兵庫知事選から考える2024年12月08日 21:40

 前回ブログを書いてから、ずいぶんと日時が経ってしまった。実はふたつほど途中まで書いたのだが、内容が古くなってしまったそのままにしている。そのひとつが、斉藤知事問題である。とにかく、事態が目まぐるしく動いた。選挙前のパワハラ非難の大合唱から、議会の全員一致による不信任決議、そして、再選挙、立花氏の登場による選挙戦の転換、斉藤氏の再選、そして、その後の展開も、PR会社による暴露と公選法違犯論議というように展開して、いまだに議論はおさまらない。
 途中まで書いて中断した文章は、この一連の流れを、単にパワハラ問題や公益通報問題などの個別的なことよりも、一連の動向が、最初から仕組まれた政治的な斉藤廃除勢力による、計画的な動きであって、兵庫県の政策をめぐる旧体制と新体制の相剋であるという中に、位置づけようと考えたわけである。廃除の活動は、斉藤知事側の反撃もあり、事態はすこしずつ、斉藤追い落とし派の計画とは違った方向に動き出して、「事実は小説より奇なり」という様相を呈したことを整理して、議論すべき点を自分なりに論じようと思ったわけである。
 最初の 「公益通報」なるものが、そういえるものであったのか、公益通報であったのか、あるいはたんなる怪文書的なものであったのか、通報したとされる人物の自殺の原因は何だったのか、というような論点は、ずいぶん議論されたが、あたらしく出た公選法違犯問題については、違犯かどうかという点に議論が集中しているように思われる。
 しかし、私の基本的な立場として、斉藤知事を支持しているわけではなく、私が兵庫県民だったとしても、斉藤氏に投票したわけではないという立場で考えてみても、一連のメディアによる現在も続いている斉藤批判には、疑問を感じるのである。とくにメディアのダブルスタンダードについては、大きな問題であるといわざるをえない。

 現在の最大の論点である公選法違犯についても同様である。特定の企業に頼んで選挙戦略をたて、それにしたがって選挙運動をしたことが、公選法違犯になるかどうかについては、法律論的には、違犯の可能性が高いのであろう。もっとも、だからといって起訴されるかどうかはまた別問題であるが。私がメディアの報道に疑問をもつのは、近年において、PR会社などに依頼して、選挙活動を行うことは、いくらでも行われているのではないかということだ。都知事選の「石丸現象」が相当話題になったが、石丸氏の選挙活動は、そうした選挙運動のプロとして有名な人に依頼して、全面的なバックアップをうけて、当選はしなかったけれども、予想もつかなかったような得票をえたわけである。そして、バックアップした人物も名前もさんざん報道されていた。しかし、そのことに関して、公選法違犯だなどと、メディアは問題にしただろうか。石丸氏は当選しなかったから、違犯は問題にならないということでもないはずである。実際に石丸氏の応援をした当人が、斉藤知事の選挙活動が問題視されたことで、今後かなり制約されるような談話を発表した。
 それから、そのことが法律上の違犯にならないとしても、知事選挙であれば、その政党の県議や市長が実質的な選挙活動を担っていることも、常識である。当然、表面的には選挙応援をしないとしても、実質的に支持拡大のために動いていることは誰も否定しないだろう。もちろん、そのために彼らが、その活動に関わる支払をうけているわけではないから、公選法の違犯にはならないかもしれないが、しかし、やっていることは、PR会社でやっていることと似たようなものであり、むしろ、彼らが税金で生計のみならず、政治活動、つまり選挙期間中は実質的な選挙運動をしていることになるのだから、PR会社に依頼することよりも、選挙戦としての公正さをそこなうものではなかろうか。

