体運動そのものだ。一人ではあるけないほどの高齢者が、どういう身体運動でブラームスの音楽をつくりあげるのか。ブラームスの交響曲は、ほんものの古典派とちがって、小さなメロディーのなかでも、メロディーを受け持つ楽器がどんどん変わっていく。しかも常にといっていいほど響きが厚いので、メロディーラインから離れた楽器も、引き続き音をだしている。だから、バランスをまちがえると、メロディーが消えてしまうことになりかねない。そうしたバランスがとても微妙で難しいわけで、当然、それを指揮者がきちんと制御しなければならない。そうした楽器の担当部分が変化するようなところで、ブロムシュテットは実に丁寧に指示をしていた。そして、音楽が高揚する場面、あるいは、とくにある弦楽セクションを前面にでるようにするときには、大きな身振りで指揮をしていた。
思い出すのは最晩年にN響にやってきて、ベートーヴェンの7番を指揮したサバリッシュの映像だ。このとき、サバリッシュはかなり身体が弱っていたのだろう、もちろん、ずっと座っての指揮だったが、ほとんど動きがなかった。指揮棒の先をほんのわずかに動かす程度なのだが、長年一緒にやってきたサバリッシュだからN響の側もわかっているし、最後のご奉公のような感じで演奏していたから、それはそれとしてりっぱな演奏だったが、しかし、もっとずっと年上であるブロムシュテットは、もっと大きな動きを伴った指揮だった。
ブラームスの4番は出だしの憂いに満ちた、きわめて印象的なメロディーの歌わせ方で、ほぼ演奏の印象が決まってしまうように思われている。ブロムシュテットの今回の演奏も、この歌わせ方をかなり練習したように感じられた。しそー、みどー、ら#ふぁー、#れしー、という音で、1、3が下向、24が上向の音形なのだが、弱拍強拍の順である。だから、楽譜のとおりに演奏すれば、「し」や「み」を弱く、「そ」「ど」を強く弾くことになる。ところが実際の演奏では、この強弱のつけかたは実に多様なのだ。楽譜に近い演奏(カラヤン、マゼール)や強弱をめだたせない演奏(晩年のクライバー)、小節ごとに変える(小沢)があるが、ブロムシュテットの今回は、明確に楽譜の逆をやっていた。つまり、最初の音を強く、つづく伸ばしの音を弱く弾かせていた。ところが、どうもこれが、最初はスムーズではなかった。昨日も演奏しているのだから、かなり慣れていたはずだが、出だしはやはり緊張するのだろうか。しかし、何度か繰り返されるうちに、この強→弱の表現がスムーズになっていった。もちろん、このような逆転した演奏もある。
ブロムシュテットの演奏でいつも感じるのは、不自然な表現はしない、楽譜に書いてあるなかでが、効果的な強調表現をするということだ。つまり安心して聴けるということであり、だが、薄味というのでもなく、ああ、いい音楽だったなという感覚を残してくれるのだ。そういう意味で、アバドに近い指揮者といえる。4楽章のパッサカリアは短い8小節のフレーズを30回以上変装していくわけだが、当然、1回1回変化していく。あるべき姿で、その変化も強調して、しかも納得させるのは、簡単なようでいて、とても難しいのだ。そうしたメリハリのきいた、しかも自然な変化を感じさせる演奏だった。そして、最後に急速にテンポをあげて勢いよく終るのだが、フルトヴェングラーのような、あまりに強烈なスピードアップをされると、ついていけない感じになるし、また、テンポのあげかたが小さいと、物足りなさを感じてしまうこともよくある。今回のブロムシュテットは、かなり速いテンポをとっていたが、しかし、不自然にならないところがさすがだった。
あるべき姿をくっきりと表現する指揮者というブロムシュテットのよさを充分に感じ取ることができた演奏だった。そして、高齢による「停滞感」などは、皆無のきびきびした演奏だった。次回の日本公演があるかどうかはわからないが、100歳でのベルリンフィル公演が実現されれば、映像でみることができるのだが。ストコフスキーがめざした100歳での指揮をぜひ実現してほしい。
