日本が先進国でなくなった実感2024年05月01日 21:36

 日本は、確かに先進国といえる国だったと思う。単に経済規模だけではなく、その製品の品質に対する信頼、国際的な行事などを確実に運営する組織能力、交通マナーや災害時の対応など、誇っていいことが確かにあった。しかし、それらのほとんどが、今崩れかかっているように感じるのは、私だけではないだろう。
 たとえば、災害時に、途上国などは、略奪などが頻繁におきている。しかし、日本では、これまでそうした「火事場泥棒」的な行為は、ほとんどないとされ、国際的にも称賛されてきた。しかし、今年の元旦におきた能登半島の地震のその後をみると、これが先進国かと思われるような事態となっている。
 既に4カ月が経過しているのに、ほとんど放置されている地域が少なくないという。大手メディアはあまり報道しないが、youtubeなどでは、そうした状況が多数報告されている。そして、今日youtube(一月万冊)でいっていたのだが、詐欺がかなり横行しているというのである。いまだに下水道の復旧は遅々としているのだが、それを悪用して、実際に工事などやらないのに、前金という形で集金したり、工事をやっても形ばかりで、実際の技術をもっていないような人たちがいいかげんな作業でごまかし、かえって迷惑な結果になっていることが、少なくないというのである。そして、今後、下水道の工事が始まる関西万博が職人たちを大量に集めるだろうから、能登の被災地の復旧は本当に暗い状況だというのである。
 そして、避難所のことも大分話題になった。今や、少なくとも先進国においては、災害による避難者のプライバシーが守られるような体制が、避難所でとられるのが常識になっているが、能登の避難所は、あいかわらずのごろ寝状態が多いという。
 台湾でも大きな地震があったが、その対策をテレビでみたが、完全に日本は立ち遅れていることを確認させられた思いである。
 復興の経済力も十分でないし、犯罪も見逃せないほどだという。

 次に感じるのが、関西万博の醜態である。おそらく、このままいけば来年開催されるのだろうが、世界に対して恥をさらすことになるだろう。これほど馬鹿げた催しは、おそらく戦後日本の歴史のなかで、はじめてのことだろう。もともと、万博が目的ではなく、カジノ建設のための手段として計画されたのだから、うまくいっていないのも当然なのかもしれないが、しかし、このような無惨な状況になっている日本主催の行事はなかったことは確実だ。
 当初の予定されたが、実現しない部分がかなりでてきていること。本格的なパビリオンは当初の3分の2になること(それも現在の希望的見方であるが)、予算が当初と比較にならないほど、膨らんでいること、そして、予定された建物ができない部分に空きスペースができ、おそらく、まともな活用がなされないこと、交通機関があまり整備されない状況となるはずなので、観客たちがかなり歩かねばならないこと(だいだい夏場が中心の開催だから、熱中症で倒れる人がかなり出るに違いない。)、きちんとした水洗トイレが完備されそうにないこと、そして、最も危惧されるのは、メタンガスが爆発する危険性があること、等々。他にもいくつかあるに違いない。そして、驚くべきことに、運営の責任にあたる人たちが、情報をださず、こうした不都合が、さまざまなひとたちの告発によって知られるようになり、どうしても否定できない状況になってしぶしぶ認めるような、隠蔽体質をもっており、それがますます事態を悪化させていることである。
 東京オリンピックもかなり問題があったが、それでも、コロナなどの流行に見舞われたが、なんとか競技は終えることができた。そして、必要な建物ができていないというようなこともなかった。
 しかし、関西万博は、開催日がきても、確実に工事が終了せずに行われているに違いない。そして、これだけ悪い評判が拡散しているから、運営費を賄うことになるはずの入場者は、かなり少なくなるだろう。私は、近所に住んでいたとしても、絶対に行かない。
 東京オリンピックは汚職にまみれていて、事後に逮捕者が続出したが、関西万博も、検索が機能すれば、そうなることは間違いない。

 そして、政治の腐敗である。あれだけの裏金問題がおきたにもかかわらず、政治家はほとんど刑事責任を問われていない。政治資金規正法や税法に違犯している、列記とした犯罪であるにもかかわらずである。

