東京都交響楽団演奏会の「現代音楽」感想2025年05月01日 11:38

 昨日、東京都交響楽団の定期演奏会Aにいってきた。プログラムはすべて、いわゆる現代音楽に属するもので、好きな人にとってはたまらない演目だが、すきではない者にとっては、二度と聴きたくないようなものだった。残念ながら私は後者のほうだ。曲目は
 トリスタン・ミュライユの「ゴンドワナ」
 夏田昌和の「オーケストラのための<重力波>
 黛敏郎の「涅槃交響曲」
 私はすべて初めて聴く曲だった。何故、感想がはじめからわかっている演奏会に行ったかというと、2025年度の定期会員になったからである。前回は、アルバン・ベルクとブラームスだったし、今後もいろいろあるのだが、定期会員だから、仕方なくというほどでもないが、たまにはいい経験かもしれないと思っていたことも間違いない。
 ゴンドワナとオーケストラのための重力波は、1980年、2004年というように、本当に新しい曲だが、「現代音楽」そのものという感じで、すこしも「音楽」を、私は感じなかった。このような音楽を聴くと必ず思い出すのは、ペッカ・サロネンの言葉だ。彼は、作曲家でもある指揮者だから、新しい音楽を積極的にとりあげていたのだが、あるとき、カフェにはいったときに、若い作曲家たちが、さかんに乱数表を使って作業をしていたという。そして、乱数表で作曲をしていることがわかって、その後、少なくともそうした傾向の音楽は、決して演奏しないという決意をしたというのだ。つまり音列を乱数表で決めていたということになる。
 これは、私がいつも疑問に思うことを裏付けるような話でもあった。つまり、こうした音楽を作曲する人は、その音楽が、インスピレーションとして頭のなかに浮かんできたものなのだろうか、ということだ。
 「オーケストラのための重力波」は、たしかに、宇宙空間や重力を意識させるような響きだったが、これは、そういう音はどんなものなのか、という問題意識が最初にあって、それをさまざまな音響実験をした結果としてまとめられたという想像をしてしまうのだ。聞かされているのは、心のなかにわき出た「音楽」ではなく、「音響」で、音響実験につきあわされているような感覚だった。
 涅槃交響曲は、多少古いし、合唱が入ったためか、音響実験的要素は稀薄だったが、それでも、能のような(お経らしいが)声に大管弦楽があわさったような感じで、やはり、「音楽」を感じることは、私にはできなかった。
 いずれも、特に夏田・黛の演奏には大拍手だったが、(夏田氏自身が舞台にあがって礼をしていた)私には、演奏者にたいする拍手のように感じた。あのような音楽は、演奏がほんとうに難しいと思うので、東京都交響楽団のひとたちには、拍手したい想いだった。

トランプの教育省廃止政策2025年03月22日 14:11

 トランプ大統領が、教育省廃止にむけた大統領令に署名したということが、大きな話題になっている。あまり知られていないことだが、アメリカでは、1979年に連邦政府の教育省が設置されるまで、日本の文部科学省にあたる省庁は存在しなかった。しかし、州政府の中には、文部科学省にあたる部局が存在している。つまり、アメリカでは、憲法によって、教育は州の権限であることが、銘記されているのである。だから、連邦政府には、文部行政をおこなう必要がなかったといえる。これは、アメリカのような広大な面積をもつ国では、教育に対する要求も多様であるだろうし、学校教育は地域が主体となって運営することが適切である、という考えに基づいていたのであろう。
 しかし、教育にはお金がかかる。教師を養成・雇用し、学校建築をたて、さまざまな教具を用意し、子どもを就学させるためには、莫大な費用がかかる。地域によっては、そうした財政的負担に堪えられないところがある。それは、教育の機会均等という民主主義の原則に反することになるから、上部機関が、財政的補助をしなければならない。そうして、最終的には、連邦政府が財政的な補助をもするようになっていた。
 また、別の国家的養成として、農業が主体であった時期でも、農業の知識の充分でない農民もいたであろうし、また、工業が発達してくると、技術教育も必要となる。そうした産業にかかわる教育施設を設置し、産業教育を実施させるために、連邦政府が積極的に活動することもあった。補助金を梃子として、産業教育を活性化させるという方法をとったわけである。
 このようにみれば、アメリカの教育の展開にとって、連邦政府は、教育省がない時期にあっても、州に対して教育費の補助をおこなっていたのである。そして、その多くが、独自の教育政策を基礎にしていた。そうした展開の延長上に、連邦政府にも、常置の教育行政機関があったほうがいいではないか、という議論がでてくるのはごく自然な流れだろう。そうして、民主党の大統領だったカーターが教育省を設置することになったのである。ただし、教育が州の権限であることは、憲法上明確であるから、教育省の役割は、教育財政を主体とした「補助」的役割であることは、変わりがなかった。
 トランプのような「余計なお金をつかいたくない」大統領にとっては、財政補助が主要な任務であるような官庁は、まず最初に廃止したいのであろう。教育省に教育政策上のより強力で具体的な権限があるならば、そして、その権限を使ってトランプがやりたいことがあるのならば、おそらく、廃止という方向性はとらないに違いない。そういう意味で、今回の教育省廃止案は、いかにもトランプ的であるともいえる。ただ、教育の機会均等をより高いレベルで実施していくためには、中央政府による補助が必要であるということは、歴史が示してきたところである。結局は、この原則を大切なものと考えるかどうかではないだろうか。