蛇足だが、ブラームスの演奏で、コンサートマスターが高揚した部分で、半立ちするような、しかもかなり大きな身振りで演奏する場面が何度もあった。いつものやり方なのか、指揮者が高齢だから、身振りを大きくして、団員に伝えているのかわからないが、あのようなコンサートマスターの演奏ぶりははじめてみた。
NHKホールもまたずいぶん久しぶりだ。全盛期のポリーニを聴くために、N響の会員になったのだが、ポリーニが手の故障で衰える前だから、これも何十年ぶりということになる。オーケストラは毎週自分で経験しているので、聴くほうはすっかりご無沙汰というところだが、今回心が動いたのは、指揮がブロムシュテットだからだ。もちろん、はじめて生を聴くのだが、CDやyoutube、テレビではけっこう試聴してきた。そして、がっかりしたことが一度もないから、実演を聴けるのは、これが最後であることは確実で、逃したらやはり後悔しただろう。前にブログに書いたが、ベートーヴェンの第九の演奏(ライチチッヒでのライブ映像)は、ほんとうに感心した。
また、ブロムシュテットについては、前に、幸せな老化をした演奏家と老害をさらした演奏家というテーマでいくつかブログを書いたが、ブロムシュテットは、最も幸福な高齢演奏家の代表といえるだろう。なんといっても、現在97歳である。以前にはストコフスキーが超高齢指揮者で、100歳までの契約があったが、95歳で亡くなってしまった。つまり、ストコフスキーよりも高齢の現役指揮者なのである。しかも、ストコフスキーはアメリカ中心の活動だったが、ブロムシュテットは、日本にまでやってきてくれたわけである。そして、近年のウィーンフィルやベルリンフィルとの共演も話題になっている。
演奏会始まりの前に団員が出てきて席に座り、コンサートマスターが登場して音合わせ(チューニング)をすませると、指揮者が登場するのが普通だが、今回は、バラバラと団員が出てくる途中で、ブロムシュテットが団員(たぶんコンサートマスター)に支えられて出てきた。まだ団員は半分くらい。とにかく、支えられてゆっくりゆっくりだ。私の性分として、式台にあがれるのかと心配になったが、これも支えられながら、やっとの思いであがり、そして椅子に座った。
曲目は前半がオネゲルの交響曲3番(典礼風)、後半がブラームスの4番だった。
オネゲルは名前以上のことは知らなかったから、当然曲も聴いたことがなかった。オネゲルは、パリで育ったので、ナチスによるパリ占領という苦い経験をし、それに対する反発心が反映されているそうだ。戦後の作曲家で、現代音楽に分類されるというが、この曲は、いわゆる現代音楽風ではなく、聴きやすい音楽ではあった。配布された解説によると、1楽章怒りの日、2楽章深い淵から、3楽章われらに安らぎを与えたまた、という題がつけられている。全体が20程度なので、長い曲ではない。
実はこの文章をかきながら、ブロムシュテットはこの曲のCDをだしているか調べてみたらなく、なんとカラヤンのがでていることがわかった。なら我が家にあるはずだと探して、今聴きながら書いている。1969年の録音で、カラヤンがすっかりベルリンフィルを手中におさめた時期のものなので、さすがにオーケストラが見事だが、N響も決して劣ってはいないが、弦の厚みはカラヤン・ベルリンフィルはさすがだという感じがしている。1楽章は激しい音楽で、絃がアタックの強い、しかも速い音楽をしているなかに、金管楽器が攻撃的なパーセッジを重ねていく。そうしたバランスは、N響の演奏は見事だった。2楽章は、解説によると、とても美しい音楽がつづくというのだが、実際に聴いているときには、それほどうつくしいとは感じなかった。しかし、カラヤンで聴くと、後年新ウィーン楽派の音楽できかせた妖しいまでの美しさを、このオネゲルでも響かせていて、たしかにこの楽章の美を感じさせてくれる。3楽章は、安らぎに重点があるというより、神がやってきて、救いを与えるという、「やってくるときの行進」を描いているような音楽で、結局、そんなのは幻想なのだ、ということなのかもしれない。プログラムの解説には、安らぎが与えられたように静かに終る、ということになっているが、与えられなかったようにも聴ける音楽だ。そして、消えるように終るのだが、終ったあと、かなり長い間沈黙が支配し、拍手がおきるまで、ずいぶんと間があった。チャイコフスキーの「悲愴」は、いつ終ったかわからないような曲(チェロが長く弱音で伸ばすのだが、弓がなくなって自然に音が消えるまで、つまり人によって音がなくなるときがちがうので、最後の一人の音が消えて終る)なので、拍手がおきるまでの沈黙の時間が長い方が成功というような、妙な感覚があるのだが、今回もとにかく、だれかが拍手をするまで躊躇しているような雰囲気が漂った。
