103万の壁論議の疑問2024年12月10日 21:58

 103万円の壁や106万円の壁が議論されている。しかし、この議論にどうも違和感を拭えない。103万円の壁を高くしようという議論は、結局、課税されない範囲でしか働かない原因になっている壁を多少とも高くして、働く時間を多少なりとも増やそうとしているわけだが、賃金の上昇を求めている状況では、結局、働く時間などそう増えないことも起きるわけである。そうして税収だけは確実に減ってしまう。さらに、社会保険にかかわる106万円の壁がからむと、同じように処理すれば、社会保険の収入が減ることになり、健康保険や年金の財源の減少となってしまう。つまり、今の議論をみていると、結局、パート労働者の労働時間はそれほど増加せず、社会の側で必要な財源が減少してしまうということになりはしないか。それがほんとうにいいことなのだろうか。
 私自身は、そもそも、課税されない限度があるということに、あまり賛成できないのである。つまり、働いて収入がある以上、収入に応じて税金を払うのが、国民として当然なのではないかと思う。そんな酷いといわれるかも知れないが、現実の税制度が合理的であるとは思えない。
 かなり単純化した言い方になるかも知れないが、問題になっているのは、基礎控除と配偶者控除が主なものだろう。
 そもそも基礎控除とはなにか。所得税とは、えられた収入にたいしてかかる税だが、収入額全額ではなく、その収入を得るために必要だった経費を除いた額にたいしてかかるものである。ところが、雇用者にたいしては、最初からその控除額を収入に応じて決めてしまうのである。欧米などでは、実際にかかった経費を差し引いて、所得を決める方式をとっている国もある。というより、むしろ歴史的にはそうした方法からはじまったはずである。それが、日本の場合早く、そうした経費をかってに税当局が決めて、それを基礎控除としているのである。そのことによって、雇用者は自分て領収書など保存して計算する手間が省けるという利点はあるが、実際にはもっと多くの経費がかかっている場合もある。このやり方は、源泉徴収方式とあいまって、国が税を徴収することを確実にできるし、さらに、国民に納税者意識をあまり感じさせないという政治的効果があるとされている。日本人の多くが、納税者意識が弱いのは、この基礎控除と源泉徴収制度によるといえるのである。現在はそれでも納税者意識が向上しているが、それは消費税のためである。やはり、雇用者でも、自分で経費を計算して、納税額を計算して、自分で納税する、そうすることが、民主主義国家としての主権者として適切な方式だろう。もちろん、めんどうだから、現行でよいという人は、そういうやり方も認めてよい。予め前年度にどちらの方式をとるかを届けることにすれば、それほどの混乱はないだろう。
 それから、配偶者控除というのは、女性が結婚したら、主婦となって子育てをするという生活様式を前提にした制度といえるだろう。配偶者が働いていなければ、その分生活費がたいへんだから、その分税で考慮しようということだ。しかし、現在の日本のように、圧倒的に労働者不足であるのに、103万の壁などで、労働時間を短いものにする、パートで働くなどという状況こそ克服する必要があるのに、その基本問題を視野にいれないで、壁を多少高額にするなどというやり方では、社会全体の問題を解決することはできない。
 やはり、国民は、特別な事情がない限りは、原則として働くというシステムを前提に、税制度は考えるべきなのである。そして収入に応じて、合理的な税率、当然累進課税を決めればよい。収入が非常に低い場合には、非常に低い税率にすればよい。特別な事情があって労働できない者には、その特別な事情故に、特別な援助を制度化する必要がある。全員が働くことを前提とした制度にすれば、「壁」などという問題そのものが解消されるのである。

悠仁親王進学問題に関する八幡氏の論2024年12月09日 22:26

 悠仁親王の大学受験をめぐり、さまざまな議論があり、また、それが皇室のありかたにまで発展している現状であるが、皇室に詳しいとされる八幡和朗氏の文章が、president online(ヤフー・ニュース掲載)が公表されている。悠仁さまに東大以外の「有力な選択肢」が浮上…秋篠宮さまご夫妻が頑なに「学習院」を避ける裏事情(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース
 経歴から見る限り、八幡氏は、きわめて知的レベルの高い優秀な人であるにもかかわらず、いかにも、事実誤認といわざるをえない表現が散見される。皇室問題は、日本社会のありかたをめぐる重要な柱であり、八幡氏の論のおかしな点を批判しておきたい。
 1ページから4ページまであるが、1ページ目は、これまでの進学に関する整理で、とくに異論はない。「秋篠宮さまご夫妻がよりリベラルで知的な校風のお茶の水や筑波大学附属を好まれたのは理に適っていた。」と書かれている点については、そのはいり方が問題なのだという批判をもたれているが、八幡氏は、皇室は特権だらけだといっていることでわかるように、特権を使うことについては、ほとんど疑問を懐いていないようだ。
 「この反発は、悠仁さまが東京大学志望だという憶測によって頂点に達した。「皇族特権」といわれたが、皇族の生活や人生は特権だらけだ。スポーツ観戦やテーマパークでの遊びでも、庶民と同じように列に並んだり、抽選に参加されるわけでない。お召し列車に乗ったり、パトカー先導で車で移動したりもする。」という文章によくあらわれている。しかし、こうしたことがらに国民の批判が向けられることは、私はまだみたことがない。スポーツ観戦や音楽鑑賞、お召し列車などは、最初からそのように設定されていることであり、スポーツ観戦で特別席でみる人は、別に皇室だけではない。しかし、こういうとくに国民が異論をもっていない面をもって、受験の特権を肯定するのは、ほんとうの問題からそれているのである。
 「もし東京大学に悠仁さまが入られたら、受験生1人が落とされるといわれたが、3人の五輪出場枠ならともかく、東大には何千人も定員がある。」という文章に、八幡氏の勘違いが典型的に表れている。東大の定員は何千人だから、悠仁親王一人くらい特別に入っても問題ないだろうということのようだが、その前段階では、東大の推薦は各高校に推薦枠があり、筑付は4人なのである。さまざまな条件がある中で、通常の学業成績でもきわめて優秀であることが、4人枠に入るために必要とされている。しかし、「事実に反する」と八幡氏はいうかもしれないが、悠仁親王の筑付での成績は惨憺たるものであることが、露顕している。私は事実そうだろうと思う。お茶の水女子大附属中学は、男子の偏差値は低いが、そのなかでもとくに優秀ではなかったといわれており、筑付も特別枠の事実上無試験入学だったから、そもそも筑付の授業についていけると考えるほうが不自然なのである。そうした予想とおりになったわけであり、そういう中で、筑付の東大推薦枠を悠仁親王がとるということは、八幡氏がいう「オリンピック3人枠」を特権である人物がとってしまうことと、ほとんど同質の問題なのである。
 悠仁親王の現在進行しているらしいやり方での東大進学に反対している人も、まったく通常の定員を奪うことなく、まったくの別枠としての皇室特権を制度化して入ることは、反対していない人が多いのである。
 東大何千人と書いたあとで、留学生枠、沖縄枠、女性枠などが議論されているというが、これは、そもそもいくら優秀であっても、条件等で不利になっているひとたちに機会を与えるという趣旨で論議されていることであって、そもそも最大特権人である皇室に、更なる枠、しかも、通常の受験生の枠を特権的に奪うこととは、まったく違う次元の問題であろう。