高野山訪問2025年03月15日 14:41

 すっかり間があいてしまったが、この間旅行をしていた。いつものように、車による長距離旅行だったが、昨日無事帰宅した。今回の旅行の主な目的は、九州での親族の集りに妻が出席することと、これまで行ったことがなかった和歌山にいくことであった。そして、和歌山にいくからには、高野山にいってみようということだったが、それは、以下のような高野山への「関心」があったからである。
 中学の歴史で習うことだが、平安時代に最澄と空海が、それぞれ天台宗の比叡山延暦寺、真言宗高野山金剛峯寺を建立して、その後の日本の二大寺院として今日に到っているのだが、私にとっては、このふたつは、かなり異なる印象をもっていた。というのは、比叡山は、僧兵が暴れたとか、信長に焼き討ちにあったというような武力的な面もあるが、なんといっても、日本の歴史に残る宗教家を輩出したという点で際立っている。源信、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮など、高校の教科書には必ず載っているような人物であり、彼等は、みな比叡山で学んでいるのである。一度比叡山を訪れたことがあるが、法然がこもって修行した庵などのように、彼等の庵が名前付きで存在していた。もちろん、本当のものではないだろうが、比叡山といえば、多くの人にとっては、彼等の学んだ場であると認識されているだろう。
 しかし、高野山のほうには、そうした有力な宗教家、宗教上の業績をもたらした人物が見当たらないのである。仏教史に詳しいわけではないので、断定はできないが、少なくとも、高校の教科書に宗教家として歴史に名を残した人物は、なかったように思われる。wikipediaの説明をみても、比叡山では、著名宗教家が列挙されており、そうした項目が立てられているが、高野山のほうには、宗教で著名な業績を遺した人物としては、誰も記述されていない。何度も焼失しているので、寺の再建に尽くした僧侶などはでてくるが、寺社としての発展に寄与した業績に過ぎない。
 この相異がなぜ生じたのか、それを肌で感じ取ってみたいというのが、今回の訪問の目的だった。時間もかぎられており、全貌をみるのとは、ほど遠いものだったが、逆に重点的に見た場所の影響もあって、この疑問がかなり明確に解けた気がしたのである。
 中心的にみたところが、「奥の院」といわれているところで、2キロにわたる参道をともなっている、空海の墓所である。そして、この2キロの参道には、墓石がびっしりと両側に建てられている。そして、驚いたことに、現代の有名な大企業の名前の大きな墓石がたくさんあるし、また、東日本大震災の犠牲者供養等々があるかと思えば、著名な戦国大名や歴史的人物の墓石もみられる。




 実は、最初奥の院にいく方向をまちがえて逆に行ってしまったので、長い参道のほとんどを歩くことになったのだが、そのために、この厖大な墓石群を確認することができたのだった。最初から正しい方向で行けば、これほどの墓石が集合していることは実感できなかった。そして、感じたのが、「商業主義」ともいうべきものだった。高野山の歴史をみると、建物の焼失などが頻繁に起こっており、その再建はかなり困難であったようだ。そこで、墓石を「誘致」することで、資金を集め、焼失寺院の再建をはかったのではないかと感じたのである。もちろん、有名な日本の代表的な寺院だから、そこに墓があるということは、名誉なことであるという感覚が、著名人たちにもあったのだろう。そのような双方の思惑の一致が、こうした大規模な墓石群を生みだしたように思われた。
 もうひとつ感じたのは、比叡山は、かなり上まで車で昇って見学したのだが、通常の家などは、ほとんどなかったように記憶している。つまり、一帯が寺院として機能していた。ところが、高野山は、当然車で相当な距離を昇って行ったところにあるのだが、寺院がある一帯は、かなり町として開けており、一般家屋や商業施設なども普通にある。山の上にあるにもかかわらず、門前町という雰囲気そのものだった。比叡山は、閉鎖的な宗教空間に閉じこもって、ひたすら思索・修行に励むという雰囲気を感じたのだが、高野山では、宗教施設でありながら、世俗的な経済のなかで、一般的な生活が寺院においても営まれているという雰囲気を感じた。もちろん、これは、私自身のうけた「印象」であるに過ぎないのだが、比叡山と高野山の雰囲気が相当程度異なることは事実であろう。
 もっとも比叡山から宗教改革家が輩出したといっても、平安時代末期から鎌倉時代までで、それ以降はほとんど、そうした改革家はみられない。これは、寺院勢力が、封建領主に屈伏していく流れがあったからだろうが、それでも、一時期みられた比叡山修行僧の抵抗精神のようなものが、なぜ、あの時期に活発で、なぜ以後すたれてしまったのかは、別の問題としてあるだろう。
 宗教史に詳しいわけではないのだが、五十嵐著作集の作業でも必要になってきているので、今後研究していきたい。

Bla;ck Box d;iaries 問題を考える2025年02月22日 22:03

 伊藤詩織氏が自らの性被害の経験を映画として制作し、日本以外の数十カ国で上映されているにもかかわらず、日本での上映が困難となっていることについての議論がなされている。私自身は、この映画をみていないし、また、詳細を追いかけているわけでもないが、極めて重大な論点があるので、考えてみたいとおもった。
 事態がジャーナリスティックに大きな話題となったのは、以前から問題になっていた、この映画における「情報許諾」について、許諾を受けていないという批判記事を書いた望月氏を、伊藤氏が名誉毀損で提訴すると公表したことがきっかけとなったように、私には思われる。私自身が、それ以前の状況について、ほとんど知らなかったということもあるかもしれない。
 そして、伊藤氏の性加害訴訟で弁護団を組んでいた弁護士たちが、この映画の許諾問題で、伊藤氏と袂を分かち、批判の側になっており、記者会見を開いた。時間差で伊藤氏側も同じ場所で記者会見を開くはずだったが、体調不良を理由に欠席し、伊藤氏側に不利な状況になっているように感じる。
 しかし、双方の主張をみなければわかならないし、また、この元になった事件をどのように解釈するかで、この件の考え方に相異がでるようにも思った。
 まず確認しておくべきは、情報提供者への許諾は、主に3つの内容があるようだ。
・伊藤氏がホテルに連れて行かれる防犯映像を、ホテルが裁判のみ使用という理由で提供したものを、映画に組みこんでいる。
・伊藤氏と加害者が乗ったタクシーの運転手からの提供データ(ドライブレコーダーだろう)
・捜査状況を説明した警察との対話を録音したデータ(伊藤氏は、事件後、自分の訴えが認められないことのないように、常に録音・録画をしていたという)
 この許諾及び使用状況については、双方に食い違いがある。

