松本人志訴訟取り下げについての「解釈」 ― 2024年11月12日 22:03
松本人志氏が、文春を訴えた際には、私の見解をけっこう書いたが、取り下げについては、別に書くこともないだろうと思っていた。しかし、youtubeでのいくつかの「解説」をみて、少々疑問に思うことがあったので、整理しておきたいと思った。とくに疑問に思ったのは、郷原信郎氏と元週刊朝日編集長山口一臣氏の対談である。通常は、山口氏が聞き手になって、郷原氏が解説しているのだろうが、今回は、週刊文春絡みの訴訟ということで、雑誌側にたって名誉毀損訴訟に当事者としてタッチしたという山口氏が、主に見解を述べる形になっていた。
当然、弁護士である郷原氏との対談だから、論理的におかしなことをいっているわけではないのだが、いくつか気になる点がある。
その主な点は、世間での受取りとして、松本側が勝った、いや文春が勝った、というように、自分の応援する側の勝訴を強調する論調に分れているが、そうではなく、痛み分けだというような「雰囲気」の論調なのである。そして、当然二人は「和解」と「取り下げ」の違いを正確に理解しているのに、どうも山口氏の見解を聞いていると、氏が、「和解」であるかのようなニュアンスで語っている場面が散見されるのである。松本氏が、あれだけ強行に事実無根であるという前提で、しかも、名誉毀損としては通常ありえない5億(+訴訟の費用の5千万)の損害賠償を請求するなどという訴訟をおこしておきながら、「取り下げ」たということは、あきらかに、松本氏が、敗訴を避けるために、敗訴よりは取り下げのほうが、傷が少ないという判断の下に、取り下げたと見るのが、正確であろう。提訴後の流れは、明かに、松本氏側が、余計な、やってはならないような愚行を繰り返すことによって、判事たちの心証を悪くするような状況になっていた。それは、探偵をやとって、記事の当事者である女性を尾行させたり、女性の相談相手であった弁護士に対して、訴訟を記事の取り下げを迫ったり、さらに、ありもしないその弁護士の不倫で脅しをかけるなど、あいた口がふさがらないような暴挙をしたことが、暴露されていた。もともと、文春の記事がいいかげんな取材に基づいたものではないことは、おそらく読んだ人の多くが感じていたところであり、もともと松本氏に勝ち目がないことは、ほぼ明かであった。だからこそ、こうした暴挙をしたのだろう。当初から松本氏の不利は明かだったが、こういう愚行をすることで、敗訴は確定的といってよかった。
文春側は徹底抗戦の構えであり、かつもっともっと多くの証拠を握っていたはずであり、そして、女性は何度も証言台にたつということを明言していた。まず、松本氏が恐れたことは、その証言が実現して、赤裸々にさまざまなことが語られることが第一だったろう。今回、「強制性を示す物的証拠はない」ということの確認が、松本氏に有利な条件であるために、文春側が取り下げに合意したかのような解釈がけっこうあるが、そもそも、「物的証拠」など存在しないことは、当初からわかっていることであり、文春側としても、認めていることだろう。だから、松本氏に有利だなどということはまったくないのであって、民事の名誉毀損訴訟なのだから、ほとんどは、「証言」によって判断されるのである。被害者である女性自身と、松本氏自身の証言の、それぞれについて、そしてそれを踏まえた双方の「理由付け・論理」のどちらが真実であるかを、裁判官が判断するということである。私は、松本氏のいくつかの過去のテレビでの映像をみて、この人は、論理的に追求されたときの応答力に乏しいと感じていた。おそらく、松本氏は自分の証言に自信がないに違いないと思う。さらに、松本氏の弁護士は、かつて検事時代に不正取り調べをしたことで、事実上検事を辞任せざるをえなくなったわけだが、その不正を、実際の裁判の場面で追求して暴露したのが、文春側の弁護士なのだから、その点でも、判決がでるとしたら、その結果は明かなのである。
つまり、松本氏は、裁判が進展して、証言という段階になったときに、女性から生々しい事実が語られること、自分の証言を、文春の弁護士によって、徹底的に追求されること、そのことを恐れたこと、それだけでもかなり致命的な痛手となるうえに、判決で負けたら(その可能性がほとんどなわけだが)、タレントとして、致命的、つまりテレビはもちろん、youtube等の場でも、活動しにくくなってしまう、ということを、恐れたはずである。それで「取り下げ」という、事実上文春の記事を認めるような措置をとったということだろう。
