東京都交響楽団演奏会の「現代音楽」感想2025年05月01日 11:38

 昨日、東京都交響楽団の定期演奏会Aにいってきた。プログラムはすべて、いわゆる現代音楽に属するもので、好きな人にとってはたまらない演目だが、すきではない者にとっては、二度と聴きたくないようなものだった。残念ながら私は後者のほうだ。曲目は
 トリスタン・ミュライユの「ゴンドワナ」
 夏田昌和の「オーケストラのための<重力波>
 黛敏郎の「涅槃交響曲」
 私はすべて初めて聴く曲だった。何故、感想がはじめからわかっている演奏会に行ったかというと、2025年度の定期会員になったからである。前回は、アルバン・ベルクとブラームスだったし、今後もいろいろあるのだが、定期会員だから、仕方なくというほどでもないが、たまにはいい経験かもしれないと思っていたことも間違いない。
 ゴンドワナとオーケストラのための重力波は、1980年、2004年というように、本当に新しい曲だが、「現代音楽」そのものという感じで、すこしも「音楽」を、私は感じなかった。このような音楽を聴くと必ず思い出すのは、ペッカ・サロネンの言葉だ。彼は、作曲家でもある指揮者だから、新しい音楽を積極的にとりあげていたのだが、あるとき、カフェにはいったときに、若い作曲家たちが、さかんに乱数表を使って作業をしていたという。そして、乱数表で作曲をしていることがわかって、その後、少なくともそうした傾向の音楽は、決して演奏しないという決意をしたというのだ。つまり音列を乱数表で決めていたということになる。
 これは、私がいつも疑問に思うことを裏付けるような話でもあった。つまり、こうした音楽を作曲する人は、その音楽が、インスピレーションとして頭のなかに浮かんできたものなのだろうか、ということだ。
 「オーケストラのための重力波」は、たしかに、宇宙空間や重力を意識させるような響きだったが、これは、そういう音はどんなものなのか、という問題意識が最初にあって、それをさまざまな音響実験をした結果としてまとめられたという想像をしてしまうのだ。聞かされているのは、心のなかにわき出た「音楽」ではなく、「音響」で、音響実験につきあわされているような感覚だった。
 涅槃交響曲は、多少古いし、合唱が入ったためか、音響実験的要素は稀薄だったが、それでも、能のような(お経らしいが)声に大管弦楽があわさったような感じで、やはり、「音楽」を感じることは、私にはできなかった。
 いずれも、特に夏田・黛の演奏には大拍手だったが、(夏田氏自身が舞台にあがって礼をしていた)私には、演奏者にたいする拍手のように感じた。あのような音楽は、演奏がほんとうに難しいと思うので、東京都交響楽団のひとたちには、拍手したい想いだった。