 さて、本来の事件の本質は何かという点だが、これは、単なる伊藤氏がうけた性被害事件ではなく、加害者が安倍晋三首相(当時)の熱烈な支持者であったために、当時の警察が加害者を逮捕寸前のところで、ある警視庁幹部が逮捕をやめさせ、事件のもみ消しをはかったという点がある。
 伊藤氏を批判する側は、この事件を性被害事件として捉え、訴訟で伊藤氏の主張が認められたのだから、それを更に、許諾のないデータを使用してまで、映画を作成する必要はないではないか、という趣旨が強く感じられる。しかし、警察のもみ消し工作を重大視する立場からみると、裁判で認められたから充分であるとはとうていいえない。
 ホテル提供の映像は、そういう意味では、これほど明確な証拠があるにもかかわらず、警察はもみ消しをはかったのだ、という、かなり決定的な証拠を提示することになり、おそらく伊藤氏側としては、絶対に不可欠な要素だったのだと考えられる。
 それに対して、ホテル側や元弁護団は、こうした公表をされてしまうと、今後、犯人を特定するような映像があったとしても、提供できなくなる、と主張しているが、それはどうなのだろうか。ホテル側には、ホテル側としての立場があるだろうから、最大限、相互の同意をえるべく努力をすべきであったろうが、そもそも、こういう防犯カメラは何のためにあるのか、といえば、当然、犯罪の抑止のためであり、また、実際に犯罪がおこなわれてしまった場合には、犯人逮捕に活用するためである。だから、防犯カメラの映像は、犯罪がおこなわれた場合には、テレビなどでも頻繁に放映されている。つまり、公表される場合があることは、前提となって設置されているのであろう。その場合でも警察のチェックで速やかに犯人が逮捕されるならばよいだろうが、犯人が逃走した場合には、一般市民の協力をえるために、テレビ等で公表されるわけである。
 したがって、この事例のために、今後防犯カメラ映像の提出が困難になるというのは、あまり納得できる議論ではない。

 警官の電話録音については、伊藤氏代理人は、伊藤氏に逮捕状が執行されなかったので諦めるように、という電話だったのであり、もみ消しのためのものだったということで、社会に示すほうが公益であるという主張をしている。この点については、私は納得できる。
 タクシードライバーについては、とくに伊藤氏代理人はコメントがなく、ホテル映像もふくめて、必要な修正(モザイク等)をしてあるし、また、今後追加的におこなうとしていることにふくまれているのだろう。

 以上、事件の本質という点から、伊藤氏代理人の主張は、概ね受け入れられるものだったと、私には思われた。
 ただし、本来、強い味方であるはずの望月氏のような人を提訴するというのは、ジャーナリストとしては、批判されるべきだろう。ジャーナリストは、弁論の場をもっている人たちなのだから、名誉毀損などを根拠とした訴訟は、よほどのことがない限りすべきではない。これは、私の時論でもある。
 なお伊藤氏代理人の説明はhttps://d4p.world/30737/
 元弁護団の主張の紹介は、多数の大手メディアにあるので、適宜参照してほしい。

トランプは独裁者になりたいのか2025年02月21日 18:45

 トランプの最近の行動をみていると、独裁者として振る舞いたいという衝動・欲望を感じざるをえない。結局、プーチン・周恩来と3人で世界を支配したいのか、という疑念がどうしても湧いてくる。中国を封じ込めるなどと言っているが、結局のところ、トランプは習近平とは必ずしも犬猿の仲という関係でもない。プーチンとの仲は以前からのものだ。金正恩を「いいやつ」と表現していることでもわかるように、トランプが気に入っている人物は、とにかく独裁者かそれに近い人物ばかりである。安倍晋三もその一人だ。にもかかわらず、ゼレンスキーのことを「独裁者」などと決めつけているのだから、呆れてしまう。
 それが結果的に、いかに国際情勢をゆがめた感覚で、トランプがみているかは、ウクライナ問題の扱いをみればわかる。とにかく、トランプのウクライナへの扱いは、報道をみている限り、一貫したものがない。そして、それがとんでもない発言になっている。その典型が、「ウクライナで大統領選挙を実施すべきだ」という主張だ。これは、完全にプーチンに、思考回路を支配されているとみるべきだろう。プーチンは、いかにも「大統領の任期が切れている」などと、もっともらしいことをいっているが、ウクライナで、大統領選挙が実施できないのは、隣国の大国ロシアに侵略されているからであり、そのための抵抗を国家的規模で継続して実施しなければならないからである。プーチンの主張は、泥棒の説教でしかない。それだけではなく、もっと強い戦略によっている。それは、ウクライナで大統領選挙を実施させれば、強力に選挙干渉をして(それはプーチンのお得意の技だ)、ロシアに従順な大統領にすげ替えるという目的があるからである。トランプの主張は、まったくプーチンの主張を後押しして、ウクライナをロシア従属国家にするものなのだ。それをわかって、トランプが主張しているとすれば、かれは完全にプーチンの強固な同盟者であり、わかっていないとすれば、完全な無知である。
 この戦争の状況の極めて明確な特徴のひとつに、ウクライナは、ロシアの軍事施設や兵站を破壊するために爆撃をしているが、ロシアは、完全にウクライナの市民生活の破壊のために、民生施設を爆撃している。つまり、ロシアは、ウクライナ市民の生活を破壊するべく、ミサイルを打ち込んでいるのであり、そのような状況下で、国家的規模の選挙など実施できるわけがないではないか。もし、大統領選挙を実施させるために、トランプが、プーチンに対して、とにかく現在ウクライナにいるロシア軍全体を、ロシアに引き上げさせて、公平な選挙が可能な状況を一定期間保証した上で、選挙を実施すべきであると主張するならば、それは、ある程度納得のいくものだろう。しかし、それを前提にした選挙を主張しているわけでもなく、単にプーチンの主張を容認しているに過ぎない。現在の発言をみる限り、ロシアが不当に占拠しているウクライナ領を,ロシア領にしてしまう前提での、「ウクライナ」の大統領選挙なのだから、ウクライナが受け入れられないのは当然である。