山口氏は、文春側も、血の滲むような、苦しい作業として、なんども交渉しつつ、合意に達したのだろうなどと述べているが、文春側のコメントを読めば、そういう雰囲気はまったく感じられない。松本側が「取り下げ」を申し出てきたので、女性たちと相談して受け入れたという程度のことしか述べていない。裁判手続き上、相手が取り下げをしたい場合、被告側の同意が必要だから同意したということにすぎないように思われる。もちろん、裁判などなくなったほうがいいに決まったから、しぶしぶというわけではないだろうし、郷原・山口氏がいっていたように、「被告としても、自分たちの見解が認められる判決を引きだすことを望むだろうから、勝訴だと思っていたら、取り下げに応じないはずだ」などということはなく、通常は、訴えてきた相手が引き下がるというのだから、同意するだろう。時間と労力が膨大にかかる訴訟など、回避したいのは、被告だった同様であろう。訴えた相手が取り下げたということは、被告側にとっては事実上勝訴となったこととほとんどかわらない。
蛇足だが、山口氏の発言を聞いていると、こういう人が編集長をしていたのでは、週刊朝日が廃刊になるのも、なんとなくわかるような気がした。公平な立場で、双方の主張をまとめている、などというのではなく、論理的に明解な説明ができるところを、明確に切ることができないような煮え切らない感じなのだ。
当然、弁護士である郷原氏との対談だから、論理的におかしなことをいっているわけではないのだが、いくつか気になる点がある。
その主な点は、世間での受取りとして、松本側が勝った、いや文春が勝った、というように、自分の応援する側の勝訴を強調する論調に分れているが、そうではなく、痛み分けだというような「雰囲気」の論調なのである。そして、当然二人は「和解」と「取り下げ」の違いを正確に理解しているのに、どうも山口氏の見解を聞いていると、氏が、「和解」であるかのようなニュアンスで語っている場面が散見されるのである。松本氏が、あれだけ強行に事実無根であるという前提で、しかも、名誉毀損としては通常ありえない5億(+訴訟の費用の5千万)の損害賠償を請求するなどという訴訟をおこしておきながら、「取り下げ」たということは、あきらかに、松本氏が、敗訴を避けるために、敗訴よりは取り下げのほうが、傷が少ないという判断の下に、取り下げたと見るのが、正確であろう。提訴後の流れは、明かに、松本氏側が、余計な、やってはならないような愚行を繰り返すことによって、判事たちの心証を悪くするような状況になっていた。それは、探偵をやとって、記事の当事者である女性を尾行させたり、女性の相談相手であった弁護士に対して、訴訟を記事の取り下げを迫ったり、さらに、ありもしないその弁護士の不倫で脅しをかけるなど、あいた口がふさがらないような暴挙をしたことが、暴露されていた。もともと、文春の記事がいいかげんな取材に基づいたものではないことは、おそらく読んだ人の多くが感じていたところであり、もともと松本氏に勝ち目がないことは、ほぼ明かであった。だからこそ、こうした暴挙をしたのだろう。当初から松本氏の不利は明かだったが、こういう愚行をすることで、敗訴は確定的といってよかった。
文春側は徹底抗戦の構えであり、かつもっともっと多くの証拠を握っていたはずであり、そして、女性は何度も証言台にたつということを明言していた。まず、松本氏が恐れたことは、その証言が実現して、赤裸々にさまざまなことが語られることが第一だったろう。今回、「強制性を示す物的証拠はない」ということの確認が、松本氏に有利な条件であるために、文春側が取り下げに合意したかのような解釈がけっこうあるが、そもそも、「物的証拠」など存在しないことは、当初からわかっていることであり、文春側としても、認めていることだろう。だから、松本氏に有利だなどということはまったくないのであって、民事の名誉毀損訴訟なのだから、ほとんどは、「証言」によって判断されるのである。被害者である女性自身と、松本氏自身の証言の、それぞれについて、そしてそれを踏まえた双方の「理由付け・論理」のどちらが真実であるかを、裁判官が判断するということである。私は、松本氏のいくつかの過去のテレビでの映像をみて、この人は、論理的に追求されたときの応答力に乏しいと感じていた。おそらく、松本氏は自分の証言に自信がないに違いないと思う。さらに、松本氏の弁護士は、かつて検事時代に不正取り調べをしたことで、事実上検事を辞任せざるをえなくなったわけだが、その不正を、実際の裁判の場面で追求して暴露したのが、文春側の弁護士なのだから、その点でも、判決がでるとしたら、その結果は明かなのである。