 そして、なぜ八幡氏が次のような見解を書けるのか、いささか不思議にすら思う。
 「私は、学業に無理なくついて行けるのであれば東大進学は別に構わないと思ったし、悠仁さまは、推薦入試の基準にだいたい合致していたのである。」
 学業に無理なくついていける、推薦入試の規準にあっているというが、どちらも適切な判断とはいえない。
 筑付の授業にとてもついていけない状況であることは、さまざまにいわれており、私自身、それは充分ありうる事態であると思うし、また、入学前からそうなると思っていた。だから、生物以外の科目は、きわめて不充分な成績であるというのは、まったく驚くことではない。筑付という高校の授業についていけないのに、東大の理系の授業についていけるはずがない。
 推薦入試の規準にあっているというのも、まったく説得力のない言い方である。トンボに関する学術論文といっても、データをいくらかだしたかもしれないが、専門の研究者が書いたものであると思わざるをえないし、学会発表といっても、全体の式典に出席しただけで、みずからのワークショップでの説明はせずに帰宅してしまったと報道されているのである。それで学会発表したことにならないことは、誰の目からみてもそうだろう。筑付進学のためと思われた九州の作文コンクールでは、剽窃が指摘されていることも記憶に新しい。剽窃は禁止というルールの下に行われたコンクールであるにもかかわらず、当選が無効にならなかったのは、いかにも歪んだ皇室特権であったろう。今回の学術論文でも、実は、東大入学反対署名をした会のホームページに、詳細にそのおかしな点が指摘されているのである。
 八幡氏のようなエリートコースを歩んだ人間であれば、悠仁親王の学力については、よくわかっていると私は思う。

 次に皇位継承問題にうつっている。(3ページ目)ここでは、悠仁親王は帝王教育を受けていない、人物的にも愛子内親王のほうが人格、成績等天皇にふさわしいという神道研究家の隆盛明勅氏の論を批判する形で、悠仁親王を擁護している。ただ、絶対的に悠仁親王が天皇になるべきで愛子天皇はふさわしくないとまでは書かれていない。たしかに、愛子内親王は、八幡氏のいうように、帝王教育を受けているわけではないと、私も思う。なぜなら現在のシステムでは天皇になることはないからである。ただ、国民の少なからぬひとたちが愛子天皇期待論を、人柄や能力などを根拠に懐いていることはある。しかし、私は、そういう理由ではなく、きわめて単純に、男女平等のこの社会で、男系男子のみが皇位継承するなどという時代錯誤的なことをしてはならないということだ。私自身は、天皇システムの支持者ではないので、皇位継承者がいなくなることについて、別に危機感を懐かないが、国民が分裂しそうになるかもしれないような大問題をあえて議論して、天皇制廃止をする必要は感じていない。ただ、維持されるならば、憲法の大原則である男女平等の原則にたつべきであり、皇室典範は憲法違犯であると思っている。能力や人格においても、愛子内親王のほうが、悠仁親王よりも天皇にふさわしいと思うが、その理由で、特別に愛子内親王の即位を主張するものではない。
 皇室継承の危機が、男系男子にかぎる点にあることは、明々白々なのに、Y染色体などというカルト的な主張による時代錯誤の主張を、八幡氏はなぜ、こういう文章で問題にしないのだろうか。

兵庫知事選から考える2024年12月08日 21:40

 前回ブログを書いてから、ずいぶんと日時が経ってしまった。実はふたつほど途中まで書いたのだが、内容が古くなってしまったそのままにしている。そのひとつが、斉藤知事問題である。とにかく、事態が目まぐるしく動いた。選挙前のパワハラ非難の大合唱から、議会の全員一致による不信任決議、そして、再選挙、立花氏の登場による選挙戦の転換、斉藤氏の再選、そして、その後の展開も、PR会社による暴露と公選法違犯論議というように展開して、いまだに議論はおさまらない。
 途中まで書いて中断した文章は、この一連の流れを、単にパワハラ問題や公益通報問題などの個別的なことよりも、一連の動向が、最初から仕組まれた政治的な斉藤廃除勢力による、計画的な動きであって、兵庫県の政策をめぐる旧体制と新体制の相剋であるという中に、位置づけようと考えたわけである。廃除の活動は、斉藤知事側の反撃もあり、事態はすこしずつ、斉藤追い落とし派の計画とは違った方向に動き出して、「事実は小説より奇なり」という様相を呈したことを整理して、議論すべき点を自分なりに論じようと思ったわけである。
 最初の 「公益通報」なるものが、そういえるものであったのか、公益通報であったのか、あるいはたんなる怪文書的なものであったのか、通報したとされる人物の自殺の原因は何だったのか、というような論点は、ずいぶん議論されたが、あたらしく出た公選法違犯問題については、違犯かどうかという点に議論が集中しているように思われる。
 しかし、私の基本的な立場として、斉藤知事を支持しているわけではなく、私が兵庫県民だったとしても、斉藤氏に投票したわけではないという立場で考えてみても、一連のメディアによる現在も続いている斉藤批判には、疑問を感じるのである。とくにメディアのダブルスタンダードについては、大きな問題であるといわざるをえない。

 現在の最大の論点である公選法違犯についても同様である。特定の企業に頼んで選挙戦略をたて、それにしたがって選挙運動をしたことが、公選法違犯になるかどうかについては、法律論的には、違犯の可能性が高いのであろう。もっとも、だからといって起訴されるかどうかはまた別問題であるが。私がメディアの報道に疑問をもつのは、近年において、PR会社などに依頼して、選挙活動を行うことは、いくらでも行われているのではないかということだ。都知事選の「石丸現象」が相当話題になったが、石丸氏の選挙活動は、そうした選挙運動のプロとして有名な人に依頼して、全面的なバックアップをうけて、当選はしなかったけれども、予想もつかなかったような得票をえたわけである。そして、バックアップした人物も名前もさんざん報道されていた。しかし、そのことに関して、公選法違犯だなどと、メディアは問題にしただろうか。石丸氏は当選しなかったから、違犯は問題にならないということでもないはずである。実際に石丸氏の応援をした当人が、斉藤知事の選挙活動が問題視されたことで、今後かなり制約されるような談話を発表した。
 それから、そのことが法律上の違犯にならないとしても、知事選挙であれば、その政党の県議や市長が実質的な選挙活動を担っていることも、常識である。当然、表面的には選挙応援をしないとしても、実質的に支持拡大のために動いていることは誰も否定しないだろう。もちろん、そのために彼らが、その活動に関わる支払をうけているわけではないから、公選法の違犯にはならないかもしれないが、しかし、やっていることは、PR会社でやっていることと似たようなものであり、むしろ、彼らが税金で生計のみならず、政治活動、つまり選挙期間中は実質的な選挙運動をしていることになるのだから、PR会社に依頼することよりも、選挙戦としての公正さをそこなうものではなかろうか。

 このように考えていけば、今回の選挙が公選法違犯であるかどうかという問題とは別に、現在の社会状況のなかでの選挙活動のありかたは、検討しなければならない、活動の自由の範囲を拡げる形での検討が必要であると思うのである。これまでの選挙のやり方に関する原則は、ネット社会以前のあり方である。しかし、社会システムは、ネットの普及によって根本的に変化しているのであるから、選挙のあり方についても、ネット社会に適した方法を許容していく必要がある。
 逆に考えてみればすぐにわかることだが、既に政権をとっている、あるいは知事選等での現職の陣営は、旧来の方式が好ましいわけである。現職を何期かつとめている知事にとってみれば、当然自分の選挙のために動いてくれる議員等が多数いるだろう。彼らがお金を配れば当然買収だから違犯だが、電話をかけたり、政治活動の一環で支持を訴えるようなことは自由にできる。しかし、新人は、そうして動いてくれる人はほとんどいないわけであり、新しい方式を使わざるをえない。今回の兵庫知事選で、斉藤氏が新しい方式をとり、稲村氏が比較的組織に頼った方式をとっていたのは、当然のことであるといえるだろう。しかし、PR会社に依頼して、有償で動いてもらうことは、公選法で禁止されているから違犯だとしても、民主主義にとって悪いことなのだろうか。「有償」部分が買収的な要素をもったら問題だろうが、それは、完全に収支の全面的な開示を義務つけることによって、問題性を防ぐことはできるだろう。むしろ、お金はないが、支持を拡げられるような政策をもった候補者が、クラウドファンディング等で資金を集め、その資金で宣伝活動を充実させたり、あるいは、適切なPR会社を使って政策を広めることができれば、それは民主主義にとって、非常に好ましいことなのではないかと思うのである。要は、お金を使うことではなく、裏金であったり、闇の使用であることが問題であって、透明性を確保すれば、お金を選挙で使うことの不正は抑止できるはずである。