 このように考えていけば、今回の選挙が公選法違犯であるかどうかという問題とは別に、現在の社会状況のなかでの選挙活動のありかたは、検討しなければならない、活動の自由の範囲を拡げる形での検討が必要であると思うのである。これまでの選挙のやり方に関する原則は、ネット社会以前のあり方である。しかし、社会システムは、ネットの普及によって根本的に変化しているのであるから、選挙のあり方についても、ネット社会に適した方法を許容していく必要がある。
 逆に考えてみればすぐにわかることだが、既に政権をとっている、あるいは知事選等での現職の陣営は、旧来の方式が好ましいわけである。現職を何期かつとめている知事にとってみれば、当然自分の選挙のために動いてくれる議員等が多数いるだろう。彼らがお金を配れば当然買収だから違犯だが、電話をかけたり、政治活動の一環で支持を訴えるようなことは自由にできる。しかし、新人は、そうして動いてくれる人はほとんどいないわけであり、新しい方式を使わざるをえない。今回の兵庫知事選で、斉藤氏が新しい方式をとり、稲村氏が比較的組織に頼った方式をとっていたのは、当然のことであるといえるだろう。しかし、PR会社に依頼して、有償で動いてもらうことは、公選法で禁止されているから違犯だとしても、民主主義にとって悪いことなのだろうか。「有償」部分が買収的な要素をもったら問題だろうが、それは、完全に収支の全面的な開示を義務つけることによって、問題性を防ぐことはできるだろう。むしろ、お金はないが、支持を拡げられるような政策をもった候補者が、クラウドファンディング等で資金を集め、その資金で宣伝活動を充実させたり、あるいは、適切なPR会社を使って政策を広めることができれば、それは民主主義にとって、非常に好ましいことなのではないかと思うのである。要は、お金を使うことではなく、裏金であったり、闇の使用であることが問題であって、透明性を確保すれば、お金を選挙で使うことの不正は抑止できるはずである。

悠仁親王進学問題に関する八幡氏の論2024年12月09日 22:26

 悠仁親王の大学受験をめぐり、さまざまな議論があり、また、それが皇室のありかたにまで発展している現状であるが、皇室に詳しいとされる八幡和朗氏の文章が、president online(ヤフー・ニュース掲載)が公表されている。悠仁さまに東大以外の「有力な選択肢」が浮上…秋篠宮さまご夫妻が頑なに「学習院」を避ける裏事情(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
 経歴から見る限り、八幡氏は、きわめて知的レベルの高い優秀な人であるにもかかわらず、いかにも、事実誤認といわざるをえない表現が散見される。皇室問題は、日本社会のありかたをめぐる重要な柱であり、八幡氏の論のおかしな点を批判しておきたい。
 1ページから4ページまであるが、1ページ目は、これまでの進学に関する整理で、とくに異論はない。「秋篠宮さまご夫妻がよりリベラルで知的な校風のお茶の水や筑波大学附属を好まれたのは理に適っていた。」と書かれている点については、そのはいり方が問題なのだという批判をもたれているが、八幡氏は、皇室は特権だらけだといっていることでわかるように、特権を使うことについては、ほとんど疑問を懐いていないようだ。
 「この反発は、悠仁さまが東京大学志望だという憶測によって頂点に達した。「皇族特権」といわれたが、皇族の生活や人生は特権だらけだ。スポーツ観戦やテーマパークでの遊びでも、庶民と同じように列に並んだり、抽選に参加されるわけでない。お召し列車に乗ったり、パトカー先導で車で移動したりもする。」という文章によくあらわれている。しかし、こうしたことがらに国民の批判が向けられることは、私はまだみたことがない。スポーツ観戦や音楽鑑賞、お召し列車などは、最初からそのように設定されていることであり、スポーツ観戦で特別席でみる人は、別に皇室だけではない。しかし、こういうとくに国民が異論をもっていない面をもって、受験の特権を肯定するのは、ほんとうの問題からそれているのである。
 「もし東京大学に悠仁さまが入られたら、受験生1人が落とされるといわれたが、3人の五輪出場枠ならともかく、東大には何千人も定員がある。」という文章に、八幡氏の勘違いが典型的に表れている。東大の定員は何千人だから、悠仁親王一人くらい特別に入っても問題ないだろうということのようだが、その前段階では、東大の推薦は各高校に推薦枠があり、筑付は4人なのである。さまざまな条件がある中で、通常の学業成績でもきわめて優秀であることが、4人枠に入るために必要とされている。しかし、「事実に反する」と八幡氏はいうかもしれないが、悠仁親王の筑付での成績は惨憺たるものであることが、露顕している。私は事実そうだろうと思う。お茶の水女子大附属中学は、男子の偏差値は低いが、そのなかでもとくに優秀ではなかったといわれており、筑付も特別枠の事実上無試験入学だったから、そもそも筑付の授業についていけると考えるほうが不自然なのである。そうした予想とおりになったわけであり、そういう中で、筑付の東大推薦枠を悠仁親王がとるということは、八幡氏がいう「オリンピック3人枠」を特権である人物がとってしまうことと、ほとんど同質の問題なのである。
 悠仁親王の現在進行しているらしいやり方での東大進学に反対している人も、まったく通常の定員を奪うことなく、まったくの別枠としての皇室特権を制度化して入ることは、反対していない人が多いのである。
 東大何千人と書いたあとで、留学生枠、沖縄枠、女性枠などが議論されているというが、これは、そもそもいくら優秀であっても、条件等で不利になっているひとたちに機会を与えるという趣旨で論議されていることであって、そもそも最大特権人である皇室に、更なる枠、しかも、通常の受験生の枠を特権的に奪うこととは、まったく違う次元の問題であろう。