つまり、松本氏は、裁判が進展して、証言という段階になったときに、女性から生々しい事実が語られること、自分の証言を、文春の弁護士によって、徹底的に追求されること、そのことを恐れたこと、それだけでもかなり致命的な痛手となるうえに、判決で負けたら(その可能性がほとんどなわけだが)、タレントとして、致命的、つまりテレビはもちろん、youtube等の場でも、活動しにくくなってしまう、ということを、恐れたはずである。それで「取り下げ」という、事実上文春の記事を認めるような措置をとったということだろう。
山口氏は、文春側も、血の滲むような、苦しい作業として、なんども交渉しつつ、合意に達したのだろうなどと述べているが、文春側のコメントを読めば、そういう雰囲気はまったく感じられない。松本側が「取り下げ」を申し出てきたので、女性たちと相談して受け入れたという程度のことしか述べていない。裁判手続き上、相手が取り下げをしたい場合、被告側の同意が必要だから同意したということにすぎないように思われる。もちろん、裁判などなくなったほうがいいに決まったから、しぶしぶというわけではないだろうし、郷原・山口氏がいっていたように、「被告としても、自分たちの見解が認められる判決を引きだすことを望むだろうから、勝訴だと思っていたら、取り下げに応じないはずだ」などということはなく、通常は、訴えてきた相手が引き下がるというのだから、同意するだろう。時間と労力が膨大にかかる訴訟など、回避したいのは、被告だった同様であろう。訴えた相手が取り下げたということは、被告側にとっては事実上勝訴となったこととほとんどかわらない。
蛇足だが、山口氏の発言を聞いていると、こういう人が編集長をしていたのでは、週刊朝日が廃刊になるのも、なんとなくわかるような気がした。公平な立場で、双方の主張をまとめている、などというのではなく、論理的に明解な説明ができるところを、明確に切ることができないような煮え切らない感じなのだ。
兵庫県知事選について思うメディアのありかた ― 2024年11月18日 21:40
昨日兵庫知事選があり、前知事であり、議会での不信任決議で失職した斉藤氏が、再選された。議会全員一致での不信任決議、数ヶ月に及ぶテレビ・新聞等での激しい斉藤非難、当初圧倒的な不利と考えられていた斉藤氏の逆転勝利という、前代未聞ともいうべき結果に、実質的な選挙戦の期間中、以前とはまったく違うように、沈黙を貫いたテレビも、とりあげざるをえなかったようだ。今日、たまたま「羽鳥モーニングショー」と「ごごすま」で、この選挙結果をとりあつかったのを見た。そして、いかにも旧メディアの代表格であるテレビらしい反応をしていた。私は高齢者であるが、ほぼ新メディア派なので、このテレビのいいわけ的な扱いは、予想とおりであったが、腹立たしく感じた。
私自身、率直にいって、次々にテレビでパワハラやおねだりを「暴露」されていた時期には、斉藤氏はやはり問題だと感じていた。しかし、同時に、あまりに執拗なテレビなどの扱いと、100%斉藤氏への非難に固まっていたことについては、違和感を感じていたことも事実である。いくら問題があるといっても、パワハラやおねだりなどで、これほどの攻撃一辺倒というのもおかしい。多少の弁護論があるのが普通だろう。しかし、告発者が自死したということは、重い事実であるから、斉藤氏の初期対応がまずかったと思っていたことはこれまた事実である。
しかし、公益通報を無視して、ということについては、なんとなくおかしなことだとも感じていた。というのは、最初は、マスコミなどへの通報であり、それにたいして知事が対応したところ、法的な手続としての公益通報を行ったということだったが、批判されているのは前者にたいしてであり、厳密にいえば、前者は公益通報とはいえないものだったからである。