 先進国である条件として、民主主義であることは最も重要であるように思われる。そして、民主主義であることの重要な要素として、政治の透明性がある。残念ながら、政治的透明性の国際比較において、日本は、かなり順位が低い。そして、そういう事態は安部内閣以降特に顕著になった。その典型は、嘘にまみれた原発安全神話である。これまで何度か書いたが、福島原発の危険性は、既にずっと以前から指摘されていたのであるが、第一次安部内閣のときに、共産党によって、大地震が起きたとき、電源が失われる危険性が指摘され、改善が必要ではないかと質問されたのに対して、当時の安倍晋三主張が、その必要はないと突っぱねたのである。このとき、安部内閣が真摯に事実に向き合い、改善策をとっていれば、あの福島原発事故は防げた可能性があった。それを不可能にしたのは、政治家や経済界の無責任体制であり、政治の隠蔽体質だったのである。
 もうひとつ、現在進行形のことをあげれば、リニア新幹線である。リニア新幹線に待ったをかけていたのは川勝前静岡県知事であり、そのことによって、川勝氏は大いに批難されており、失脚の背景になっていたと考えられる。しかし、川勝氏が指摘していた水問題だけではない環境破壊問題は、決して静岡県だけのことではなく、他県でも多々存在しており、住民たちは苦しめられているのである。実際に、工事が進められている地域の周辺では、住民たちの生活が理不尽に規制されている声を聞いている。しかし、メディアはそれを取り上げているようには思われない。
 さらに、リニア新幹線の問題は、収益性にもある。最近、採算がとれないに違いないという指摘が専門家からなされているが、常識的に赤字になることは十分に予想される。専門家でなくてもわかる。東京大阪間は、現在空路と新幹線、そして東名・名神高速道路が既に存在している。そこにリニア新幹線が割り込むわけである。日本は人口減少社会であるから、いくらこの東京大阪間の移動者が多くても、全体としては減少していく。しかも、ビジネス上の移動は、ネットワークの発展によって、不要になる部分が増大するはずである。会議は、まるで「どこでもドア」が実現するようなもので、移動が不要になるのである。そもそも、ほとんどがトンネルである移動手段を利用する人は、どういう人だろうか。それは仕事でどうしても速く移動しなければならない人だろう。しかし、そういうひとこそ、指導しないで仕事が可能になれば、利用しなくなる。そして、観光客は、一度は利用するかもしれないが、リピーターにはならないだろう。
 中国の高速鉄道網がほとんどが赤字路線になっていて、国家的重荷になっているという記事があったが、リニア新幹線もそれに近いものになることは、ほぼ間違いないように思われる。先進的技術と考えていたものが、実は社会的発展とは相いれないものになっていることが、わかっているのに、既に引き返すことができない状況になっているといえる。成田新幹線という鉄道が、着工されたが途中で頓挫し、すっかり工事された部分も跡形なく消滅していることを知っているひとは少ないに違いない。

 こうなってしまった要因として、考えられること、そして、打開策を私の考えられる範囲で次回書いてみる。

途上国からの脱出12024年05月11日 16:46

 先進国を脱落して、途上国なみになってしまった日本は、どうやったら脱却できるのか。最も、世界帝国から脱落して、かつてのような影響力をもてなくなったイギリスのように、老熟した国家として生きていくという手もあるかも知れない。しかし、やはり、それなりの力がなければ、成熟した状態を保つことも難しくなっていくに違いない。
 私が考えることの基本は、「能力主義」を社会のなかに貫徹していくことだと思っている。尤も能力主義などというと、私のような教育学者の間では、驚かれるに違いない。というより、反発されるだろう。というのは、リベラルな教育学では、能力主義こそ、日本の教育を息苦しく、子どもたちを圧迫してきた元凶であると理解されてきたからである。
 私自身、団塊の世代だから、日本の歴史のなかで空前の受験戦争にあった世代である。なにしろ同世代人口が極めて多く、まだ大学進学率などは低かった時代だが、それだけ大学の数も少なく、苛烈な競争があったわけだ。そして、そうした競争を強いることで、人材育成しようとしたのが当時の政策だった。そのなかで、競争主義=能力主義と解釈され、能力主義は否定の対象となってきた。

 確かに、学校教育のなかでは、競争が、特定の能力の競い合いがあり、その能力の高低で、進学が決まっていくシステムになっていた。いまや大学全入時代だから、大分様変わりしているが、それでも中学受験などは、そうした面が残っている。
 