 そして、なぜ八幡氏が次のような見解を書けるのか、いささか不思議にすら思う。
 「私は、学業に無理なくついて行けるのであれば東大進学は別に構わないと思ったし、悠仁さまは、推薦入試の基準にだいたい合致していたのである。」
 学業に無理なくついていける、推薦入試の規準にあっているというが、どちらも適切な判断とはいえない。
 筑付の授業にとてもついていけない状況であることは、さまざまにいわれており、私自身、それは充分ありうる事態であると思うし、また、入学前からそうなると思っていた。だから、生物以外の科目は、きわめて不充分な成績であるというのは、まったく驚くことではない。筑付という高校の授業についていけないのに、東大の理系の授業についていけるはずがない。
 推薦入試の規準にあっているというのも、まったく説得力のない言い方である。トンボに関する学術論文といっても、データをいくらかだしたかもしれないが、専門の研究者が書いたものであると思わざるをえないし、学会発表といっても、全体の式典に出席しただけで、みずからのワークショップでの説明はせずに帰宅してしまったと報道されているのである。それで学会発表したことにならないことは、誰の目からみてもそうだろう。筑付進学のためと思われた九州の作文コンクールでは、剽窃が指摘されていることも記憶に新しい。剽窃は禁止というルールの下に行われたコンクールであるにもかかわらず、当選が無効にならなかったのは、いかにも歪んだ皇室特権であったろう。今回の学術論文でも、実は、東大入学反対署名をした会のホームページに、詳細にそのおかしな点が指摘されているのである。
 八幡氏のようなエリートコースを歩んだ人間であれば、悠仁親王の学力については、よくわかっていると私は思う。

 次に皇位継承問題にうつっている。(3ページ目)ここでは、悠仁親王は帝王教育を受けていない、人物的にも愛子内親王のほうが人格、成績等天皇にふさわしいという神道研究家の隆盛明勅氏の論を批判する形で、悠仁親王を擁護している。ただ、絶対的に悠仁親王が天皇になるべきで愛子天皇はふさわしくないとまでは書かれていない。たしかに、愛子内親王は、八幡氏のいうように、帝王教育を受けているわけではないと、私も思う。なぜなら現在のシステムでは天皇になることはないからである。ただ、国民の少なからぬひとたちが愛子天皇期待論を、人柄や能力などを根拠に懐いていることはある。しかし、私は、そういう理由ではなく、きわめて単純に、男女平等のこの社会で、男系男子のみが皇位継承するなどという時代錯誤的なことをしてはならないということだ。私自身は、天皇システムの支持者ではないので、皇位継承者がいなくなることについて、別に危機感を懐かないが、国民が分裂しそうになるかもしれないような大問題をあえて議論して、天皇制廃止をする必要は感じていない。ただ、維持されるならば、憲法の大原則である男女平等の原則にたつべきであり、皇室典範は憲法違犯であると思っている。能力や人格においても、愛子内親王のほうが、悠仁親王よりも天皇にふさわしいと思うが、その理由で、特別に愛子内親王の即位を主張するものではない。
 皇室継承の危機が、男系男子にかぎる点にあることは、明々白々なのに、Y染色体などというカルト的な主張による時代錯誤の主張を、八幡氏はなぜ、こういう文章で問題にしないのだろうか。

