途上国からの脱出22024年05月17日 21:33

 前回、教育の分野では、とにかく入試を廃止と提起した。
 いや入試こそ、能力主義が実施されていて、入試をやめたら、青年は勉強しなくなるし、競争もおこなわれず、能力が評価されなくなるのではないか、という疑問が生じるかも知れない。
 しかし、入試こそ、若者を勉強嫌いにするものであり、かつ能力を正当に評価しているものでもないのである。入試競争を梃子にして、子どもたちを勉強に駆り立ててきたのが、日本の教育の特徴であるが、現在は大学ですら、とくに選ばなければ必ず入れる大学全入の時代になっている。だから、一部の超難関大学以外は、それほど勉強しなくても入学できる時代である。だから、私が大学に勤めていたときにも、高校時代とにかく勉強に明け暮れた、などという学生はほとんどいなかった。むしろ高校生活を謳歌していた者が多い。だから、大学にはいっても勉強しない学生はいるが、逆に、大学にはいって、好きな勉強分野を見つけると、一生懸命勉強し、その面白さに気付く者も少なくないのである。
 入試は、学力偏差値を争うもので、極めて狭い「能力(学力)」の有無を見るのが基本である。しかし、人の能力は、学力以外にも実に多様である。そして、人は自分の気に入った分野の能力を伸ばしたいと思うときには、苦労もいとわず努力ができるのである。大谷翔平や藤井聡太、HIMARIなど、日本の若いひとたちから、とてつもない天才が育っているが、彼らはいずれも学校秀才として、学力で勝負しているわけではない。むしろ、それに縛られずに自分のやりたいことを徹底してできる環境があり、そこで、よけいな受験圧力を受けることなく、自由に羽ばたくことができたひとたちである。
 だから、やはり、日本の人材が、最大限活用される社会にするためには、入試のように、狭い能力の獲得のために、大多数の若者を駆り立てるような社会システムは廃止するのがいいのである。いや、廃止しなければならない。

 私が入試廃止論を聞いたのは、大学の「教育法」の授業を非常勤講師として担当していた兼子仁先生からだった。私はめずらしく、兼子先生の授業はほぼ出席したのだが、その講義の終りのほうに、日本の教育にとってぜひ必要なこと、それはできるだけ早く入試制度を廃止することです、と語ったのである。既に半世紀も前のことで、それから受験競争はどんどん厳しくなっていったのだから、当時、まさかそんなことが可能だとは考えられもしなかったのである。しかし、大学の教師になって、第一次大戦のヨーロッパの学校制度改革の次に、戦後、特にオランダの学校制度を研究するようになって、日本の入試制度が、いかに特殊なものであるかを知ったことがきっかけになって、本気で入試制度そのものの廃止を考えるようになった。これまで何度も書いたことだが、日本の入試制度は、欧米の進学制度と比べて、大きく異なっている。
 欧米のほとんどの進学制度は、在籍した学校での成績が基本であり、進学したい先の上級学校による学力試験が課されるところは、ほとんどないといってよい。しかし、日本では、入試とは、かならず進学する上級学校が選抜試験をおこなうものである。これが学習にあたえる影響は極めて大きい。欧米のようなシステムだと、学校の勉強をしっかりやって、よい成績をとれば、上級学校に行けるのに対して、日本では、むしろ学校の勉強はほどほどにして、自分の入試科目の勉強、しかも出願校の出題傾向にそった勉強をしなければならず、それは学校での学習とは離れていることが少なくない。中学受験の勉強などは、その典型である。難しい中学を受験する子どもは、学校の勉強はおろそかにして、宿題などやらない者もいるのである。そして、親から無理に受験を強いられ、思ったように成績が伸びない子どもが、教室の問題児になっていることも珍しくないのである。
 もし、日本も上級学校による選抜試験を廃止して、学校での成績を主に判断される進学制度に切り換えれば、子どもたちは、しっかりと学校での勉強に取り組むようになるはずである。そうすれば、教師も教えがいがでてくるし、相乗効果で意欲的な若者が育っていくに違いない。