さて、こうした雰囲気が変り始めたのは、選挙戦が始まり、ネット情報として、旧メディアが毎日のように垂れ流してきた情報に対する疑問がだされてきたことである。その正確な転機は、私も知らないが、私がみて、それまでの受取りへの捉えなおしの必要を感じたのは、斉藤氏、稲村氏、立花氏他が同席しての討論会だった。偶然youtubeで見ることになったのだが、この三者が同席しているということ自体が驚きだった。そこで論を展開している立花氏の発言内容は、それまでのメディアの主張とはまったく異なるもので、稲村氏がそれに強く異議をとなえている風でもなかったので(全部みたわけではないので、他の部分ではちがっていたかもしれないが)、再度考えてみるきっかけになった。
そのとき立花氏はだいたい以下のようなことを述べていた。
1 最初の局長による通報は「公益通報ではなく」、むしろ怪文書のようなものであり、それにたいして知事が調査し、内容が不正であれば、処分するのは当然だ。
2 パワハラ、おねだりは、実際には存在しなかった。
3 局長の自死は、処分が原因ではなく、自分の職務用のパソコンに、自身の不倫の記録があったこと、そのことを委員会で公表されそうになったことだった。
4 斉藤知事が行った政策が、旧来の利権をもっていた人の反感をかったことで、知事の追い落としにあったのであって、斉藤知事がやろうとしていたことは県民のためになる政策だったのだ。
以上のようなことだった。そして、これらのことが、立花氏だけではなく、多くの人によって、ネットで拡散していった結果、稲村氏と立場が逆転していったわけである。
こうした見解を知って、その後はネットを調べて、どちらが正しいのかを考えてきた。しかし、テレビや新聞は、こうしたことにほとんどふれることなく、投票日を迎えた。
さて、結果を踏まえて、羽鳥モーニングショーやごごすまの対応を検討してみよう。
まず非常におおざっぱに言えば、ネットはまちがった情報が横行し、テレビは公共性という枠があるので、とくに選挙が始まった段階では、発言が制限されているので、対応が難しかった、といういい訳が前面に出ていたことである。しかし、私からみれば、ネットよりテレビの斉藤氏への誹謗中傷のほうが、よほど酷かったように思われる。とにかく数カ月間、テレビに毎日のように、どこかで斉藤知事のパワハラ、おねだり、をこれでもかというくらい流し続けてきた。ネットでまちがった情報がひろがるといっても、テレビの影響力からみれば小さなものだ。公共性という割には、とうてい公正な報道だったとはいえないだろう。その点について、若干でも反省的に語っていたのは、ごごすまの大久保氏だけだった。東国原氏などは、居直りとしかいいようがない、ネット批判を繰り返していた。
そして、こうした番組の参加者は、いかにもネット情報はデマで溢れているかのようにいうのであるが、そうだろうかと私はいつも、彼ら(テレビ)の認識こそ疑問をもつ。私がみるネットの書き込みが、特別だとは思わないし、よく誹謗中傷の巣のようにいわれるヤフコメをよくみるが、誹謗中傷と感じる書き込みは、ほんとうに稀にしかない。ほとんどは、考えられた内容であって、たまにみる誹謗抽象的な書き込みには、たいていたしなめる書き込みがある。だから、ネット空間は、問題がないとはいわないが、全体としては、健全な意見の交流があると思っている。ワイドショーのコメントなどのほうが、よほどレベルが低いものが多い。
もし、ほんとうに旧メディアがまじめに問題に取り組むのであれば、斉藤知事が「利権」問題にメスをいれようとしていたことは、記者をたくさんかかえている旧メディアはすぐに把握できるはずであるから、「利権」問題を解明すべく努力すべきであった。もちろん、利権といっても、ある面不可避なものもある。県庁舎の立替えは必要であるという認識は、共通のものだったのだし、立替えがなされれば、どんなに小さな規模であったとしても、受注はどこかの企業が受けるわけだから、そこには利権が発生するともいえる。ただ、兵庫の場合1000億円という従来の計画にたいして、斉藤知事が200億程度という提案をしていたということなので、その差はあまりに大きい。そこに深刻な対立が生れたことは当然のことだろう。旧メディアは、そこに公正な立場で検討を加えることができたはずである。しかし、そうしたことは、旧メディアはやらなかったようだ。いまからでも、公共事業のありかたに厳しい玉川氏は、この問題にきちんと取り組むべきであろう。