兵庫県知事選について思うメディアのありかた2024年11月18日 21:40

 昨日兵庫知事選があり、前知事であり、議会での不信任決議で失職した斉藤氏が、再選された。議会全員一致での不信任決議、数ヶ月に及ぶテレビ・新聞等での激しい斉藤非難、当初圧倒的な不利と考えられていた斉藤氏の逆転勝利という、前代未聞ともいうべき結果に、実質的な選挙戦の期間中、以前とはまったく違うように、沈黙を貫いたテレビも、とりあげざるをえなかったようだ。今日、たまたま「羽鳥モーニングショー」と「ごごすま」で、この選挙結果をとりあつかったのを見た。そして、いかにも旧メディアの代表格であるテレビらしい反応をしていた。私は高齢者であるが、ほぼ新メディア派なので、このテレビのいいわけ的な扱いは、予想とおりであったが、腹立たしく感じた。

 私自身、率直にいって、次々にテレビでパワハラやおねだりを「暴露」されていた時期には、斉藤氏はやはり問題だと感じていた。しかし、同時に、あまりに執拗なテレビなどの扱いと、100%斉藤氏への非難に固まっていたことについては、違和感を感じていたことも事実である。いくら問題があるといっても、パワハラやおねだりなどで、これほどの攻撃一辺倒というのもおかしい。多少の弁護論があるのが普通だろう。しかし、告発者が自死したということは、重い事実であるから、斉藤氏の初期対応がまずかったと思っていたことはこれまた事実である。
 しかし、公益通報を無視して、ということについては、なんとなくおかしなことだとも感じていた。というのは、最初は、マスコミなどへの通報であり、それにたいして知事が対応したところ、法的な手続としての公益通報を行ったということだったが、批判されているのは前者にたいしてであり、厳密にいえば、前者は公益通報とはいえないものだったからである。

 さて、こうした雰囲気が変り始めたのは、選挙戦が始まり、ネット情報として、旧メディアが毎日のように垂れ流してきた情報に対する疑問がだされてきたことである。その正確な転機は、私も知らないが、私がみて、それまでの受取りへの捉えなおしの必要を感じたのは、斉藤氏、稲村氏、立花氏他が同席しての討論会だった。偶然youtubeで見ることになったのだが、この三者が同席しているということ自体が驚きだった。そこで論を展開している立花氏の発言内容は、それまでのメディアの主張とはまったく異なるもので、稲村氏がそれに強く異議をとなえている風でもなかったので(全部みたわけではないので、他の部分ではちがっていたかもしれないが)、再度考えてみるきっかけになった。
 そのとき立花氏はだいたい以下のようなことを述べていた。
1 最初の局長による通報は「公益通報ではなく」、むしろ怪文書のようなものであり、それにたいして知事が調査し、内容が不正であれば、処分するのは当然だ。
2 パワハラ、おねだりは、実際には存在しなかった。
3 局長の自死は、処分が原因ではなく、自分の職務用のパソコンに、自身の不倫の記録があったこと、そのことを委員会で公表されそうになったことだった。
4 斉藤知事が行った政策が、旧来の利権をもっていた人の反感をかったことで、知事の追い落としにあったのであって、斉藤知事がやろうとしていたことは県民のためになる政策だったのだ。
以上のようなことだった。そして、これらのことが、立花氏だけではなく、多くの人によって、ネットで拡散していった結果、稲村氏と立場が逆転していったわけである。

 こうした見解を知って、その後はネットを調べて、どちらが正しいのかを考えてきた。しかし、テレビや新聞は、こうしたことにほとんどふれることなく、投票日を迎えた。
 さて、結果を踏まえて、羽鳥モーニングショーやごごすまの対応を検討してみよう。
 まず非常におおざっぱに言えば、ネットはまちがった情報が横行し、テレビは公共性という枠があるので、とくに選挙が始まった段階では、発言が制限されているので、対応が難しかった、といういい訳が前面に出ていたことである。しかし、私からみれば、ネットよりテレビの斉藤氏への誹謗中傷のほうが、よほど酷かったように思われる。とにかく数カ月間、テレビに毎日のように、どこかで斉藤知事のパワハラ、おねだり、をこれでもかというくらい流し続けてきた。ネットでまちがった情報がひろがるといっても、テレビの影響力からみれば小さなものだ。公共性という割には、とうてい公正な報道だったとはいえないだろう。その点について、若干でも反省的に語っていたのは、ごごすまの大久保氏だけだった。東国原氏などは、居直りとしかいいようがない、ネット批判を繰り返していた。
 そして、こうした番組の参加者は、いかにもネット情報はデマで溢れているかのようにいうのであるが、そうだろうかと私はいつも、彼ら(テレビ)の認識こそ疑問をもつ。私がみるネットの書き込みが、特別だとは思わないし、よく誹謗中傷の巣のようにいわれるヤフコメをよくみるが、誹謗中傷と感じる書き込みは、ほんとうに稀にしかない。ほとんどは、考えられた内容であって、たまにみる誹謗抽象的な書き込みには、たいていたしなめる書き込みがある。だから、ネット空間は、問題がないとはいわないが、全体としては、健全な意見の交流があると思っている。ワイドショーのコメントなどのほうが、よほどレベルが低いものが多い。
 もし、ほんとうに旧メディアがまじめに問題に取り組むのであれば、斉藤知事が「利権」問題にメスをいれようとしていたことは、記者をたくさんかかえている旧メディアはすぐに把握できるはずであるから、「利権」問題を解明すべく努力すべきであった。もちろん、利権といっても、ある面不可避なものもある。県庁舎の立替えは必要であるという認識は、共通のものだったのだし、立替えがなされれば、どんなに小さな規模であったとしても、受注はどこかの企業が受けるわけだから、そこには利権が発生するともいえる。ただ、兵庫の場合1000億円という従来の計画にたいして、斉藤知事が200億程度という提案をしていたということなので、その差はあまりに大きい。そこに深刻な対立が生れたことは当然のことだろう。旧メディアは、そこに公正な立場で検討を加えることができたはずである。しかし、そうしたことは、旧メディアはやらなかったようだ。いまからでも、公共事業のありかたに厳しい玉川氏は、この問題にきちんと取り組むべきであろう。

 パワハラやおねだりというのは、人によって受取りが違うだろうが、報道されていたことが事実であるとすれば、あれだけ強烈に批判されるようなことではないとも思うが、知事の態度としては改めるべき点であろう。そう感じていた。3の局長の死については、当初からすっきりしないものを感じていた。テレビは、だいたい処分が原因であるとしていたが、百条委員会に出席して、知事批判をする強い意思をもっていたにもかかわらず、その直前に自死したということは、多くの人が不自然なものを感じていたにちがいない。立花氏の主張のような要素があったとすれば、取扱はそれでも非常に難しいものがあったと思われる。だから、百条委員会側がパソコンのなかみを公表しなかったことは、プライバシーの保護という点で納得できるが、斉藤知事への非難の中心的論点のひとつである点を考えれば、斉藤擁護派としては、明かにする必要があったのだろう。公用パソコンにプライベートなことを保存してよいか、その内容がプライバシーとして保護されるか、という点については、私的内容をいれている人は少なくないように思うが、問題が発生したときに、プライバシーを理由に当人が秘匿できるものとは思わない。