 ウクライナ情勢は、とにかく混沌としているようだ。ロシアは人海戦術を駆使して、いかに犠牲者がでようが、占領地域を拡大しようと攻撃を継続している。なんといっても、兵力数で圧倒的にロシアが有利だから、ウクライナが押されている局面が大きいようだ。しかし、ウクライナは、ロシアの兵站を破壊することにおいては、かなりの成果をだしている。しかし、兵站破壊が100%実施されているわけではないし、少しずつその影響が出てくるとはいえ、それには時間がかかるだろう。「兵糧攻め」は、長期間実施しなければ、目的は達成できない。結局、ウクライナがどこまでロシア軍の攻撃に堪えられるのか、ロシアの戦闘能力が削がれていくまでもつのか、ということになる。
 しかし、戦争開始まもない時期に書いたように、ウクライナがロシア軍を実力で敗北させ、ロシア側に完全撤退させることは、難しいといわざるをえない。それが実現するためには、もうひとつ、ロシア内でのプーチンに対する反乱がおきることだ。そのような情勢は、現在では見られない。多少の萌芽はあるようだが、まだまだ反乱がおきる発火点まではいっていないようだ。結局、双方がどれだけ堪えるのか、そして、トランプがウクライナ援助を完全に断ち切ってしまうのか、その場合のヨーロッパの援助の実効性はどうなるのか、というような不確定要素があり、また、トランプ自身も揺れている状況だから、2025年は混沌状態が継続していくのだろう。

1円硬貨廃止問題2025年02月16日 17:28

 トランプが1セント硬貨の廃止を主張していることが、波紋を呼んでいる。具体的にどのように廃止するのかが明確ではないが、日本でも1円硬貨は廃止すべきだと思っている。ただし、廃止後のありかたが問題である。
 私が1992年から1年オランダに滞在したときに、実は、オランダでは1セント硬貨が廃止されていた。ただ、その後ユーロ貨幣がだされた段階で、その方式も終わりになり、現在ユーロでは1セント硬貨があるはずだ。
 オランダにいったとき、1セント硬貨がないことなどまったく知らなかったのだが、最初に変だとおもったのは、値札でたとえば13セントの買い物をしたのに、あるべきおつりがなかったからである。聞いてもそのときにはよく理解できなかったのだが、あとで近所の住民にきくと、要するに、1セント硬貨を廃止して、お釣りの計算方式が変わったのだという。
 商品には、通常のように、一桁のセントの値段がついている。しかし、通常まとめて買うわけだから、その際に値段の合計の計算をそのまま足すのではなく、
・1、2セントは0
・3~7セントは5セント
・8、9セントは10セントとして計算するのだ。
 だから、8セントの商品を買えば、それは10セントとられることになるのだが、5個買えば、50セントではなく、40セントなのである。また、7セントの商品では、1個では5セントになり、5個だと35セントだ。これは1個1個買ったほうがとくになる。
 つまり、当時のオランダでは、同じ商品を買う場合でも、どのような個数にするととくになり、あるいは損するのか、ということを、よく考えなければならないわけだ。面倒だといえば面倒だが、買い方によって、実際の値段より安くなるのだから、当然真剣に考えるわけである。しかも、1セントよりも生産コストがかかる硬貨などかなり無駄だから、そうした無駄も省いていた。
 このやり方は、ユーロになっても踏襲すべきだと思っていたが、踏襲しなかったのは残念だ。

 さて、1円硬貨を廃止して、当然予想される値段設定は、1~4円は5円に、6から9円は10円にしてしまう可能性が高い。つまり実質的な値上げである。こうしたことは、させさせねばならない。むしろ、政治家は、こうした値上げを合理化することを許容することで、財界の支持をえようとしている可能性がある。

フジテレビ問題あれこれ2025年02月13日 19:45

 フジテレビの問題はいっこうに収まる様相ではない。いろいろと考えるところがある。古くなってしまった話題が多いが。

 文春の「訂正」には驚いた。驚いたのは、文春が、厳密にいえば誤報したわけではない記事について、間違っていたと訂正して、謝罪したことに驚いたことと、文春が誤報していたことで、まるで中居問題やフジテレビ問題が一挙に収束にむかうかのような発言をする人たちがいたことだった。
 文春の訂正の趣旨は、第一報では、A氏が中居宅での食事会にXを誘ったと書いたが、それは誤りで、実は中居氏が誘ったのだ、という趣旨だった。しかし、もともとの記事を丹念に読めばわかることだが、そして既に文春自身がその後の説明をしているように、A氏が誘ったとは書いていないのであり、誰が誘ったのかはあいまいに書かれていた。そして、第二報で中居氏が誘ったと明確に誘い主を特定する記事になっていたのである。だから、「A氏が誘った」とは書いていなかったし、更に、第二報ではあるが、誘ったのは中居氏であったことは、きちんと書かれていたのだから、実は訂正するようなことではなかったのである。ただ、橋下氏がさかんにテレビで語っていたので、とにかくことを収めようとして、「訂正記事」を書いたのだろうとおもうが、ただ、テレビのワイドショーのコメンテーターには、文春をきちんと読んでいるとは思えないような、文春批判をしている人が散見されたことは、彼等の「知性」を示しているようで、興味深いものがあった。