パワハラやおねだりというのは、人によって受取りが違うだろうが、報道されていたことが事実であるとすれば、あれだけ強烈に批判されるようなことではないとも思うが、知事の態度としては改めるべき点であろう。そう感じていた。3の局長の死については、当初からすっきりしないものを感じていた。テレビは、だいたい処分が原因であるとしていたが、百条委員会に出席して、知事批判をする強い意思をもっていたにもかかわらず、その直前に自死したということは、多くの人が不自然なものを感じていたにちがいない。立花氏の主張のような要素があったとすれば、取扱はそれでも非常に難しいものがあったと思われる。だから、百条委員会側がパソコンのなかみを公表しなかったことは、プライバシーの保護という点で納得できるが、斉藤知事への非難の中心的論点のひとつである点を考えれば、斉藤擁護派としては、明かにする必要があったのだろう。公用パソコンにプライベートなことを保存してよいか、その内容がプライバシーとして保護されるか、という点については、私的内容をいれている人は少なくないように思うが、問題が発生したときに、プライバシーを理由に当人が秘匿できるものとは思わない。
県民の意思は表明されたわけだが、全員一致で不信任をしたり、アンケートにパワハラがあったと書いた職員と、協力して県政をしていかなければならないわけだから-、斉藤知事の苦労はまだまだつづくということだろう。誠実に対応してほしいものだが、利権にしがみつく職員や議員には厳しくすべきであろう。
この間の報道のしかたをみていると、テレビは、ジャーナリズムの騎手としての位置はまったく機能していないのだと改めて感じた。
私自身、率直にいって、次々にテレビでパワハラやおねだりを「暴露」されていた時期には、斉藤氏はやはり問題だと感じていた。しかし、同時に、あまりに執拗なテレビなどの扱いと、100%斉藤氏への非難に固まっていたことについては、違和感を感じていたことも事実である。いくら問題があるといっても、パワハラやおねだりなどで、これほどの攻撃一辺倒というのもおかしい。多少の弁護論があるのが普通だろう。しかし、告発者が自死したということは、重い事実であるから、斉藤氏の初期対応がまずかったと思っていたことはこれまた事実である。
しかし、公益通報を無視して、ということについては、なんとなくおかしなことだとも感じていた。というのは、最初は、マスコミなどへの通報であり、それにたいして知事が対応したところ、法的な手続としての公益通報を行ったということだったが、批判されているのは前者にたいしてであり、厳密にいえば、前者は公益通報とはいえないものだったからである。
さて、こうした雰囲気が変り始めたのは、選挙戦が始まり、ネット情報として、旧メディアが毎日のように垂れ流してきた情報に対する疑問がだされてきたことである。その正確な転機は、私も知らないが、私がみて、それまでの受取りへの捉えなおしの必要を感じたのは、斉藤氏、稲村氏、立花氏他が同席しての討論会だった。偶然youtubeで見ることになったのだが、この三者が同席しているということ自体が驚きだった。そこで論を展開している立花氏の発言内容は、それまでのメディアの主張とはまったく異なるもので、稲村氏がそれに強く異議をとなえている風でもなかったので(全部みたわけではないので、他の部分ではちがっていたかもしれないが)、再度考えてみるきっかけになった。
そのとき立花氏はだいたい以下のようなことを述べていた。
1 最初の局長による通報は「公益通報ではなく」、むしろ怪文書のようなものであり、それにたいして知事が調査し、内容が不正であれば、処分するのは当然だ。
2 パワハラ、おねだりは、実際には存在しなかった。
3 局長の自死は、処分が原因ではなく、自分の職務用のパソコンに、自身の不倫の記録があったこと、そのことを委員会で公表されそうになったことだった。
4 斉藤知事が行った政策が、旧来の利権をもっていた人の反感をかったことで、知事の追い落としにあったのであって、斉藤知事がやろうとしていたことは県民のためになる政策だったのだ。
以上のようなことだった。そして、これらのことが、立花氏だけではなく、多くの人によって、ネットで拡散していった結果、稲村氏と立場が逆転していったわけである。
こうした見解を知って、その後はネットを調べて、どちらが正しいのかを考えてきた。しかし、テレビや新聞は、こうしたことにほとんどふれることなく、投票日を迎えた。
さて、結果を踏まえて、羽鳥モーニングショーやごごすまの対応を検討してみよう。