さて、今日の主目的であるブラームスだ。4番は、私自身オーケストラで3回実際に演奏しているので、ブロムシュテットがどのような指示をだしているかを専ら注視した。指揮というのは、もちろん音楽的な行為だが、実際にやっているのは、身体運動そのものだ。一人ではあるけないほどの高齢者が、どういう身体運動でブラームスの音楽をつくりあげるのか。ブラームスの交響曲は、ほんものの古典派とちがって、小さなメロディーのなかでも、メロディーを受け持つ楽器がどんどん変わっていく。しかも常にといっていいほど響きが厚いので、メロディーラインから離れた楽器も、引き続き音をだしている。だから、バランスをまちがえると、メロディーが消えてしまうことになりかねない。そうしたバランスがとても微妙で難しいわけで、当然、それを指揮者がきちんと制御しなければならない。そうした楽器の担当部分が変化するようなところで、ブロムシュテットは実に丁寧に指示をしていた。そして、音楽が高揚する場面、あるいは、とくにある弦楽セクションを前面にでるようにするときには、大きな身振りで指揮をしていた。
思い出すのは最晩年にN響にやってきて、ベートーヴェンの7番を指揮したサバリッシュの映像だ。このとき、サバリッシュはかなり身体が弱っていたのだろう、もちろん、ずっと座っての指揮だったが、ほとんど動きがなかった。指揮棒の先をほんのわずかに動かす程度なのだが、長年一緒にやってきたサバリッシュだからN響の側もわかっているし、最後のご奉公のような感じで演奏していたから、それはそれとしてりっぱな演奏だったが、しかし、もっとずっと年上であるブロムシュテットは、もっと大きな動きを伴った指揮だった。
ブラームスの4番は出だしの憂いに満ちた、きわめて印象的なメロディーの歌わせ方で、ほぼ演奏の印象が決まってしまうように思われている。ブロムシュテットの今回の演奏も、この歌わせ方をかなり練習したように感じられた。しそー、みどー、ら#ふぁー、#れしー、という音で、1、3が下向、24が上向の音形なのだが、弱拍強拍の順である。だから、楽譜のとおりに演奏すれば、「し」や「み」を弱く、「そ」「ど」を強く弾くことになる。ところが実際の演奏では、この強弱のつけかたは実に多様なのだ。楽譜に近い演奏(カラヤン、マゼール)や強弱をめだたせない演奏(晩年のクライバー)、小節ごとに変える(小沢)があるが、ブロムシュテットの今回は、明確に楽譜の逆をやっていた。つまり、最初の音を強く、つづく伸ばしの音を弱く弾かせていた。ところが、どうもこれが、最初はスムーズではなかった。昨日も演奏しているのだから、かなり慣れていたはずだが、出だしはやはり緊張するのだろうか。しかし、何度か繰り返されるうちに、この強→弱の表現がスムーズになっていった。もちろん、このような逆転した演奏もある。
ブロムシュテットの演奏でいつも感じるのは、不自然な表現はしない、楽譜に書いてあるなかでが、効果的な強調表現をするということだ。つまり安心して聴けるということであり、だが、薄味というのでもなく、ああ、いい音楽だったなという感覚を残してくれるのだ。そういう意味で、アバドに近い指揮者といえる。4楽章のパッサカリアは短い8小節のフレーズを30回以上変装していくわけだが、当然、1回1回変化していく。あるべき姿で、その変化も強調して、しかも納得させるのは、簡単なようでいて、とても難しいのだ。そうしたメリハリのきいた、しかも自然な変化を感じさせる演奏だった。そして、最後に急速にテンポをあげて勢いよく終るのだが、フルトヴェングラーのような、あまりに強烈なスピードアップをされると、ついていけない感じになるし、また、テンポのあげかたが小さいと、物足りなさを感じてしまうこともよくある。今回のブロムシュテットは、かなり速いテンポをとっていたが、しかし、不自然にならないところがさすがだった。