 オープンの、10時間以上にわたった記者会見は、前に書いたように、最初から最後まで見ていた。途中はどうやって終わらせるのか、という一点に興味があったからずるずると最後までみてしまったのだが、壇上にいた取締役たちは、もっとなんとかできなかったものか、という声が圧倒的に多かったようだ。しかし、いかなる意味でも、記者会見で、記者たち、そして、視聴者たちを納得させる内容の発言をすることは、あの取締役たちには不可能だったといえる。そういう意味では、まったく違った形での記者会見のみが、事態を収める方向を可能にしたのだということだ。そして、それはまだ実現していない。
 なぜ、納得させることができないといえるのか。
 それは、彼等が話す内容は、基本的には、まったく逆のふたつしかないということ。ひとつは、「真実」「事実」を語ること。そして、もうひとつは、「嘘」を語ること。
 もし、真実や事実を語れば、フジテレビ経営者たちの、明らかな人権無視と違法行為を明確に示すことになるのだから、その場は、大紛糾することになっただろう。もちろん、記者たちがそのまま、「そうだったんですか」などと納得するわけがない。
 また、嘘をつけばどうか。これが実際に語られた内容であったわけだが、それは、あの場でも記者たちの反応をみればわかるように、それが「嘘」であることは、完全に露呈していた。露呈していたからこそ、10時間も粘られたわけだし、また、終わった段階で、記者会見で納得がえられたという雰囲気はまるでなかった。
 つまり、真実を語っても、嘘で誤魔化そうとしても、どちらにしても、納得できる会見になど、最初からなりようがなかったのである。
 では、どのような会見だったら、記者たちがある程度納得し、また、スポンサーが戻ってくる可能性を切り開いたのか。これも自明のことで、多くの人が考えていることだろうが、責任あるポストにある人が、早急に全員辞任し、外部から有能な経営者を招聘し、役員に事件とまったく無関係な若手を起用することを、明確に示すことが、最低限必要だったろう。そういうことの発表の場とすれば、雰囲気はがらっと変わったに違いない。いかなる形であっても、「説明」して納得させることは不可能だったのである。いずれ彼等は辞任せざるをえないのだから、そのような形での辞任を演出すれば、彼等の名誉も守られたに違いないとおもうのである。
 これに関連して、中居氏や松本人志氏の記者会見を求める意見が強いが、私は、必要ないと思っている。少なくとも、中居氏は引退し、松本氏は事実上の引退情態にある。ここで記者会見をすれば、ただただつるし上げられるための会見になる。いくらなんでも、それは酷ではないだろうか。記者会見が必要だというのは、彼等が公共電波を使用するテレビの仕事を、今後も続けたいという場合である。それは、テレビが公共電波を国によって認可されて使用している媒体だからである。youtubeなどで活動をしていくというのであれば、会見は不要だとおもう。彼等にとって、テレビに出られなくなることは、それ自体としてかなり大きなペナルティなのだから、それで充分なのではなかろうか。

 フジテレビの過去の暴挙がいくつも暴かれているが、そのなかで、驚いたのが、老人に、火がついた敷物の上を裸足で歩かせる、という番組があり、大火傷をした情態なのに、病院につれていかず、ただ自宅に送って、放置し、その後重態となって、入院がつづき、数年後に亡くなったという事件である。常識では信じることすらできないような酷いことだが、私自身が、聞いていた番組で、これほどのことではないが、基本的には同じ問題だと感じることがあった。それは、文化放送のラジオだったのだが、男女のアナウンサーが対談していて、熱湯に近いお茶を、ぐっと飲み干すということをしようという内容だった。男性側が比較的ベテランのアナウンサーで、それに対して、女性のアナウンサーが、しきりに「飲みましょう、飲んでください」とけしかけるような感じだった。当初、男性アナウンサーは、自分にとって喉は職業上の大切な部分なので、そこに悪影響を与えるようなことはしたくない、と強く抵抗していたのである。しかし、まわりもはやし立てるような感じて、その女性アナウンサーがしきりに要求するのだ。結局、男性アナウンサーが、熱湯のお茶をのみ、ひどく苦しそうになっていた。
 私自身、熱いお茶やコーヒーを飲まないことにしており、必ず冷ましてから飲むので、その男性アナウンサーの気持はよくわかるし、ぜったいに拒否してほしいと思いながら聞いていたのである。だから、実際に飲んでしまったときには、はやし立てているひとたちに本当に怒りを感じた。
 このような、人に苦痛を与えて喜ぶような文化が、こうした放送をやっている人にもあるのかと思って、そのことは、今でも鮮明に覚えているのである。それから、その番組は聞かなくなったし、何十年も前のことなので、今は番組自体がない。だが、こうした文化は、学校でのいじめの芽をつくりだしていることは、充分に考えられる。今回のフジの騒動をみていると、公共性をもったメディアでありながら、本当に無責任な人たちが牛耳っている部分があるのだと、憤りを感じざるをえない。