103万の壁論議の疑問2024年12月10日 21:58

 103万円の壁や106万円の壁が議論されている。しかし、この議論にどうも違和感を拭えない。103万円の壁を高くしようという議論は、結局、課税されない範囲でしか働かない原因になっている壁を多少とも高くして、働く時間を多少なりとも増やそうとしているわけだが、賃金の上昇を求めている状況では、結局、働く時間などそう増えないことも起きるわけである。そうして税収だけは確実に減ってしまう。さらに、社会保険にかかわる106万円の壁がからむと、同じように処理すれば、社会保険の収入が減ることになり、健康保険や年金の財源の減少となってしまう。つまり、今の議論をみていると、結局、パート労働者の労働時間はそれほど増加せず、社会の側で必要な財源が減少してしまうということになりはしないか。それがほんとうにいいことなのだろうか。
 私自身は、そもそも、課税されない限度があるということに、あまり賛成できないのである。つまり、働いて収入がある以上、収入に応じて税金を払うのが、国民として当然なのではないかと思う。そんな酷いといわれるかも知れないが、現実の税制度が合理的であるとは思えない。
 かなり単純化した言い方になるかも知れないが、問題になっているのは、基礎控除と配偶者控除が主なものだろう。
 そもそも基礎控除とはなにか。所得税とは、えられた収入にたいしてかかる税だが、収入額全額ではなく、その収入を得るために必要だった経費を除いた額にたいしてかかるものである。ところが、雇用者にたいしては、最初からその控除額を収入に応じて決めてしまうのである。欧米などでは、実際にかかった経費を差し引いて、所得を決める方式をとっている国もある。というより、むしろ歴史的にはそうした方法からはじまったはずである。それが、日本の場合早く、そうした経費をかってに税当局が決めて、それを基礎控除としているのである。そのことによって、雇用者は自分て領収書など保存して計算する手間が省けるという利点はあるが、実際にはもっと多くの経費がかかっている場合もある。このやり方は、源泉徴収方式とあいまって、国が税を徴収することを確実にできるし、さらに、国民に納税者意識をあまり感じさせないという政治的効果があるとされている。日本人の多くが、納税者意識が弱いのは、この基礎控除と源泉徴収制度によるといえるのである。現在はそれでも納税者意識が向上しているが、それは消費税のためである。やはり、雇用者でも、自分で経費を計算して、納税額を計算して、自分で納税する、そうすることが、民主主義国家としての主権者として適切な方式だろう。もちろん、めんどうだから、現行でよいという人は、そういうやり方も認めてよい。予め前年度にどちらの方式をとるかを届けることにすれば、それほどの混乱はないだろう。
 それから、配偶者控除というのは、女性が結婚したら、主婦となって子育てをするという生活様式を前提にした制度といえるだろう。配偶者が働いていなければ、その分生活費がたいへんだから、その分税で考慮しようということだ。しかし、現在の日本のように、圧倒的に労働者不足であるのに、103万の壁などで、労働時間を短いものにする、パートで働くなどという状況こそ克服する必要があるのに、その基本問題を視野にいれないで、壁を多少高額にするなどというやり方では、社会全体の問題を解決することはできない。
 やはり、国民は、特別な事情がない限りは、原則として働くというシステムを前提に、税制度は考えるべきなのである。そして収入に応じて、合理的な税率、当然累進課税を決めればよい。収入が非常に低い場合には、非常に低い税率にすればよい。特別な事情があって労働できない者には、その特別な事情故に、特別な援助を制度化する必要がある。全員が働くことを前提とした制度にすれば、「壁」などという問題そのものが解消されるのである。

「紀州のドンファン」事件の無罪判決2024年12月12日 21:08

 いわゆる「紀州のドンファン」と呼ばれた資産家の殺害事件の判決公判があり、無罪とされた。この被害者は、生前からメディアでは有名だったが、死亡したというニュースには驚いたものだった。少し前に結婚した女性が、50歳も若く、通常ありえないと思うし、多くの人が、女性のほうの遺産狙いを感じたろう。
 死亡したときのニュースでは、たしか殺害されたという断定はなかなかさなかったと思うし、現在でも、死因そのものは覚醒剤の過剰摂取ということになっているようだが、それが事故なのか、自殺なのか、他殺なのかは定かではないようだ。判決は、自身で「誤って致死量の覚醒剤を摂取」という可能性を否定していないと報道されている。ほんとうに不可解な事件だった。
 妻は最初から疑われたが、考えてみれば、ドンファンはかなりの高齢であり、死亡すれば、遺言で公的機関に遺贈するという遺言書があったとされるが、当然遺留分はあるわけだから、かなりの遺産がそれほど遠くない時期に入るわけであり、殺害などしたら、それが無になってしまう。合理的に考えれば、殺害の動機は薄い。しかし、では他に可能性があるのか。等々。妻である女性は、以前に結婚詐欺をやっているので、犯罪などに縁のないまっとうな人間とも思われていなかった。死亡推定時刻に家にいたのは、妻だけだ、今は覚醒剤を入手しようとしていたらしいやりとりが残っている。
 こうして、結局は状況証拠によって起訴されたわけである。
 私は、場所が和歌山県であるということで、カレー事件を思い出さざるをえなかった。多くの人が、想起しただろうと思う。カレー事件のときにも、とにかくメディアの報道が加熱して、特定の女性への疑いが連日報道されたものだ。そして、結局彼女が起訴され、死刑が確定している。しかし、詳細に調べたわけではないが、私は冤罪だと思っている。これもかなり強引な状況証拠(ともほんとうはいえないのだが)と、マスコミの報道によって、彼女が犯人にされたが、なによりも、彼女が他の人に毒をもったことがあるとしても、それはすべてお金目的だったのであり、自身がいっているように、お金にならないのに、人を殺したりしない、というのは、ほんとうのところだろうと思うからである。彼女にとって不利なのは、たしか夫に毒をもって、(といって致死量ではない)保険金をとろうとしたことがあることは間違いないので、とにかく、「悪人」だと思われたのは、ある意味自然の成行であった。そして、一審では黙秘を通し、死刑判決になってしまったので、高裁からは無実の主張をしたが、判決は維持され、確定したのである。しかし、冤罪であるとして再審要求を援助しているひとたちもいて、彼女はいまでも無実を訴えている。最近ではネットでも、彼女の冤罪を主張する書き込みもある。彼女もやはり状況証拠だけで、起訴され、しかも、「疑わしきは罰する」ように死刑判決が確定してしまったのである。