 県民の意思は表明されたわけだが、全員一致で不信任をしたり、アンケートにパワハラがあったと書いた職員と、協力して県政をしていかなければならないわけだから-、斉藤知事の苦労はまだまだつづくということだろう。誠実に対応してほしいものだが、利権にしがみつく職員や議員には厳しくすべきであろう。
 この間の報道のしかたをみていると、テレビは、ジャーナリズムの騎手としての位置はまったく機能していないのだと改めて感じた。

松本人志訴訟取り下げについての「解釈」2024年11月12日 22:03

 松本人志氏が、文春を訴えた際には、私の見解をけっこう書いたが、取り下げについては、別に書くこともないだろうと思っていた。しかし、youtubeでのいくつかの「解説」をみて、少々疑問に思うことがあったので、整理しておきたいと思った。とくに疑問に思ったのは、郷原信郎氏と元週刊朝日編集長山口一臣氏の対談である。通常は、山口氏が聞き手になって、郷原氏が解説しているのだろうが、今回は、週刊文春絡みの訴訟ということで、雑誌側にたって名誉毀損訴訟に当事者としてタッチしたという山口氏が、主に見解を述べる形になっていた。
 当然、弁護士である郷原氏との対談だから、論理的におかしなことをいっているわけではないのだが、いくつか気になる点がある。
 その主な点は、世間での受取りとして、松本側が勝った、いや文春が勝った、というように、自分の応援する側の勝訴を強調する論調に分れているが、そうではなく、痛み分けだというような「雰囲気」の論調なのである。そして、当然二人は「和解」と「取り下げ」の違いを正確に理解しているのに、どうも山口氏の見解を聞いていると、氏が、「和解」であるかのようなニュアンスで語っている場面が散見されるのである。松本氏が、あれだけ強行に事実無根であるという前提で、しかも、名誉毀損としては通常ありえない5億(+訴訟の費用の5千万)の損害賠償を請求するなどという訴訟をおこしておきながら、「取り下げ」たということは、あきらかに、松本氏が、敗訴を避けるために、敗訴よりは取り下げのほうが、傷が少ないという判断の下に、取り下げたと見るのが、正確であろう。提訴後の流れは、明かに、松本氏側が、余計な、やってはならないような愚行を繰り返すことによって、判事たちの心証を悪くするような状況になっていた。それは、探偵をやとって、記事の当事者である女性を尾行させたり、女性の相談相手であった弁護士に対して、訴訟を記事の取り下げを迫ったり、さらに、ありもしないその弁護士の不倫で脅しをかけるなど、あいた口がふさがらないような暴挙をしたことが、暴露されていた。もともと、文春の記事がいいかげんな取材に基づいたものではないことは、おそらく読んだ人の多くが感じていたところであり、もともと松本氏に勝ち目がないことは、ほぼ明かであった。だからこそ、こうした暴挙をしたのだろう。当初から松本氏の不利は明かだったが、こういう愚行をすることで、敗訴は確定的といってよかった。
 文春側は徹底抗戦の構えであり、かつもっともっと多くの証拠を握っていたはずであり、そして、女性は何度も証言台にたつということを明言していた。まず、松本氏が恐れたことは、その証言が実現して、赤裸々にさまざまなことが語られることが第一だったろう。今回、「強制性を示す物的証拠はない」ということの確認が、松本氏に有利な条件であるために、文春側が取り下げに合意したかのような解釈がけっこうあるが、そもそも、「物的証拠」など存在しないことは、当初からわかっていることであり、文春側としても、認めていることだろう。だから、松本氏に有利だなどということはまったくないのであって、民事の名誉毀損訴訟なのだから、ほとんどは、「証言」によって判断されるのである。被害者である女性自身と、松本氏自身の証言の、それぞれについて、そしてそれを踏まえた双方の「理由付け・論理」のどちらが真実であるかを、裁判官が判断するということである。私は、松本氏のいくつかの過去のテレビでの映像をみて、この人は、論理的に追求されたときの応答力に乏しいと感じていた。おそらく、松本氏は自分の証言に自信がないに違いないと思う。さらに、松本氏の弁護士は、かつて検事時代に不正取り調べをしたことで、事実上検事を辞任せざるをえなくなったわけだが、その不正を、実際の裁判の場面で追求して暴露したのが、文春側の弁護士なのだから、その点でも、判決がでるとしたら、その結果は明かなのである。
 つまり、松本氏は、裁判が進展して、証言という段階になったときに、女性から生々しい事実が語られること、自分の証言を、文春の弁護士によって、徹底的に追求されること、そのことを恐れたこと、それだけでもかなり致命的な痛手となるうえに、判決で負けたら(その可能性がほとんどなわけだが)、タレントとして、致命的、つまりテレビはもちろん、youtube等の場でも、活動しにくくなってしまう、ということを、恐れたはずである。それで「取り下げ」という、事実上文春の記事を認めるような措置をとったということだろう。

 山口氏は、文春側も、血の滲むような、苦しい作業として、なんども交渉しつつ、合意に達したのだろうなどと述べているが、文春側のコメントを読めば、そういう雰囲気はまったく感じられない。松本側が「取り下げ」を申し出てきたので、女性たちと相談して受け入れたという程度のことしか述べていない。裁判手続き上、相手が取り下げをしたい場合、被告側の同意が必要だから同意したということにすぎないように思われる。もちろん、裁判などなくなったほうがいいに決まったから、しぶしぶというわけではないだろうし、郷原・山口氏がいっていたように、「被告としても、自分たちの見解が認められる判決を引きだすことを望むだろうから、勝訴だと思っていたら、取り下げに応じないはずだ」などということはなく、通常は、訴えてきた相手が引き下がるというのだから、同意するだろう。時間と労力が膨大にかかる訴訟など、回避したいのは、被告だった同様であろう。訴えた相手が取り下げたということは、被告側にとっては事実上勝訴となったこととほとんどかわらない。

 蛇足だが、山口氏の発言を聞いていると、こういう人が編集長をしていたのでは、週刊朝日が廃刊になるのも、なんとなくわかるような気がした。公平な立場で、双方の主張をまとめている、などというのではなく、論理的に明解な説明ができるところを、明確に切ることができないような煮え切らない感じなのだ。

羽鳥モーニングショーのマイナー保険証議論が不思議2024年10月24日 17:34

 今日朝ごはんを食べながら、羽鳥モーニングショーを見ていたら、途中からマイナー保険証の話題にはいり、いろいろと議論していた。12月から原則マイナー保険証に統一され、既存の保険証は使えなくなる。しばらくは、代替の紙ベースの保険証が配布されるようだが、マイナー保険証に登録している人には、もちろんこない。私自身は、先日歯医者にいって、歯の治療をしてきた際に、通常の保険証からマイナー保険証に登録してきた。基本的に反対ではないが、これまでめったに医療機関に行かなかったので、その機会がなかったのである。