 しかし、この能力競争は、極めて狭い「能力」が対象であり、人間のもつ幅広い能力が、それぞれの個性に応じて尊重されていたわけではない。かつて高校の知名度をあげ、多くの受験生を獲得するためには、東大合格者を増やすか、甲子園に出場することだ、といわれていた時期がある。いまは、その要素がもう少し多くなっているが、基本構造は変わらない。人間のもつ多様な能力を多様に伸ばすという教育にはなっていないのである。
 そして、それでも、能力による競争があり、能力を伸ばすことで結果をだせる部分が、学校教育には歪んだ形ではあれ、存在するが、社会にでると、多くの領域で、能力はかならずしも尊重されていない。あるいは、本来求められるはずの能力よりは、もっと異なる、生産的とはいいがたい力が人生を左右するような面がめだつ。そして、能力などは、ほとんど考慮されていないのではないかと思われるのが、日本を動かしている政治家の世界である。世襲議員が国会の有力議員を占めるようになって、おそらく30年くらいはたつ。私が若かったころは、首相や有力大臣は、世襲議員はほとんどいなかったように思う。それは、戦争によって、有能な人材が失われたことも影響しただろう。評価はさておき、有力政治家であったといえる吉田茂、岸信介、佐藤栄作、池田隼人、田中角栄、中曽根康弘などは、世襲議員ではなく、彼らの子ども世代、孫世代が世襲議員になっていったのである。そして、第一世代の政治家たちは、孫世代とは、なんと政治家としての力量に違いがあることだろう。
 世襲が重要な要素となっていることは、即ち能力は二の次だということに他ならない。つまり、最も高い能力をもったひとたちでなければならない政治家たちが、能力を問題にされず、血筋で地位をえていくという、極めて歪んだ状況になっている。
 政治家の世襲制の弊害をなくす方法は、理屈上は明確であり、難しくない。小選挙区制を前提にすれば、親・親族の選挙区での立候補を禁ず場よい。英吉利ではそうなっていると聞いている。つまり、まったく新しく選挙民の支持をえていく必要があり、そこで政治家としての力量が試されるということだ。まったく別の方法としては、完全な比例代表制を導入することだ。これは個人の選択ではないので、政策を争うことになり、選挙区そのものが存在しないので、世襲制の意味はほとんどなくなる。
 ただし、制度の変更は現在の政治家が決めることであり、現在の政治家は世襲議員が権力の多くを握っているから、自らの利益をなくすような変更をすることは、かなり困難であることは間違いない。やはり、社会全体が、能力主義を軸とした人材活用になっていくことが必要なのだろう。

 では教育の世界で、歪んだ能力主義ではなく、個々人の能力を最大限に伸ばすような体制には、どのような変革が必要なのだろうか。
 考えていけば、いくらでもあるが、ここでは一つだけあげておきたい。
 それは「入学試験制度の廃止」である。後藤道夫他編『競争の教育から共同の教育へ』(青木書店)は、競争の教育の克服をめざした本であるが、私にとってとても納得のできないことは、入学試験について、まったく触れていないことである。日本の教育の大きな問題が、競争主義によって、発達が歪められていることにあることは、自明であり、同意できるが、そうした競争主義を現実のものとして機能させる、最も大きなシステムである入学試験を問題にせずに、単に理念的に共同の教育を押し出しても、ほとんど抽象論にすぎない。入学試験制度は、改善が何度も測られてきたが、その都度、かえって競争を激化させてきた歴史がある。現在、大学入試は、かつてほど激烈ではないが、それは制度の改善によってではなく、少子化によってもたらされたものである。逆に政策側は、競争システムの維持・強化にやっきになっているといえるのである。
 だから、現在のような入試制度は廃止しなければならないし、少子化が進行している現在は、その実現性があるといえるのである。では、どのようなシステムにしていけばよいのか。それを中心に次回述べたい。

途上国からの脱出22024年05月17日 21:33

 前回、教育の分野では、とにかく入試を廃止と提起した。
 いや入試こそ、能力主義が実施されていて、入試をやめたら、青年は勉強しなくなるし、競争もおこなわれず、能力が評価されなくなるのではないか、という疑問が生じるかも知れない。
 しかし、入試こそ、若者を勉強嫌いにするものであり、かつ能力を正当に評価しているものでもないのである。入試競争を梃子にして、子どもたちを勉強に駆り立ててきたのが、日本の教育の特徴であるが、現在は大学ですら、とくに選ばなければ必ず入れる大学全入の時代になっている。だから、一部の超難関大学以外は、それほど勉強しなくても入学できる時代である。だから、私が大学に勤めていたときにも、高校時代とにかく勉強に明け暮れた、などという学生はほとんどいなかった。むしろ高校生活を謳歌していた者が多い。だから、大学にはいっても勉強しない学生はいるが、逆に、大学にはいって、好きな勉強分野を見つけると、一生懸命勉強し、その面白さに気付く者も少なくないのである。
 入試は、学力偏差値を争うもので、極めて狭い「能力(学力)」の有無を見るのが基本である。しかし、人の能力は、学力以外にも実に多様である。そして、人は自分の気に入った分野の能力を伸ばしたいと思うときには、苦労もいとわず努力ができるのである。大谷翔平や藤井聡太、HIMARIなど、日本の若いひとたちから、とてつもない天才が育っているが、彼らはいずれも学校秀才として、学力で勝負しているわけではない。むしろ、それに縛られずに自分のやりたいことを徹底してできる環境があり、そこで、よけいな受験圧力を受けることなく、自由に羽ばたくことができたひとたちである。
 だから、やはり、日本の人材が、最大限活用される社会にするためには、入試のように、狭い能力の獲得のために、大多数の若者を駆り立てるような社会システムは廃止するのがいいのである。いや、廃止しなければならない。