 しかし、そんなことをしたら、必ず一部人気大学、高校に集中するだろう、そうしたら収拾がつかなくなる、という反論が出てくるに違いない。
 まず、現在でも、かつての難関校も、それほど魅力をもち、多くの受験生が詰めかけている状況ではなく、入れるならそこでなくてもいい、という気持の高校生も多くなっているのである。そして、そうした平均化を促進することも大切なのである。欧米の国立・公立大学は、それほどの格差はなく、トップ校といわれる私立の大学は、一部である。しかし、ハーバードでも、日本のような入試があるわけではない。学校が、ピラミッド型の一流、二、三流などにわかれているよりは、そうした上下よりは、強い領域などで個性を出しているほうが、国全体としての教育効果は高いのである。そして、どうしても偏ってしまう場合の対処はいくつかある。
 ひとつは、領域で選択させ、第三志望くらいまでを提出させて、希望が多い場合には、なんらかの選考をする。たとえば、地域の考慮等。
 あるいは、大学進学の資格試験を実施し、(現在の共通テストをそうする)進学最低規準を設定するとともに、大学として、自分の学科に進学するためには、これこれの科目を何点以上とること、というような条件を設定することを可能にする。その場合でも、複数の希望を条件にすることで、特定大学に集中して、定員の何倍をも受け入れざるをえないということは回避できるだろう。
 そんな複数志望制などにしたら、東京都の群制度の失敗を繰り返すという危惧があるかも知れないが、私立大学も、そうした一環に組み入れることで、その危惧はなくなる。東京都は、都立高校だけでそうしたから、私立高校に地位を奪われてしまったのである。
 日本の学校教育の最も大きな問題は、学校の勉強をすることで、勉強好きになるような子どもが極めて少ない、ほとんどいないということなのだ。しかし、教師がいくら努力しても、小学校時代から、既に受験の浪が押し寄せているのだから、教師の努力によって克服できる状況ではないのである。制度を変えねばならない。(つづく)

途上国からの脱出12024年05月11日 16:46

 先進国を脱落して、途上国なみになってしまった日本は、どうやったら脱却できるのか。最も、世界帝国から脱落して、かつてのような影響力をもてなくなったイギリスのように、老熟した国家として生きていくという手もあるかも知れない。しかし、やはり、それなりの力がなければ、成熟した状態を保つことも難しくなっていくに違いない。
 私が考えることの基本は、「能力主義」を社会のなかに貫徹していくことだと思っている。尤も能力主義などというと、私のような教育学者の間では、驚かれるに違いない。というより、反発されるだろう。というのは、リベラルな教育学では、能力主義こそ、日本の教育を息苦しく、子どもたちを圧迫してきた元凶であると理解されてきたからである。
 私自身、団塊の世代だから、日本の歴史のなかで空前の受験戦争にあった世代である。なにしろ同世代人口が極めて多く、まだ大学進学率などは低かった時代だが、それだけ大学の数も少なく、苛烈な競争があったわけだ。そして、そうした競争を強いることで、人材育成しようとしたのが当時の政策だった。そのなかで、競争主義=能力主義と解釈され、能力主義は否定の対象となってきた。

 確かに、学校教育のなかでは、競争が、特定の能力の競い合いがあり、その能力の高低で、進学が決まっていくシステムになっていた。いまや大学全入時代だから、大分様変わりしているが、それでも中学受験などは、そうした面が残っている。
 