あるべき姿をくっきりと表現する指揮者というブロムシュテットのよさを充分に感じ取ることができた演奏だった。そして、高齢による「停滞感」などは、皆無のきびきびした演奏だった。次回の日本公演があるかどうかはわからないが、100歳でのベルリンフィル公演が実現されれば、映像でみることができるのだが。ストコフスキーがめざした100歳での指揮をぜひ実現してほしい。
蛇足だが、ブラームスの演奏で、コンサートマスターが高揚した部分で、半立ちするような、しかもかなり大きな身振りで演奏する場面が何度もあった。いつものやり方なのか、指揮者が高齢だから、身振りを大きくして、団員に伝えているのかわからないが、あのようなコンサートマスターの演奏ぶりははじめてみた。
羽鳥モーニングショーのマイナー保険証議論が不思議 ― 2024年10月24日 17:34
今日朝ごはんを食べながら、羽鳥モーニングショーを見ていたら、途中からマイナー保険証の話題にはいり、いろいろと議論していた。12月から原則マイナー保険証に統一され、既存の保険証は使えなくなる。しばらくは、代替の紙ベースの保険証が配布されるようだが、マイナー保険証に登録している人には、もちろんこない。私自身は、先日歯医者にいって、歯の治療をしてきた際に、通常の保険証からマイナー保険証に登録してきた。基本的に反対ではないが、これまでめったに医療機関に行かなかったので、その機会がなかったのである。
さて、私が理解している上での、紙ベースの現行保険証を、やめるべきであるという、あるいはやめなければならないという意味での理由は、「不正使用を防ぐため」である。現在、正規に身分証明証として機能しているのは、もっとも多くが運転免許証であるが、その他にパスポートと健康保険証がある。ただし、運転免許証とパスポートは国民全員がもっているわけではなく、国民全体がもっているはずの健康保険証も、身分証明のために認められている。つまり現行システムでは、健康保険証の身分証明能力をやめてしまうと、身分を証明する手段をもたない人がでてきてしまうという、絶対に避けなければならないことになってしまう。
ところが、健康保険証は、ほんとうの意味では、本人の証明能力はないのである。ここが問題である。そのために、不正利用がかなりなされているといわれている。実際にどの程度の被害があるかは、私にはわからないし、厳密には、政府もつかんでいないだろうが、しかし、不正利用できるようなものであることは事実だ。そして、健康保険が不正使用されるということは、国民が支払った保険料が、不正に、つかわれることになる。外国人でも、正規に入国滞在しているひとたちは、なんらかの保険措置をとっているだろうが、不法滞在しているひとたちは、当然保険証などはもっていない。しかし、かれらだって病気にはなるだろう。医療機関を利用しなければならないときには、知り合いから借りるとか、あるいは盗んだり、偽造して、医療機関にかかるひとがでてきても、まったくおかしくないのである。保険証には本人の写真がないから、それを出されれば、医療機関としては受け入れざるをえないだろう。
だから、その対策として、写真付きの保険証が必要となるわけである。保険証に、写真をつけることを義務つけることも方法としてはありだが、それこそ莫大な費用がかかるだろう。マイナンバーカードを活用するほうが、ずっと経済的であるし、他のコストもかからない。そういう意味では、マイナー保険証は、必要なものだともいえるのである。