 私が入試廃止論を聞いたのは、大学の「教育法」の授業を非常勤講師として担当していた兼子仁先生からだった。私はめずらしく、兼子先生の授業はほぼ出席したのだが、その講義の終りのほうに、日本の教育にとってぜひ必要なこと、それはできるだけ早く入試制度を廃止することです、と語ったのである。既に半世紀も前のことで、それから受験競争はどんどん厳しくなっていったのだから、当時、まさかそんなことが可能だとは考えられもしなかったのである。しかし、大学の教師になって、第一次大戦のヨーロッパの学校制度改革の次に、戦後、特にオランダの学校制度を研究するようになって、日本の入試制度が、いかに特殊なものであるかを知ったことがきっかけになって、本気で入試制度そのものの廃止を考えるようになった。これまで何度も書いたことだが、日本の入試制度は、欧米の進学制度と比べて、大きく異なっている。
 欧米のほとんどの進学制度は、在籍した学校での成績が基本であり、進学したい先の上級学校による学力試験が課されるところは、ほとんどないといってよい。しかし、日本では、入試とは、かならず進学する上級学校が選抜試験をおこなうものである。これが学習にあたえる影響は極めて大きい。欧米のようなシステムだと、学校の勉強をしっかりやって、よい成績をとれば、上級学校に行けるのに対して、日本では、むしろ学校の勉強はほどほどにして、自分の入試科目の勉強、しかも出願校の出題傾向にそった勉強をしなければならず、それは学校での学習とは離れていることが少なくない。中学受験の勉強などは、その典型である。難しい中学を受験する子どもは、学校の勉強はおろそかにして、宿題などやらない者もいるのである。そして、親から無理に受験を強いられ、思ったように成績が伸びない子どもが、教室の問題児になっていることも珍しくないのである。
 もし、日本も上級学校による選抜試験を廃止して、学校での成績を主に判断される進学制度に切り換えれば、子どもたちは、しっかりと学校での勉強に取り組むようになるはずである。そうすれば、教師も教えがいがでてくるし、相乗効果で意欲的な若者が育っていくに違いない。

 しかし、そんなことをしたら、必ず一部人気大学、高校に集中するだろう、そうしたら収拾がつかなくなる、という反論が出てくるに違いない。
 まず、現在でも、かつての難関校も、それほど魅力をもち、多くの受験生が詰めかけている状況ではなく、入れるならそこでなくてもいい、という気持の高校生も多くなっているのである。そして、そうした平均化を促進することも大切なのである。欧米の国立・公立大学は、それほどの格差はなく、トップ校といわれる私立の大学は、一部である。しかし、ハーバードでも、日本のような入試があるわけではない。学校が、ピラミッド型の一流、二、三流などにわかれているよりは、そうした上下よりは、強い領域などで個性を出しているほうが、国全体としての教育効果は高いのである。そして、どうしても偏ってしまう場合の対処はいくつかある。
 ひとつは、領域で選択させ、第三志望くらいまでを提出させて、希望が多い場合には、なんらかの選考をする。たとえば、地域の考慮等。
 あるいは、大学進学の資格試験を実施し、(現在の共通テストをそうする)進学最低規準を設定するとともに、大学として、自分の学科に進学するためには、これこれの科目を何点以上とること、というような条件を設定することを可能にする。その場合でも、複数の希望を条件にすることで、特定大学に集中して、定員の何倍をも受け入れざるをえないということは回避できるだろう。
 そんな複数志望制などにしたら、東京都の群制度の失敗を繰り返すという危惧があるかも知れないが、私立大学も、そうした一環に組み入れることで、その危惧はなくなる。東京都は、都立高校だけでそうしたから、私立高校に地位を奪われてしまったのである。
 日本の学校教育の最も大きな問題は、学校の勉強をすることで、勉強好きになるような子どもが極めて少ない、ほとんどいないということなのだ。しかし、教師がいくら努力しても、小学校時代から、既に受験の浪が押し寄せているのだから、教師の努力によって克服できる状況ではないのである。制度を変えねばならない。(つづく)