 しかし、この能力競争は、極めて狭い「能力」が対象であり、人間のもつ幅広い能力が、それぞれの個性に応じて尊重されていたわけではない。かつて高校の知名度をあげ、多くの受験生を獲得するためには、東大合格者を増やすか、甲子園に出場することだ、といわれていた時期がある。いまは、その要素がもう少し多くなっているが、基本構造は変わらない。人間のもつ多様な能力を多様に伸ばすという教育にはなっていないのである。
 そして、それでも、能力による競争があり、能力を伸ばすことで結果をだせる部分が、学校教育には歪んだ形ではあれ、存在するが、社会にでると、多くの領域で、能力はかならずしも尊重されていない。あるいは、本来求められるはずの能力よりは、もっと異なる、生産的とはいいがたい力が人生を左右するような面がめだつ。そして、能力などは、ほとんど考慮されていないのではないかと思われるのが、日本を動かしている政治家の世界である。世襲議員が国会の有力議員を占めるようになって、おそらく30年くらいはたつ。私が若かったころは、首相や有力大臣は、世襲議員はほとんどいなかったように思う。それは、戦争によって、有能な人材が失われたことも影響しただろう。評価はさておき、有力政治家であったといえる吉田茂、岸信介、佐藤栄作、池田隼人、田中角栄、中曽根康弘などは、世襲議員ではなく、彼らの子ども世代、孫世代が世襲議員になっていったのである。そして、第一世代の政治家たちは、孫世代とは、なんと政治家としての力量に違いがあることだろう。
 世襲が重要な要素となっていることは、即ち能力は二の次だということに他ならない。つまり、最も高い能力をもったひとたちでなければならない政治家たちが、能力を問題にされず、血筋で地位をえていくという、極めて歪んだ状況になっている。
 政治家の世襲制の弊害をなくす方法は、理屈上は明確であり、難しくない。小選挙区制を前提にすれば、親・親族の選挙区での立候補を禁ず場よい。英吉利ではそうなっていると聞いている。つまり、まったく新しく選挙民の支持をえていく必要があり、そこで政治家としての力量が試されるということだ。まったく別の方法としては、完全な比例代表制を導入することだ。これは個人の選択ではないので、政策を争うことになり、選挙区そのものが存在しないので、世襲制の意味はほとんどなくなる。
 ただし、制度の変更は現在の政治家が決めることであり、現在の政治家は世襲議員が権力の多くを握っているから、自らの利益をなくすような変更をすることは、かなり困難であることは間違いない。やはり、社会全体が、能力主義を軸とした人材活用になっていくことが必要なのだろう。

 では教育の世界で、歪んだ能力主義ではなく、個々人の能力を最大限に伸ばすような体制には、どのような変革が必要なのだろうか。
 考えていけば、いくらでもあるが、ここでは一つだけあげておきたい。
 それは「入学試験制度の廃止」である。後藤道夫他編『競争の教育から共同の教育へ』(青木書店)は、競争の教育の克服をめざした本であるが、私にとってとても納得のできないことは、入学試験について、まったく触れていないことである。日本の教育の大きな問題が、競争主義によって、発達が歪められていることにあることは、自明であり、同意できるが、そうした競争主義を現実のものとして機能させる、最も大きなシステムである入学試験を問題にせずに、単に理念的に共同の教育を押し出しても、ほとんど抽象論にすぎない。入学試験制度は、改善が何度も測られてきたが、その都度、かえって競争を激化させてきた歴史がある。現在、大学入試は、かつてほど激烈ではないが、それは制度の改善によってではなく、少子化によってもたらされたものである。逆に政策側は、競争システムの維持・強化にやっきになっているといえるのである。
 だから、現在のような入試制度は廃止しなければならないし、少子化が進行している現在は、その実現性があるといえるのである。では、どのようなシステムにしていけばよいのか。それを中心に次回述べたい。

教員処遇改善50年ぶり?2024年04月15日 21:49

 ヤフーニュースに共同通信配信の記事「教員処遇改善、50年ふり増額へ 月給上乗せ10%以上案」という記事が掲載されている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/56ef3cf91cea5e893d9af2878be9e9eb439b69f7
 公立学校の教員に対しては、残業手当を支給しないかわりに、基本給4%の特別手当を支給し、その代わり、残業をさせる業務を限定するという形になっている。その4%を10%以上にあげるという案が検討されているということだ。
 私自身は、残業手当という方式も、また、この教職特別手当の方式にも賛成ではなく、別の方式を構想しているが、とりあえず、現行制度を前提に考えれば、あげることは反対ではない。近年の教職に対するあまりに不人気な状況が、文科省すら危機感をいだかせているということだろう。
 しかし、この手当値上げによって、教師の過重労働が改善されるとは思えない。過重労働は、労働量そのものを削減することによってしか改善されないからである。当たり前のことだが。逆に、特別手当をあげたのだから、決められた残業はもっとやれ、などということになりかねない。
 現在の教師の仕事のなかには、本来教師がやる必要のないこと、他の職種の教育労働者がやるべきことがたくさんあるということだ。たとえば、授業を妨害するような生徒がいることは事実であり、担当教師がある程度対応する必要があるとしても、ある程度以上の妨害行為に対しては、私は管理職が引き受けるべきであると思うが、ほとんどが担任教師に押しつけられている。また、保護者のクレーム対応なども、担任であつかえる程度を超えている場合がしばしばあるが、それも管理職が対応を引き受けるべきだろう。文科省は、これまで一貫して、校長の権限を強化する政策をとってきたが、校長が担うべき責任もきちんと行わせるような対応を十分にはとってこなかった。
 また、教委や文科省から、実施を依頼される各種調査なども、管理職がかなりの部分を引き受けるべきであるが、担任教師に押しつけられる傾向がある。
 こうしたことは、いくら手当があがっても、仕事の量が減るわけではなく、過重労働を改善しないことは、明らかであろう。