 おそらく、和歌山の司法関係者もそういう反省的思いの人は、少なからずいるに違いない。判決の数日前、今回の事件が再度放送されたとき、私は、無罪判決がでるような気がした。それは、カレー事件のようになってはいけないという、裁判関係者の思いがあるに違いないと思ったからである。「疑わしきは罰せず」という刑事訴訟の大原則が、守られたことは、とてもよかったと思う。

田中将大問題で感じること2024年12月13日 21:41

 現在の日本プロ野球界における屈指の名投手である田中将大が、楽天から自ら身を引く形で自由契約選手となり、新天地で活躍したいという希望を表明しながら、いまだに田中を獲得しようという球団が現われないという、たいへん注目される事態になっている。田中がなぜ、自由契約を望んだのか、なぜこれほどの実力ある投手を、どの球団もとろうとしないのか、その他さまざまなことが、実に多くの人によって意見表明されている。そういう中で、楽天球団で起った安楽選手のハラスメント問題が尾をひいているという見方が、多数だされていることにたいしてだろうと思われるが、田中が法的措置をとるかも知れないと宣言したように報道されている。
 多くの人が指摘しているように、田中が楽天を退団した際、そしてその後の行動については、田中をとりたいと思っていても、それを躊躇しかねないような行為のように思われている。「自分が必要とされていないと感じた」とか、ニューヨーク・ヤンキースから楽天に移籍したときに、「もっといい条件を提示してくれた球団もあったが」などという発言などは、やはり、私が聞いても、言い方が適切ではないように感じられる。ただ、私の感覚では、やはり「法的措置」発言が、もっとも言ってはならないものだったと思うのである。まさか、実際に提訴したりはしないだろうが、そういう発言をすること自体の悪影響を考えなかったとしたら、少々未熟さを感じてしまう。
 詳しいことは私も知らないが、安楽が、後輩選手たちにハラスメントをしたということで、退団せざるをえなくなったわけだが、その際、田中がそのハラスメントを黙認していた、あるいは煽っていた、さらには、自身もかかわっていたというようなことが、ネットでいわれていたわけである。私自身、そうした書き込みを少なからず読んだ。そして、私自身はみていないのだが、そういう書き込みには、安楽のやっているハラスメント行為を映した動画があり、そこでは田中が笑ってみていた姿が映っているという。それを「みた」という複数の書き込みがあったから、おそらく間違いないのだろう。田中自身のいいたいことは、自分は安楽のハラスメントにはまったく関わっていないということだろう、だから、そうした書き込みは誹謗中傷であり、名誉毀損であるということなのだが、そうした動画があれば、法的措置をとっても、田中の主張が通る可能性は低いと思われる。
 それよりも、法的措置をとる、などという発言をしてしまうことが、抑圧的姿勢を感じさせてしまう。スポーツの世界では、しごきなどのハラスメント的行為は、とくに以前は日常茶飯事だったし、いまでもそうした体質がある団体も少なくないだろう。そうした背景を考えれば、田中の法的措置発言は、ハラスメント的体質を田中がもっていると感じさせてしまうのではなかろうか。ほんとうにないのであれば、田中はyoutubeをやっているようだし、また記者会見をすることも可能なのだから、そういう手段をもちいて、真実はこうだった、と公表すればよいのである。松本人志がそうであるように、みずから世間に説明せず、法的措置をとると言うことは、(松本は実際に提訴したわけだが)むしろ逆効果、つまり、ほんとうはそういうことがあったのではないか、という受取りをされがちなのである。
 球界に居場所を見つけるのは、多くの人が指摘しているように、ネガティブな対応ではなく、自分の努力によるのではなかろうか。