 さて、私が理解している上での、紙ベースの現行保険証を、やめるべきであるという、あるいはやめなければならないという意味での理由は、「不正使用を防ぐため」である。現在、正規に身分証明証として機能しているのは、もっとも多くが運転免許証であるが、その他にパスポートと健康保険証がある。ただし、運転免許証とパスポートは国民全員がもっているわけではなく、国民全体がもっているはずの健康保険証も、身分証明のために認められている。つまり現行システムでは、健康保険証の身分証明能力をやめてしまうと、身分を証明する手段をもたない人がでてきてしまうという、絶対に避けなければならないことになってしまう。
 ところが、健康保険証は、ほんとうの意味では、本人の証明能力はないのである。ここが問題である。そのために、不正利用がかなりなされているといわれている。実際にどの程度の被害があるかは、私にはわからないし、厳密には、政府もつかんでいないだろうが、しかし、不正利用できるようなものであることは事実だ。そして、健康保険が不正使用されるということは、国民が支払った保険料が、不正に、つかわれることになる。外国人でも、正規に入国滞在しているひとたちは、なんらかの保険措置をとっているだろうが、不法滞在しているひとたちは、当然保険証などはもっていない。しかし、かれらだって病気にはなるだろう。医療機関を利用しなければならないときには、知り合いから借りるとか、あるいは盗んだり、偽造して、医療機関にかかるひとがでてきても、まったくおかしくないのである。保険証には本人の写真がないから、それを出されれば、医療機関としては受け入れざるをえないだろう。
 だから、その対策として、写真付きの保険証が必要となるわけである。保険証に、写真をつけることを義務つけることも方法としてはありだが、それこそ莫大な費用がかかるだろう。マイナンバーカードを活用するほうが、ずっと経済的であるし、他のコストもかからない。そういう意味では、マイナー保険証は、必要なものだともいえるのである。

 しかし、羽鳥モーニングショーの議論では、この点がまったくふれられていないのである。玉川氏などは、運転免許証もマイナー免許証になるが、しかし、従来の免許証も残すことになっている例をもちだして、同じようにすればいいではないか、などと見当はずれのことを強調していたが、免許証には顔写真があるから、廃止する必要はないのである。番組全体として、このようなことをまったく問題にしていないし、誰もそういう点での発言をしないのが、ほんとうに不思議だった。玉川氏は、公的サービスをうけるのに、本人確認が必要でないと考えているのであろうか。なにか、組織にいって、サービスをうけるときには、(たとえば郵便局に不在郵便をとりにいくときでも)本人確認を求められる。多くは免許証を出すだろう。もっていない人は、健康保険証を出すわけだ。しかし、それがほんとうの意味で本人確認にならないことは、既に述べた。考えてみれば、医療機関で医療をうけるときには、正確な意味での本人確認をせずに、医療サービスを提供し、健康保険からの支出がなされるわけだが、システム的に不用心であり、早急の改善が必要なのではないだろうか。

 テレ朝には、質問をしてみようと思う。次回の番組では、ぜひ、不正使用で莫大な保険料不正使用がなされていることを放置してもいいのか、きちんととりあげてほしいものだ。

プロムシュテット・N響の演奏会2024年10月20日 22:05

 普段演奏会には行かないが、たまにいくのは専らオペラとたまに合唱付きの曲(ベルディのレクイエムとかベートーヴェン荘厳ミサ等)を聴きにいく程度だ。純粋にオーケストラの演奏会にいったのは、記憶では、小沢征爾指揮の新日フィルで、それは近くの音楽ホールにきたためだった。小沢が新日フィルをふっていたのだから、ずいぶん前のことになる。それが、定期会員になっている妻の親友が、急にいけなくなったので、代わりにでかけたというわけだった。
 NHKホールもまたずいぶん久しぶりだ。全盛期のポリーニを聴くために、N響の会員になったのだが、ポリーニが手の故障で衰える前だから、これも何十年ぶりということになる。オーケストラは毎週自分で経験しているので、聴くほうはすっかりご無沙汰というところだが、今回心が動いたのは、指揮がブロムシュテットだからだ。もちろん、はじめて生を聴くのだが、CDやyoutube、テレビではけっこう試聴してきた。そして、がっかりしたことが一度もないから、実演を聴けるのは、これが最後であることは確実で、逃したらやはり後悔しただろう。前にブログに書いたが、ベートーヴェンの第九の演奏(ライチチッヒでのライブ映像)は、ほんとうに感心した。
 また、ブロムシュテットについては、前に、幸せな老化をした演奏家と老害をさらした演奏家というテーマでいくつかブログを書いたが、ブロムシュテットは、最も幸福な高齢演奏家の代表といえるだろう。なんといっても、現在97歳である。以前にはストコフスキーが超高齢指揮者で、100歳までの契約があったが、95歳で亡くなってしまった。つまり、ストコフスキーよりも高齢の現役指揮者なのである。しかも、ストコフスキーはアメリカ中心の活動だったが、ブロムシュテットは、日本にまでやってきてくれたわけである。そして、近年のウィーンフィルやベルリンフィルとの共演も話題になっている。
 演奏会始まりの前に団員が出てきて席に座り、コンサートマスターが登場して音合わせ(チューニング)をすませると、指揮者が登場するのが普通だが、今回は、バラバラと団員が出てくる途中で、ブロムシュテットが団員(たぶんコンサートマスター)に支えられて出てきた。まだ団員は半分くらい。とにかく、支えられてゆっくりゆっくりだ。私の性分として、式台にあがれるのかと心配になったが、これも支えられながら、やっとの思いであがり、そして椅子に座った。
 曲目は前半がオネゲルの交響曲3番(典礼風)、後半がブラームスの4番だった。
 オネゲルは名前以上のことは知らなかったから、当然曲も聴いたことがなかった。オネゲルは、パリで育ったので、ナチスによるパリ占領という苦い経験をし、それに対する反発心が反映されているそうだ。戦後の作曲家で、現代音楽に分類されるというが、この曲は、いわゆる現代音楽風ではなく、聴きやすい音楽ではあった。配布された解説によると、1楽章怒りの日、2楽章深い淵から、3楽章われらに安らぎを与えたまた、という題がつけられている。全体が20程度なので、長い曲ではない。
 実はこの文章をかきながら、ブロムシュテットはこの曲のCDをだしているか調べてみたらなく、なんとカラヤンのがでていることがわかった。なら我が家にあるはずだと探して、今聴きながら書いている。1969年の録音で、カラヤンがすっかりベルリンフィルを手中におさめた時期のものなので、さすがにオーケストラが見事だが、N響も決して劣ってはいないが、弦の厚みはカラヤン・ベルリンフィルはさすがだという感じがしている。1楽章は激しい音楽で、絃がアタックの強い、しかも速い音楽をしているなかに、金管楽器が攻撃的なパーセッジを重ねていく。そうしたバランスは、N響の演奏は見事だった。2楽章は、解説によると、とても美しい音楽がつづくというのだが、実際に聴いているときには、それほどうつくしいとは感じなかった。しかし、カラヤンで聴くと、後年新ウィーン楽派の音楽できかせた妖しいまでの美しさを、このオネゲルでも響かせていて、たしかにこの楽章の美を感じさせてくれる。3楽章は、安らぎに重点があるというより、神がやってきて、救いを与えるという、「やってくるときの行進」を描いているような音楽で、結局、そんなのは幻想なのだ、ということなのかもしれない。プログラムの解説には、安らぎが与えられたように静かに終る、ということになっているが、与えられなかったようにも聴ける音楽だ。そして、消えるように終るのだが、終ったあと、かなり長い間沈黙が支配し、拍手がおきるまで、ずいぶんと間があった。チャイコフスキーの「悲愴」は、いつ終ったかわからないような曲(チェロが長く弱音で伸ばすのだが、弓がなくなって自然に音が消えるまで、つまり人によって音がなくなるときがちがうので、最後の一人の音が消えて終る)なので、拍手がおきるまでの沈黙の時間が長い方が成功というような、妙な感覚があるのだが、今回もとにかく、だれかが拍手をするまで躊躇しているような雰囲気が漂った。