 では、どうしたら改善できるのか。やはり、授業関連以外の仕事をしたことに対しては、適切な報酬を与えることが必要である。方法としては、いわゆる残業手当と、職務手当というふたつのやり方がある。企業の一般的な形態としては、残業時間に基づく残業手当だろう。しかし、これは、労働者が基本的に勤務時間を基準にして給与が計算されるシステムだからであろう。もちろん、その前に職務内容を前提にした勤務時間だろうが、教職の場合には、通常の業務(授業)と、それ以外のさまざまな仕事の「職務内容」を同一の時間で計るのは無理がある。一時間の授業を行うのに、一時間を費やすだけではなく、その準備やその授業で課した宿題の処理など、一時間の授業といっても、実はかなりの労働がなされており、また、経験や能力などによっても、準備等にかなり差がでる。
 それに対して、校務分掌による仕事、たとえば委員会に出る、行事の指導をする、集団宿泊行事等々、その実質的な労働、準備等々がみな違うのである。
 そして、こうした教師の仕事を時間で割り切ることは、合理的でない。ベテラン教師と新人教師とでは、同じ授業をするための準備に、かなりの違いがあることは自明のことだろう。
 したがって、教師の中心的な仕事である「授業」については、基本的なノルマのコマ数を決め、それを基本給として計算し、それ以上の授業、そして、さまざまな校務分掌については、それぞれに手当の額を決めて、引き受けている校務分掌(仕事)の手当を受け取るという方式が、教師の仕事のスタイルにはもっとも適合しているように思うのである。
 教職には、企業労働者のような残業手当の方式が適切でないことは、たとえば、授業準備をどこで行うかという問題を考えてもわかる。
 授業準備は、学校で行えるのがよいだろうが、家庭で行う人も多数いるだろう。学校で行えば残業手当の対象となり、家庭でやれば、そうではないというのは、やはりおかしな気がする。いろいろなところでそうした不合理が生じるに違いない。

 そして、授業以外の校務分掌や仕事に手当を出す方式であれば、むやみやたらとそうした仕事を増やすことはできなくなる。したがって、過重労働の改善にも有益と考えられるのである。簡単にはいかないが、教職の特殊性と賃金形態については、もっと深く掘りさげて考えるべきなのである。

読書ノート『国体の本義』2024年03月19日 21:34

 五十嵐顕著作集準備のために、様々な本を読んでいるが、『国体の本義』もその一環であった。五十嵐は、戦争をどうして防ぐことができなかったのか、とずっと問い続けたわけだが、『国体の本義』は、国民の意識をどのように形成してきたのかを探る上で、非常にわかりやすい文献であるといえる。もちろん、この本によって、新たな国民形成が行われるようになったというよりは、それまで営々と築いてきた国民教化の内容を体系的整理して示したものだろう。
 最初に「大日本国体」という章では、建国神話が書かれ、日本は国土ができてからずっと神代から天孫降臨し、天皇が一貫して統治してきた歴史として描かれ、様々な外来思想(仏教、儒教、西洋文化等々)が学ばれたが、日本的な「和」の精神で日本化してきた。つまり、国体とは、現人神たる天皇が統治していることであり、これは永遠のものだと強調している。
 その後、建国神話から飛鳥、そして明治に到る歴史の概略が示されるが、常に天皇中心に描かれている。
 そして後半は、明治移行流入した西欧思想の合理主義、個人主義、自由主義、社会主義等々が、日本の国体にはあわない表面的な思想であると批判される。そして、五カ条の御誓文や教育勅語等々の理念が示され、明治天皇の和歌によって、日本精神が示される。