フジテレビやり直し会見の不毛2025年01月28日 19:05

 おそらく前代未聞の会見だったのではないだろうか。もしかしたら、大学紛争時代の「大衆団交」なるものには、こうしたもの、あるいはもっと怒号が飛んだ会見があったかもしれないが、公共放送で生中継され、それが10時間半も続いた会見などは、まずなかったに違いない。しかも、フジテレビは、それをまったくコマーシャル無しで、ノーカット放映した。フジテレビなど、ここ20年以上みたことがないが、フジテレビが潰れるかどうかを注視しているので、この会見は、すべて見た。16時にはじまり、終りは午前2時半だった。途中10数分の休憩があったが、会見中は壇上の人は、だれもトイレ退出することなく、ずっと座っていたから、終盤は半分頭が働かないような印象をあたえるほどだった。その頃は、半分以上の記者たちは帰っていたから、壇上の役員たちにとっては、かなりつらいものだったに違いない。自業自得といえば、それまでだが。

 さて、具体的な場面の映像がyoutubeで多数流れるだろうから、詳細は省くが、全体として感じたことを書いておきたい。
 まず感じたことは、壇上の経営陣たちが、とにかく我慢強く、決して声を荒らげることなく、内容はともかくとして、最後まで答えていたことについては、正直感心した。記者たちを挑発的に怒らせることを絶対にしないように、という事前の確認があったのだろうが、針の筵にいるような10時間を堪えたということについては、さすがに「高齢者」たちだと驚き、これを、最初の記者会見でやっていれば、その後のCM騒動もおきなかったのに、と彼らのためにも残念に感じた。
 他方で、希望すれば一度は必ず発言機会をあたえられていた記者たちの、多くは、極めてレベルの低い質問で、冷静かつポイントをつくような質問はあまりなく、とにかく自説の開陳と押しつけを目的とするような、演説調の質問が多く、聞いていていらいらした。一月万冊の佐藤章氏は、記者クラブだけが入れるような会見ではだめで、フリーランス記者こそがまっとうな質問をするのだ、と日頃からのべているが、こうした会見をみると、フリーランス記者の多くの質問は、レベルが低く、むしろ適格、かつ相手にきちんと答えさせるような質問をしていたのは、大手メディアの記者たちが多かったようにおもわれた。もちろん、だからといって、大手メディアに制限するような会見がよいといっているわけではないが、フリーランスの人たちの水準が低いことは、自身自覚すべきであろうとおもう。

 さて、長時間の拷問のような質問攻めにはよく堪えたと感心したが、答弁の内容については、酷いものだったといえる。それは、とうてい事実とは思えない「物語」が作成されていて、その「物語」を強固に固持し、それが事実によって破られそうになると、「プライバシー侵害の恐れ」などという理由で、質問がストップされるという形で、「物語」が最後まで維持された、そして、そのことによって事実が隠蔽されたということだ。おそらく、記者たちはみなそのことが気づいていただろう。
 その「物語」とは何か。
 その前に、「文春」やその他の報道によって、現在までに明らかにされている「ほぼ事実」と考えられることは、以下のようなものである。
1 フジのプロディーサーAが、他の局員を交えて行われる予定だった中居宅での食事会に、Aやその他局員が全員直前にドタキャンし、結局アナウンサーのXのみが中居宅にでかけ、食事のあと、トラブルになった。2023年6月のこと。
2 その翌日Xはフジテレビの幹部に事実を報告し、佐々木恭子アナウンサー部長を交えた幹部3人と、フジと契約の産業医とXが話し合いをしたが、佐々木アナが「たいへんだったね、少し休もう」といったのみで、Xがみずからの医師に診断を受けようとするのも阻んだし、その後、Aには何もいわなかったと告げたのみであった。(AからXが報復されないように黙っていたとの解釈もある。)
3 何もしてくれないと考えたXは、その後症状が悪化し、PTSDのみならず、多くの疾患をかかえ、長期の入院を余儀なくされた。そして、快方にむかったので、フジを退社することになったが、その前に、元気になるためもあって、パリ五輪を見学した。
4 いつの時点か不明だが、中居は当初、入院中のXに謝罪するためにAを見舞いにいかせ、その際20万を渡そうとしたが、Xは断り、その後双方の弁護士による協議の結果示談が成立、9000万の支払と守秘義務の約束がなされた。
5 会社の認識としては、当時フジテレビの専務であり、現在関西テレビの社長である太田氏が。彼が記者会見でのべたことは、事件後すぐに自分にトラブルの件が報告され、(ということは、上記2の3人のフジ幹部職員のだれかが、すぐに専務に報告したのだろう。)太田専務は深刻な事態だと認識したために、すぐに社長に報告したと語った。
 以上が、100%確実ではないかもしれないが、おおよそ明らかになっている事実だろうとおもわれる。しかし、会見当日、港社長によって、かたくなに維持された「物語」は以下のようになっていた。
6 事件後、Xの様子がおかしいと感じた同僚社員が、おそらく上役に伝え、それが港社長にあがってきたのは、8月だった。
7 深刻に受けとった港社長は、被害女性の気持に寄り添うことを最大限重視し、噂が拡散しないように、ごくわずかのメンバーで対応をとった。そして、すぐに中居を番組からおろしたりすると、Xを刺激し、情態を悪化させることを危惧して、中居をおろす機会を探っていた。
8 しかし、Xの情態が改善しないので、番組改編期にも、中居をおろす決断ができず、結局、昨年11月に中居降板をきめて、その後中居に伝えた。
 中居氏にもXにも、港社長みずからが接したわけではなく、担当が接していたようだ。したがって、このような物語を語りながら、いつ、どんな人物が、どのような内容で、中居氏やXと話し合ったのかは、具体的には何も提示されなかった。
 どちらのストーリーが、より真実に近いだろうか。少なくとも、文春等が伝えているものは、無理がないのに対して、港社長の「物語」は、綻びだらけである。
・大田専務が、6月にすぐに報告をうけ、それをただちに社長に報告した、と語っており、文春は、事件の翌日に、上司に報告したと語っているのに、港社長は、報告をうけたのが8月だったといっているのは、あまりに違いが大きすぎるだろう。それを港社長は、専務から、私に情報が届くまでに、中間の人がたくさんいたために、遅れたのだろう、などと語っていたが、誰がそんなことを信じるだろうか。専務が社長に、「直ちに報告した」といっているのに、「中間」が2ヶ月も遅らせるわけがない。常識的に、専務が公の場でのべたのだから、直ちに社長に報告したことは間違いないのだろうし、常識的に考えて、それは「直接に」伝えたと受けとられるものだろう。
 これまでこの事件を冷静に受け止めてきた者からみれば、直ちに報告うけた社長は、Aとともにどうやって隠蔽するかを考え、とりあえず無視することにした。そして、積極的にはなんら対策をとらず、中居の温存をはかったが、事態が発覚して、どのように説明するかを考えて、「報告をうけたときには、XがPTSDで入院していたために、彼女を刺激しないようにと考えた」という「逃げ口上」の物語を考えだしたのであろう。
・中居を止めさせると、Xの精神に負担をあたえるなどと弁明しているが、常識的には、それは逆である。中居がテレビに出続けているのを見ることのほうが、中居が止めさせられるよりも、圧倒的に精神的に苦痛なはずである。食事会にでた食事と同じものを見るだけで、苦痛なのだから、当人のテレビ出演をみたら、それこそ、苦痛だけではなく、怒りが頂点に達するに違いない。そんなことは、誰にだってわかる。それをしゃーしゃーと逆のとこを発言するのだから、驚いてしまう。しかし、記者たちもおかしいと思っているから、何人もがそれを問いただそうとするのだが、肝心の部分になると、直ちに、司会者の広報担当が、「プライバシー侵害になるので」と強引にそれをとめてしまうのである。だから、あきらかにおかしな港社長の「物語」だが、それをただそうとすると、その質問そのものを遮ることによって、「物語」を守っているという構造になっていた。だから、事件後、直ちに、Xが上司に報告したなどという話も、発言しようとするとその前に「停止」をさせられてしまう。
 