 さて、今日の主目的であるブラームスだ。4番は、私自身オーケストラで3回実際に演奏しているので、ブロムシュテットがどのような指示をだしているかを専ら注視した。指揮というのは、もちろん音楽的な行為だが、実際にやっているのは、身体運動そのものだ。一人ではあるけないほどの高齢者が、どういう身体運動でブラームスの音楽をつくりあげるのか。ブラームスの交響曲は、ほんものの古典派とちがって、小さなメロディーのなかでも、メロディーを受け持つ楽器がどんどん変わっていく。しかも常にといっていいほど響きが厚いので、メロディーラインから離れた楽器も、引き続き音をだしている。だから、バランスをまちがえると、メロディーが消えてしまうことになりかねない。そうしたバランスがとても微妙で難しいわけで、当然、それを指揮者がきちんと制御しなければならない。そうした楽器の担当部分が変化するようなところで、ブロムシュテットは実に丁寧に指示をしていた。そして、音楽が高揚する場面、あるいは、とくにある弦楽セクションを前面にでるようにするときには、大きな身振りで指揮をしていた。
 思い出すのは最晩年にN響にやってきて、ベートーヴェンの7番を指揮したサバリッシュの映像だ。このとき、サバリッシュはかなり身体が弱っていたのだろう、もちろん、ずっと座っての指揮だったが、ほとんど動きがなかった。指揮棒の先をほんのわずかに動かす程度なのだが、長年一緒にやってきたサバリッシュだからN響の側もわかっているし、最後のご奉公のような感じで演奏していたから、それはそれとしてりっぱな演奏だったが、しかし、もっとずっと年上であるブロムシュテットは、もっと大きな動きを伴った指揮だった。

 ブラームスの4番は出だしの憂いに満ちた、きわめて印象的なメロディーの歌わせ方で、ほぼ演奏の印象が決まってしまうように思われている。ブロムシュテットの今回の演奏も、この歌わせ方をかなり練習したように感じられた。しそー、みどー、ら#ふぁー、#れしー、という音で、1、3が下向、24が上向の音形なのだが、弱拍強拍の順である。だから、楽譜のとおりに演奏すれば、「し」や「み」を弱く、「そ」「ど」を強く弾くことになる。ところが実際の演奏では、この強弱のつけかたは実に多様なのだ。楽譜に近い演奏(カラヤン、マゼール)や強弱をめだたせない演奏(晩年のクライバー)、小節ごとに変える(小沢)があるが、ブロムシュテットの今回は、明確に楽譜の逆をやっていた。つまり、最初の音を強く、つづく伸ばしの音を弱く弾かせていた。ところが、どうもこれが、最初はスムーズではなかった。昨日も演奏しているのだから、かなり慣れていたはずだが、出だしはやはり緊張するのだろうか。しかし、何度か繰り返されるうちに、この強→弱の表現がスムーズになっていった。もちろん、このような逆転した演奏もある。
 ブロムシュテットの演奏でいつも感じるのは、不自然な表現はしない、楽譜に書いてあるなかでが、効果的な強調表現をするということだ。つまり安心して聴けるということであり、だが、薄味というのでもなく、ああ、いい音楽だったなという感覚を残してくれるのだ。そういう意味で、アバドに近い指揮者といえる。4楽章のパッサカリアは短い8小節のフレーズを30回以上変装していくわけだが、当然、1回1回変化していく。あるべき姿で、その変化も強調して、しかも納得させるのは、簡単なようでいて、とても難しいのだ。そうしたメリハリのきいた、しかも自然な変化を感じさせる演奏だった。そして、最後に急速にテンポをあげて勢いよく終るのだが、フルトヴェングラーのような、あまりに強烈なスピードアップをされると、ついていけない感じになるし、また、テンポのあげかたが小さいと、物足りなさを感じてしまうこともよくある。今回のブロムシュテットは、かなり速いテンポをとっていたが、しかし、不自然にならないところがさすがだった。
 あるべき姿をくっきりと表現する指揮者というブロムシュテットのよさを充分に感じ取ることができた演奏だった。そして、高齢による「停滞感」などは、皆無のきびきびした演奏だった。次回の日本公演があるかどうかはわからないが、100歳でのベルリンフィル公演が実現されれば、映像でみることができるのだが。ストコフスキーがめざした100歳での指揮をぜひ実現してほしい。

 蛇足だが、ブラームスの演奏で、コンサートマスターが高揚した部分で、半立ちするような、しかもかなり大きな身振りで演奏する場面が何度もあった。いつものやり方なのか、指揮者が高齢だから、身振りを大きくして、団員に伝えているのかわからないが、あのようなコンサートマスターの演奏ぶりははじめてみた。

近年稀な自民党の権力闘争2024年10月10日 21:29

 自民党の総裁選から、総理大臣の選出、そして、その前後の石破茂氏の変容、これは、自民党支持ではない、まったくの傍観的立場でみていて、興味深い展開のように思われた。当事者たちは、生き残りをかけた闘いだろうから、必死だろうが。
 総裁選の優劣の変動がまず第一幕だったろう。当初は、小林鷹之氏か小泉進次郎氏が圧勝するだろうという予測だったことも興味をかきたてた。なにしろ二人とも40代であり、これまでの常識でいえば、立候補すらできないような経歴にみえたからだ。すくなくとも前回までは、派閥を背負って選ばれた人が自民党の総裁選に立候補した。だから、派閥の数よりずっと少ないし、また、大物感はたしかにあるひとたちが多かった。しかし、今回は最初に話題に昇ってきたのか、この若手二人であり、そして、当初は12名もの立候補があるのではないかと予想された。実際に、意思表明したひとはそれだけいたのである。そして、まずは小林鷹之氏の印象が薄くなり、小泉圧勝のような雰囲気に一時はなった。しかし、実際に立候補を表明した記者会見で、はやくもつまずく。抜粋をみただけだが、よくもまあ、こんな反感をかうようなことを、堂々と述べるものだ、と通常経験しないような感心をしてしまった。小泉氏の真意かどうかはわからないが、企業が労働者を解雇する自由を拡大しようなどということが、国民だけではなく、おそらく自民党支持層からも受け入れられるはずがない。既に、日本は、大リストラ時代を経ており、実態として解雇が不自由だとは、一般に思われていない。リストラと非正規の拡大という、企業の横暴としかいいようのないことを、そして、現在ではさすがに、保守的な人ですら、そんなことをいう人はあまりいないときに、これほど、あっけらかんと主張したのだから、びっくりしたというのが、多くの人の実感だったろう。その後小泉氏は軌道修正というか、「より丁寧」な説明を試みたようだが、最初の記者会見の、しかも冒頭で述べたことだから、最後まで、解雇自由の小泉、という印象がつきまとった。

 同感の人も多いだろうが、小泉氏の政治家としてのダメさは、環境大臣として、ニューヨークの国際会議に出席したときに、思い知らされた。ニューヨークについてすぐにビフテキを食べにでかけ、毎日でもビフテキが食べたいと、堂々と述べたのには、心底驚いた。環境問題に関心のある人であれば、牛肉が環境破壊の象徴的存在のひとつであることは、誰でも知っている。それを国際環境会議に、日本を代表して環境大臣としてやってきた矢先に、ビフテキを毎日食べたいと公言したのだから、何をかいわんやである。このことでわかるように、小泉氏の最大の弱点は、政策を知らないということだろう。政策を知らない人が、日本の総理大臣としてふさわしいとはとうていいえない。にもかかわらず、自民党の国会議員は、当初もっとも多く支持者がいたのである。
 しかし、さすがに、小泉氏の政策音痴ぶりは次第に強く意識されはじめて、石破氏が追い上げ、そして、その後は高市氏にも抜かれてしまった。
 そして、この二人の争いは、それまでの「選挙に勝つためには、誰が代表だと、自分や党にとって有利なのか」という、きわめて現実的、打算的な争いだったが、石破対高市になると、明かに、古典的な権力闘争的な側面が前面に出てきたように思われる。この二人の争いは、まずは、菅と麻生の争いであり、そして、さらに岸田が絡んだ、自民党内における権力を握るための闘いになってきた。かつて田中角栄と福田赳夫が熾烈な闘いをした歴史があるが、それは当人の闘いが主戦場だったが、今回は、候補者当人の闘いと、党内最大実力者となる者同士の闘いが重なったわけである。更に、一般党員のレベルでいえば、自民党の評判を深刻に悪化させた裏金問題の当事者と、自民党員としても裏金議員への批判をもたざるをえない者たち、そして、古くからの統一教会問題を抱えている者とそうでない者との対立が重なってくる。
 こうしたなかで、裏金問題と統一教会に批判的立場をとりうる人たちが支持した石破氏が、後ろ暗いひとたちが支持する高市氏をやぶったという結果になった。興味深いことは、高市氏自身は、私の知る限り、裏金問題と統一教会問題を抱えている当事者ではない。にもかかわらず、20名の推薦人のかなりの部分が、裏金議員であり、また、統一教会から支持をうけていた議員なのである。そういう意味では、高市氏が勝利したら、それこそ自民党は選挙で酷い目にあったに違いない。