しかし、羽鳥モーニングショーの議論では、この点がまったくふれられていないのである。玉川氏などは、運転免許証もマイナー免許証になるが、しかし、従来の免許証も残すことになっている例をもちだして、同じようにすればいいではないか、などと見当はずれのことを強調していたが、免許証には顔写真があるから、廃止する必要はないのである。番組全体として、このようなことをまったく問題にしていないし、誰もそういう点での発言をしないのが、ほんとうに不思議だった。玉川氏は、公的サービスをうけるのに、本人確認が必要でないと考えているのであろうか。なにか、組織にいって、サービスをうけるときには、(たとえば郵便局に不在郵便をとりにいくときでも)本人確認を求められる。多くは免許証を出すだろう。もっていない人は、健康保険証を出すわけだ。しかし、それがほんとうの意味で本人確認にならないことは、既に述べた。考えてみれば、医療機関で医療をうけるときには、正確な意味での本人確認をせずに、医療サービスを提供し、健康保険からの支出がなされるわけだが、システム的に不用心であり、早急の改善が必要なのではないだろうか。
テレ朝には、質問をしてみようと思う。次回の番組では、ぜひ、不正使用で莫大な保険料不正使用がなされていることを放置してもいいのか、きちんととりあげてほしいものだ。
さて、私が理解している上での、紙ベースの現行保険証を、やめるべきであるという、あるいはやめなければならないという意味での理由は、「不正使用を防ぐため」である。現在、正規に身分証明証として機能しているのは、もっとも多くが運転免許証であるが、その他にパスポートと健康保険証がある。ただし、運転免許証とパスポートは国民全員がもっているわけではなく、国民全体がもっているはずの健康保険証も、身分証明のために認められている。つまり現行システムでは、健康保険証の身分証明能力をやめてしまうと、身分を証明する手段をもたない人がでてきてしまうという、絶対に避けなければならないことになってしまう。
ところが、健康保険証は、ほんとうの意味では、本人の証明能力はないのである。ここが問題である。そのために、不正利用がかなりなされているといわれている。実際にどの程度の被害があるかは、私にはわからないし、厳密には、政府もつかんでいないだろうが、しかし、不正利用できるようなものであることは事実だ。そして、健康保険が不正使用されるということは、国民が支払った保険料が、不正に、つかわれることになる。外国人でも、正規に入国滞在しているひとたちは、なんらかの保険措置をとっているだろうが、不法滞在しているひとたちは、当然保険証などはもっていない。しかし、かれらだって病気にはなるだろう。医療機関を利用しなければならないときには、知り合いから借りるとか、あるいは盗んだり、偽造して、医療機関にかかるひとがでてきても、まったくおかしくないのである。保険証には本人の写真がないから、それを出されれば、医療機関としては受け入れざるをえないだろう。
だから、その対策として、写真付きの保険証が必要となるわけである。保険証に、写真をつけることを義務つけることも方法としてはありだが、それこそ莫大な費用がかかるだろう。マイナンバーカードを活用するほうが、ずっと経済的であるし、他のコストもかからない。そういう意味では、マイナー保険証は、必要なものだともいえるのである。
しかし、羽鳥モーニングショーの議論では、この点がまったくふれられていないのである。玉川氏などは、運転免許証もマイナー免許証になるが、しかし、従来の免許証も残すことになっている例をもちだして、同じようにすればいいではないか、などと見当はずれのことを強調していたが、免許証には顔写真があるから、廃止する必要はないのである。番組全体として、このようなことをまったく問題にしていないし、誰もそういう点での発言をしないのが、ほんとうに不思議だった。玉川氏は、公的サービスをうけるのに、本人確認が必要でないと考えているのであろうか。なにか、組織にいって、サービスをうけるときには、(たとえば郵便局に不在郵便をとりにいくときでも)本人確認を求められる。多くは免許証を出すだろう。もっていない人は、健康保険証を出すわけだ。しかし、それがほんとうの意味で本人確認にならないことは、既に述べた。考えてみれば、医療機関で医療をうけるときには、正確な意味での本人確認をせずに、医療サービスを提供し、健康保険からの支出がなされるわけだが、システム的に不用心であり、早急の改善が必要なのではないだろうか。
テレ朝には、質問をしてみようと思う。次回の番組では、ぜひ、不正使用で莫大な保険料不正使用がなされていることを放置してもいいのか、きちんととりあげてほしいものだ。
最近のコメント