 広報局長の司会の介入によって、事態が紛糾した最大の場面は、中居氏とXの認識が違いが問題になったときだった。開始の比較的に前の段階で、港社長が、Xから聞いていた話と、中居氏からの話とで、食い違いがあったと発言していたのだが、それをある記者が、食い違いの内容を正したところ、遠藤副会長が、同意と不同意(一致と不一致という表現もあった)の違いだと説明して、それを記者が更に、突っ込んでいたとき(中居氏は同意があったと主張しているのか、等の質問をしていたと記憶する)司会から紙片が遠藤氏に渡され、発言そのものを取り消してしまったのである。そのことに回答すること自体が、プライバシー侵害であるというのが「会社の認識」であるとして、遠藤氏も回答を拒否してしまう。それに怒った記者が、何度もここは最も重要なことだ、と食い下がり、野次も激しくなり、けっこうな時間議事そのものがストップしてしまった。結局、ついに、遠藤氏は、答える事を拒否したまま、司会が次の質問者を指名することで、流れが次のところにいってしまったということだ。
 これも、聞いている人には、実に不可解におもわれただろう。中居氏もX氏もトラブルがあったことを認めており、9000万円(額について疑問もでているが)の示談金が支払われたのだから、両者の主張が対立しており、常識的に中居氏が同意があったと説明し、Xは同意はなかったとしているというのは、ごく当たり前の解釈であり、そのことは、世間に知れ渡っているのだから、プライバシーの侵害になるなどとはいえない。つまり、その回答を拒否するのは、中居氏が事実をまげているという「事実」を隠したいという以外の理由は見つからない。
 この司会による介入は、実にフジ側の不都合をあぶり出していたひとつだった。中居氏の番組継続は、すべて港社長によって、上記「物語」で押し切られ、それ以上突っ込もうとすると、プライバシー侵害ということで、司会者に遮られる。また、答えにくい点は、ほとんどが第三者委員会の調査を待つ、などと逃げてしまう姿勢では、「信頼を取り戻す」どころか、「信頼をますます失う」結果にならざるをえない。
 このようなことが、ほかにもたくさんあったので、この会見によって、スポンサーの信頼が回復したということは、おそらくないだろう。とくに港社長の回答は、「物語」に固執するために、方々で無理があり、嘘をついている感が濃厚であるし、それを権力的に守ろうとする司会も、フジへの不信感を増大させるに充分なものだった。みていた視聴者も、フジテレビは回復しつつあるなどとも、おもわれていないだろう。
 しかし、やはり、記者会見のやり方については、だれもが改善の必要を強く感じただろう。完全クローズドでもなく、完全オープン時間無制限でもない、記者会見のあり方が、工夫される必要がある。記者クラブの問題も明らかだが、単に自由にフリーランスの記者に語らせることを保障するだけでは、みのり多い記者会見にはならないということだろう。