 ところが、実際に石破総理大臣が誕生すると、石破支持の内部が複雑な抗争を避けられない状況になってきて、自分の公約を進めたい石破本人とその強固な支持者たち、そして、それではあまりに党内分裂を激化させてしまうとして、石破路線を緩和しようとするひとたちの抗争である。当初後者が優勢だったが、それにたいして起った国内世論の反発が、石破をおそらく奮い立たせて、部分的に当初からの方向を少しだけ出す(裏金議員の非公認)ことになり、これが、高市陣営にも多少の亀裂を生じさせたように、私には思われる。おそらく、高市陣営には、ふたつの異なった勢力があったのではないだろうか。ひとつは、高市氏の超保守的な立場を支持する層であり、ひとつは、裏金問題を無視するような立場を支持する層である。もちろん重なる人も多いだろうが、重ならないひとも少なくないに違いない。とすれば、裏金議員の非公認という石破氏の方向転換は、この高市陣営に複雑な亀裂を生じさせずにはおかないはずである。当初反石破勢力は、国会解散時期をめぐる石破氏の方針の揺れを批判しており、その時点では、高市氏をもちあげておけば済んだが、裏金議員の一部非公認という政策を石破氏が打ち出せば、裏金議員たちは、自分たちこそ自民党の評判をさげた張本人であるのに、文句をいうのかという批判に曝されることになり、また、高市陣営の裏金批判派のひとたちは、その点では石破に文句をいいずらくなる。
 そして、3人の長老たちには、大きな変化が生じているようにみえる。菅氏は、きわめて健康状態が悪く、とても権力者として力を発揮できる状態ではないという印象を国民に与えてしまった。そして、麻生氏は、高市氏に石破退陣を予期して、準備をしておけ、と発破をかけたとされる。しかし、本来麻生氏と高市氏は、真逆の政策的立場なのではないだろうか。今回、力の衰えを露呈したかっこうだから、麻生氏が復活するとは、私には思われない。最終的に石破総裁を実現するのに、大きな影響力を発揮した岸田氏と石破氏は、実は重要な経済政策が重なる部分が大きい。岸田氏は、あれだけの低空飛行を続けたのに、結局3年間の総裁任期をまっとうした。意外としぶといのだろう。
 今後、石破が今年中にも退陣し、高市総裁が誕生するかのような論調がみられるか、そんな単純な勢力関係ではないだろう。これからも、傍観者(自民非支持)としてではあるが、権力闘争の推移を注意深くみていきたい。

ファミリー・コンサート2024年09月30日 21:41

 昨日は、私の属する市民オーケストラ(松戸シティフィル)のファミリー・コンサートだった。ほとんどその話題では書いたことがないのだが、今回はいろいろとおもうところがあって、演奏会のことを書こうとおもう。
 まず、プログラムだが、前半にベートーヴェンの7番の交響曲、後半に、サウンド・オブ・ミュージックの抜粋接続曲(オーケストラ用の編曲なので、歌は入らない)、スター・ウォーズ組曲というものだった。このプログラムが団員に示されたとき、私も含め多くの団員は、「えっ、ベートーヴェンが前プロなの?」と驚いた。実は、指揮者が、けっこう練習が進んだ段階で、そのことを知り、「ほんとうですか、はじめて知りました」とやはりびっくりしていた。ベートーヴェンの交響曲が前半にある場合は、私が知るかぎり、ほとんどベートーヴェンプログラムで、前半に偶数番号あるいは1番、そして、後半に1番以外の奇数番号の交響曲を配置するものだ。7番は長く、激しい曲だから、前半というのは、聞いたことがない。
 まして、後半が映画音楽というのだから、更に驚きだった。
 しかし、このプログラミングは集客力において、非常に力を発揮した。だいたい、私たちのオーケストラは、プロオーケストラの定期演奏会のようなプログラムを組むので、普段は客の入りが悪い。私が所属した他のふたつの市民オケのほうが、はるかに集客力があった。市民オーケストラとしては、松戸のほうが絶対的に強力なのだが。今回のスター・ウォーズの演奏でも、ハープ・ピアノ・チェレスタ、多くの打楽器などは仕方ないとし、ごくわずかの弦楽器のエキストラだけで演奏できるというのは、市民オケとしては、比較的少ないと思う。団員が多いということだ。しかし、通ごのみのプログラムでは、たくさんの客はこない、しかし、誰でも知っているようなポピュラーな曲をいれれば、たくさんの人が聴きにきてくれるということが、改めてわかった。ただ、だから、そのほうがいいというわけではない。松戸シティフィルは団員が長く所属している人が多いので(私も20年以上在籍している)、やはり、いろいろな曲をやりたいわけだ。すると、これまでやらなかった曲を中心にプログラムを組むことになり、どうしても、ポピュラーな曲、こうした映画音楽はほとんどやらないことになる。むずかしいところだが、やはりやりたい曲をやるのが、アマチュアのいいところではないかというのが、私の実感だ。

 ベートーヴェンの7番の演奏も、団員がけっこう考えるものがあった。というのは、今回の指揮者の設定したテンポが、非常に速いのだ。2度ばかり別の指揮者が代振りにきたのだが、テンポの速さに驚いていた。もっとも、そのテンポが非常に不自然で、異常に速いというものではなく、とくに近年ベートーヴェン演奏のテンポは速い場合が多いので、そのなかでも、おそらくもっとも速い部類にはいるというようなものだったろう。
 演奏会が終ったあと、他に仕事があって、すぐに帰ってしまった指揮者から、メールがきたそうで、これまで7番をやっても、どうしても要求とおりの演奏ができず、今回はじめて、納得が行く演奏ができた、と書いてあったそうだ。リップサービスということもあるだろうが、しかし、以前にも、別の指揮者が、プロオケである曲をやったのだが、この部分がどうしてもうまくいかなったが、私たちとの演奏ではうまくいった、よかった、という話をされたことがある。
 ただ、その別の指揮者のその部分の解釈が、通常のものとは著しくちがっていたので、プロオケはそんな妙な演奏はできないと抵抗したのではないかと思うのである。ところが、私たちは、まったくのアマチュアだから、かなり普通ではない解釈だとは思っていても、指揮者がこうやれというのだから、そのとおりやろうとしただけのことで、もちろん、プロオケより私たちがうまくできたわけではない。
 今回の7番では、私たちのオケには元プロだった優れた奏者がいるのだが、彼の演奏を聴いていると、なんとか指揮者の解釈を多少なりとも穏健なものにしようと、試みているのが感じられた。これまで何十人もの指揮者がきたが、彼の演奏に注文する人はほとんどいないのだが、今回の指揮者は、なんども注意していた。彼の抵抗を感じていたのだろうと、私には思われた。プロの指揮者とプロのオーケストラとの間というのは、かなりシビアなものだと、実感したおもいだった。