まず非常におおざっぱに言えば、ネットはまちがった情報が横行し、テレビは公共性という枠があるので、とくに選挙が始まった段階では、発言が制限されているので、対応が難しかった、といういい訳が前面に出ていたことである。しかし、私からみれば、ネットよりテレビの斉藤氏への誹謗中傷のほうが、よほど酷かったように思われる。とにかく数カ月間、テレビに毎日のように、どこかで斉藤知事のパワハラ、おねだり、をこれでもかというくらい流し続けてきた。ネットでまちがった情報がひろがるといっても、テレビの影響力からみれば小さなものだ。公共性という割には、とうてい公正な報道だったとはいえないだろう。その点について、若干でも反省的に語っていたのは、ごごすまの大久保氏だけだった。東国原氏などは、居直りとしかいいようがない、ネット批判を繰り返していた。
そして、こうした番組の参加者は、いかにもネット情報はデマで溢れているかのようにいうのであるが、そうだろうかと私はいつも、彼ら(テレビ)の認識こそ疑問をもつ。私がみるネットの書き込みが、特別だとは思わないし、よく誹謗中傷の巣のようにいわれるヤフコメをよくみるが、誹謗中傷と感じる書き込みは、ほんとうに稀にしかない。ほとんどは、考えられた内容であって、たまにみる誹謗抽象的な書き込みには、たいていたしなめる書き込みがある。だから、ネット空間は、問題がないとはいわないが、全体としては、健全な意見の交流があると思っている。ワイドショーのコメントなどのほうが、よほどレベルが低いものが多い。
もし、ほんとうに旧メディアがまじめに問題に取り組むのであれば、斉藤知事が「利権」問題にメスをいれようとしていたことは、記者をたくさんかかえている旧メディアはすぐに把握できるはずであるから、「利権」問題を解明すべく努力すべきであった。もちろん、利権といっても、ある面不可避なものもある。県庁舎の立替えは必要であるという認識は、共通のものだったのだし、立替えがなされれば、どんなに小さな規模であったとしても、受注はどこかの企業が受けるわけだから、そこには利権が発生するともいえる。ただ、兵庫の場合1000億円という従来の計画にたいして、斉藤知事が200億程度という提案をしていたということなので、その差はあまりに大きい。そこに深刻な対立が生れたことは当然のことだろう。旧メディアは、そこに公正な立場で検討を加えることができたはずである。しかし、そうしたことは、旧メディアはやらなかったようだ。いまからでも、公共事業のありかたに厳しい玉川氏は、この問題にきちんと取り組むべきであろう。
パワハラやおねだりというのは、人によって受取りが違うだろうが、報道されていたことが事実であるとすれば、あれだけ強烈に批判されるようなことではないとも思うが、知事の態度としては改めるべき点であろう。そう感じていた。3の局長の死については、当初からすっきりしないものを感じていた。テレビは、だいたい処分が原因であるとしていたが、百条委員会に出席して、知事批判をする強い意思をもっていたにもかかわらず、その直前に自死したということは、多くの人が不自然なものを感じていたにちがいない。立花氏の主張のような要素があったとすれば、取扱はそれでも非常に難しいものがあったと思われる。だから、百条委員会側がパソコンのなかみを公表しなかったことは、プライバシーの保護という点で納得できるが、斉藤知事への非難の中心的論点のひとつである点を考えれば、斉藤擁護派としては、明かにする必要があったのだろう。公用パソコンにプライベートなことを保存してよいか、その内容がプライバシーとして保護されるか、という点については、私的内容をいれている人は少なくないように思うが、問題が発生したときに、プライバシーを理由に当人が秘匿できるものとは思わない。
県民の意思は表明されたわけだが、全員一致で不信任をしたり、アンケートにパワハラがあったと書いた職員と、協力して県政をしていかなければならないわけだから-、斉藤知事の苦労はまだまだつづくということだろう。誠実に対応してほしいものだが、利権にしがみつく職員や議員には厳しくすべきであろう。
この間の報道のしかたをみていると、テレビは、ジャーナリズムの騎手としての位置はまったく機能していないのだと改めて感じた。
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