田中将大問題で感じること2024年12月13日 21:41

 現在の日本プロ野球界における屈指の名投手である田中将大が、楽天から自ら身を引く形で自由契約選手となり、新天地で活躍したいという希望を表明しながら、いまだに田中を獲得しようという球団が現われないという、たいへん注目される事態になっている。田中がなぜ、自由契約を望んだのか、なぜこれほどの実力ある投手を、どの球団もとろうとしないのか、その他さまざまなことが、実に多くの人によって意見表明されている。そういう中で、楽天球団で起った安楽選手のハラスメント問題が尾をひいているという見方が、多数だされていることにたいしてだろうと思われるが、田中が法的措置をとるかも知れないと宣言したように報道されている。
 多くの人が指摘しているように、田中が楽天を退団した際、そしてその後の行動については、田中をとりたいと思っていても、それを躊躇しかねないような行為のように思われている。「自分が必要とされていないと感じた」とか、ニューヨーク・ヤンキースから楽天に移籍したときに、「もっといい条件を提示してくれた球団もあったが」などという発言などは、やはり、私が聞いても、言い方が適切ではないように感じられる。ただ、私の感覚では、やはり「法的措置」発言が、もっとも言ってはならないものだったと思うのである。まさか、実際に提訴したりはしないだろうが、そういう発言をすること自体の悪影響を考えなかったとしたら、少々未熟さを感じてしまう。
 詳しいことは私も知らないが、安楽が、後輩選手たちにハラスメントをしたということで、退団せざるをえなくなったわけだが、その際、田中がそのハラスメントを黙認していた、あるいは煽っていた、さらには、自身もかかわっていたというようなことが、ネットでいわれていたわけである。私自身、そうした書き込みを少なからず読んだ。そして、私自身はみていないのだが、そういう書き込みには、安楽のやっているハラスメント行為を映した動画があり、そこでは田中が笑ってみていた姿が映っているという。それを「みた」という複数の書き込みがあったから、おそらく間違いないのだろう。田中自身のいいたいことは、自分は安楽のハラスメントにはまったく関わっていないということだろう、だから、そうした書き込みは誹謗中傷であり、名誉毀損であるということなのだが、そうした動画があれば、法的措置をとっても、田中の主張が通る可能性は低いと思われる。
 それよりも、法的措置をとる、などという発言をしてしまうことが、抑圧的姿勢を感じさせてしまう。スポーツの世界では、しごきなどのハラスメント的行為は、とくに以前は日常茶飯事だったし、いまでもそうした体質がある団体も少なくないだろう。そうした背景を考えれば、田中の法的措置発言は、ハラスメント的体質を田中がもっていると感じさせてしまうのではなかろうか。ほんとうにないのであれば、田中はyoutubeをやっているようだし、また記者会見をすることも可能なのだから、そういう手段をもちいて、真実はこうだった、と公表すればよいのである。松本人志がそうであるように、みずから世間に説明せず、法的措置をとると言うことは、(松本は実際に提訴したわけだが)むしろ逆効果、つまり、ほんとうはそういうことがあったのではないか、という受取りをされがちなのである。
 球界に居場所を見つけるのは、多くの人が指摘しているように、ネガティブな対応ではなく、自分の努力によるのではなかろうか。

「紀州のドンファン」事件の無罪判決2024年12月12日 21:08

 いわゆる「紀州のドンファン」と呼ばれた資産家の殺害事件の判決公判があり、無罪とされた。この被害者は、生前からメディアでは有名だったが、死亡したというニュースには驚いたものだった。少し前に結婚した女性が、50歳も若く、通常ありえないと思うし、多くの人が、女性のほうの遺産狙いを感じたろう。
 死亡したときのニュースでは、たしか殺害されたという断定はなかなかさなかったと思うし、現在でも、死因そのものは覚醒剤の過剰摂取ということになっているようだが、それが事故なのか、自殺なのか、他殺なのかは定かではないようだ。判決は、自身で「誤って致死量の覚醒剤を摂取」という可能性を否定していないと報道されている。ほんとうに不可解な事件だった。
 妻は最初から疑われたが、考えてみれば、ドンファンはかなりの高齢であり、死亡すれば、遺言で公的機関に遺贈するという遺言書があったとされるが、当然遺留分はあるわけだから、かなりの遺産がそれほど遠くない時期に入るわけであり、殺害などしたら、それが無になってしまう。合理的に考えれば、殺害の動機は薄い。しかし、では他に可能性があるのか。等々。妻である女性は、以前に結婚詐欺をやっているので、犯罪などに縁のないまっとうな人間とも思われていなかった。死亡推定時刻に家にいたのは、妻だけだ、今は覚醒剤を入手しようとしていたらしいやりとりが残っている。
 こうして、結局は状況証拠によって起訴されたわけである。
 私は、場所が和歌山県であるということで、カレー事件を思い出さざるをえなかった。多くの人が、想起しただろうと思う。カレー事件のときにも、とにかくメディアの報道が加熱して、特定の女性への疑いが連日報道されたものだ。そして、結局彼女が起訴され、死刑が確定している。しかし、詳細に調べたわけではないが、私は冤罪だと思っている。これもかなり強引な状況証拠(ともほんとうはいえないのだが)と、マスコミの報道によって、彼女が犯人にされたが、なによりも、彼女が他の人に毒をもったことがあるとしても、それはすべてお金目的だったのであり、自身がいっているように、お金にならないのに、人を殺したりしない、というのは、ほんとうのところだろうと思うからである。彼女にとって不利なのは、たしか夫に毒をもって、(といって致死量ではない)保険金をとろうとしたことがあることは間違いないので、とにかく、「悪人」だと思われたのは、ある意味自然の成行であった。そして、一審では黙秘を通し、死刑判決になってしまったので、高裁からは無実の主張をしたが、判決は維持され、確定したのである。しかし、冤罪であるとして再審要求を援助しているひとたちもいて、彼女はいまでも無実を訴えている。最近ではネットでも、彼女の冤罪を主張する書き込みもある。彼女もやはり状況証拠だけで、起訴され、しかも、「疑わしきは罰する」ように死刑判決が確定してしまったのである。

 おそらく、和歌山の司法関係者もそういう反省的思いの人は、少なからずいるに違いない。判決の数日前、今回の事件が再度放送されたとき、私は、無罪判決がでるような気がした。それは、カレー事件のようになってはいけないという、裁判関係者の思いがあるに違いないと思ったからである。「疑わしきは罰せず」という刑事訴訟の大原則が、守られたことは、とてもよかったと思う。