結社の自由と訴訟2024年09月15日 21:16

 松竹伸幸氏が、共産党を除名処分になったとき、いくつか文章を書いたが、その後、とくに追いかけていなかった。たが、最近第二の著書を出して、党員資格の保持を求めて、共産党を司法に訴えたことを知った。おそらく、類似の訴訟もないような、新しい挑戦ではないかと思うし、人権論としても、非常に興味深いと思った。
 結局、結社の自由に関わることであるが、法論理としては「部分社会の法理」に関わることだろうと思う。
 通常結社の自由とは、ある団体(とくに政治団体)を結成したことによって、国家権力の干渉を受けない、国家にたいして、結社を禁止したり、結成に関わった人を逮捕したりすることを禁止するものである。松竹氏の除名にたいして、朝日新聞が社説で批判をしたときに、当時の志井委員長は、「朝日新聞は結社の自由を侵すのか」と非難したが、朝日新聞に、政党の結社を禁ずる権限などありえないのだから、この非難は的外れもいいところであった。
 しかし、結社の自由と関連のあることがらで、訴訟になるとしたら、それは「部分社会の法理」に関わることとして、見逃すことはできないし、また、かなりの法的難問となるはずである。私の専門分野でいうと、これまでは校則に関する訴訟で多く問題になってきたのが「部分社会の法理」である。その意味は「団体内部の規律問題については司法審査が及ばない、とする法理」というもので、その団体内部では、一般社会では許されないことでも、許されるということになっている。校則をめぐる訴訟がいくつかあったが、たとえば、以前は公立中学で、男子全員が坊主頭を校則で強制される学校が多数あり、校則が公序良俗にはんするという理由で提訴が行われたが、部分社会の法理で訴えは退けられてしまったわけである。
 しかし、現在では、そうした校則は、次第に減っているが、私は何度か、校則については、部分社会の法理は適用されないのだという主張をここで書いてきた。部分社会の法理が成立するためには、その団体のルールについて、以下のことが完全に実施されていることが必要だからである。
1その規則が事前に容易にアクセスできる形で開示されていること。
2その団体への所属が、規則を知った上で、本人の自由意思で行われること。
3団体の活動に賛同できなくなった場合には、自由に脱会できること。
 しかし、学校の校則は、この3つ条件は当てはまらないから、部分社会の法理は適用されないということである。
 義務教育学校では、本人の意思で入学するわけではなく、指定されている。 
 高校や大学、あるいは私立学校でも、校則が容易にアクセス可能になっていることは、究めて稀である。入学時点で校則を理解している生徒、学生はまずいないと考えられる。入学後に説明されるのである。
 入学は当人の自由意思であるとしても、校則がいやだから退学するという選択は、究めて困難である。オランダのように、ある学校をやめて、ちがう学校に移ることが、社会全体で保障されているような場合は別だが、日本の私立学校、高校・大学は、途中入学などは、究めてかぎられた場合しか認められない。結局、退学すれば、教育機関そのものから排除される状況になってしまう。したがって、よほど校則に不満であっても、我慢することになる。
 以上の理由から、学校の校則は、一般的な社会的感覚に適合する範囲でしか、制限を加えることはできず、社会的には認められないようなことを、校則で生徒に押しつけることは許されないと考えるべきである。

 では、政党はどうか。政党すべてがそうとはいえないだろうが、国会に議席をもつような政党は、上記の3つの条件は完全に満たしているだろう。だから、政党の内部規則については、司法は判断しないという、部分社会の法理は成立すると考えられる。したがって、松竹氏の主張は通る可能性が低いとひとまずはいわざるをえない。
 対応は、おそらくふたつ考えられる。
 多くの人が考えていると思われることは、そんな党はどうせ変わらないのだから、別の道を模索したらどうか。松竹氏のいうことが正しいとすれば、共産党は次第に落ち目になっていくだろう、そういう政党とともにする必要はないというものだ。つまり、法的ではなく、政治的な発想である。
 それにたいして、あくまで司法をつかってまで、復党の可能性を探るという、松竹氏自身が追求している道である。そして、氏はそれを司法によって認められることを、現在模索している。それがいいこととは氏も思っていないだろうが、党が大会において、処分を撤回しないことをきめた以上、外部の力(司法)に頼る他に道はないのもたしかであろう。

 さて、双方はどのような見解の対立があるのだろうか。
 事実としては、昨年、松竹氏は共産党を除名され、今年はじめの党大会に処分撤回の申請をしたが、却下されているという状態である。そして、党員資格の認定(処分の不当性)を求めて、提訴していることになる。
 処分のきっかけは、松竹氏が「シン共産党宣言」という本(党の委員長の党員による公選で選出することを主張)を文藝春秋社から出版したことが、反党分派活動であるという理由で除名を受けたわけである。「党内では、自由に意見をいえるにもかかわらず、一切党内で主張することなく、党外(出版)から党を攻撃した」という理由である。
 これにたいして、松竹氏は、以下のような点を指摘して、処分が不当であることを主張している。
1 党内で意見をいわなかったなどというのは間違いで、支部の会議で頻繁にのべており、同支部の人は松竹氏の主張を充分にしっていた。
2 党首公選制という、党の決定に反することを党外から攻撃したというが、党首公選制を党の機関で正式に否定する決定をしたことはなく、したがって、公選制を主張することは、党の決定に反することを主張しているのではなく、したがって、ひとつの意見として党外での出版をしたにすぎない。党員が出版をすることはいくらでもある。
 以上は、見解の対立に関してであるが、除名の手続については、党は正規の手順で処分を決定したとするが、
3 松竹氏は、規約上党員の処分は、その所属する支部での決定によるもので、その決定を上部が承認するものであるが、松竹氏の場合、所属支部では、まったく討議されておらず、当初から上部での審議が行われたのは、規約違犯であり、なぜそうしたから、支部での議論にすると、擁護の見解が強く、処分が不可能になるから、規約をねじ曲げたのであり、したがって、処分そのものが規約違犯となる。

 考えるべきこととして、2点あるように思われる。
 まず第一に、やめたいのにやめることができない、というのは、当然、部分社会の法理の前提に反しているわけだから、おそらく、訴訟の対象になるだろうが、やめたくないのに、ルールによってやめさせられたという場合である。部分社会においては、ルールは、自由にきめることができるのだから、そのルールが適正に適用されて、除名されたのならば、これまでの例でいえば、司法の対象にならない。
 しかし、第二に、除名された事例として、ルール自体が不適切に適用された場合には、門前払いというわけにはいかないのではなかろうか。一般に部分社会とされていないが、企業で、不当に解雇されたら、解雇撤回の訴訟をおこすことは一般的といえるだろう。政党は部分社会として認められているから、不当な除名でも訴訟の対象とはならないとしたら、政党と企業は、どこがちがうのだろうか。
 企業のルールは、労働基準法によって制約があるし、また、違法な就業規則や規則の違法な扱いは、当然法によって認められないから、司法の対象になるのは当然である。しかし、政党には、労働基準法のような法律はない。議会の選挙に当選し、公費を支給されて政治活動をする場合には、公費に関して、また、議員として生じることの使用について、法が規定しているから、その違犯は、民事でも刑事でも対象となる。しかし、そうした議会との関係とは切り離された、政党内部の活動については、これまで司法は関与しないことになっていた。
 しかし、現在の政党は、かなりの部分が税金によって運営されており、国民の納得のいく運営が求められることも否定できない。そして、政党で働く人にとってみれば、一種の職場でもある。松竹氏の主張するように、処分に際して、規約が不当に扱われたことが事実であるとすれば、司法による救済はあるべきなのではなかろうか。