 私は、主に欧米の教育制度を研究対象にしてきたので、『国体の本義』の全文を読んだことがなかった。ただ、内容そのものはまったく目新しいものではなく、さまざまな文献に示されているから知っていることばかりだったが、こうしてまとめて読んでみると、一番不思議に感じたのは、この文章を書いたひとたちの精神状況は、どんなものだったのだろうかということだった。もちろん、『国体の本義』編纂のために集められたひとたちは、当時において知的レベルの高いひとたちだったはずであり、たとえば、吉田熊治などは、当時最も権威のある教育学者だった。現在でもある程度影響力のある和辻哲郎もはいっている。だから、書かれていることについての現実的妥当性については、間違いなく正確に判断できるひとたちであろう。しかし、ここに書かれていることは、間違いなく神話的創作であり、事実とはまったく異なることが、古代だけではなく、明治に到るまでいたるところに書かれている。
 万世一系の天皇がずっと日本を統治してきたという歴史が書かれているわけだが、古事記と日本書紀によって建国が書かれて、それは「事実」として扱われている。もちろん、筆者たちは、それを歴史的事実として認識していたのでないことは明らかであるから、なんらかの形で、「事実としての歴史」を学校で教えることについて、考えるところがあったはずである。
 国民を二つに分け、真実を教える上層と、真実など知る必要がないとする下層のものに応じた対応であると割り切ることはできたとしても、それならば、この『国体の本義』全体として流れる、天皇の前にはすべての者が平等で、「和」の精神で協調する存在であるという建前に反することになる。

 歴史的事実に反することも相当書かれている。天皇が万世一系ということが、血筋が継続しているというだけではなく、平和的に系統がつながって生きたことも含意していたわけだが、当時ですら、壬申の乱、保元・平治の乱、鎌倉後期の二つの系統の相剋と妥協、南北朝の対立など、天皇の内部的争いは何度も生じてきたことは、知られていたはずである。
 また、日本人は、主人に対して忠実であることが、歴史的に常に実現していたかのように書いているが、源平対立、鎌倉末期から室町前期、そして戦国時代は、裏切りや下克上は珍しくなかったことも周知の事実である。

 明治以前の歴史は、かなり史実に反することが書かれており、そして、それは筆者たちも認識していることだったろう。
 『国体の本義』が作成されたのは、天皇機関説事件のあと、国体明徴が宣言され、その実質化として、教育をとおして、国体の認識を徹底させることが目的だったから、当然、天皇絶対の価値観、西欧的価値観の排撃が大前提だったから、執筆者としてのメンバーに入ることを承知した時点で、神話的歴史が書かれ(当時の国定教科書はその立場で書かれていた)、自由主義、社会主義、合理主義などが、否定されることは明白であった。それを承知での参加だから、悩むことなどなかったのだろうか。
 紀平正美のような国体積極肯定論者は、矛盾を感じないのかも知れないが、吉田熊次や和辻哲郎が、疑問を感じなかったはずはない。
 次の課題として、心底時局に迎合していたわけではないが、『国体の本義』の編纂に参加していたひとたちの著書で、何か書かれているかを探してみることにしよう。

小学校の卒業文集廃止の動きについて2024年03月14日 21:52


 確かに、これまでは卒業文集なるものを作成するのが普通だった。少なくとも小学校においては。中学校や高校ではなかったと思うし、大学では当然ない。しかし、小学校でも卒業文集を廃止する動きがひろがっているのだそうだ。
「小学校で広がる 「卒業文集」廃止の動き 背景に先生の業務過多も保護者たちの反応は?」
https://news.yahoo.co.jp/articles/d199210f44f58bc44436695de04f3a856d05ffc5

 結論からいえば、廃止はごく自然なことだと思う。
 私が大学を定年で退職したのはコロナが拡大し始めた2020年だが、その時に、学部で独自に作成していた卒業アルバムの作成を止めた。大学が作成している卒業アルバムはつづいていると思うが、私の学部では学部独自のものが中心だった。何故、止めることになったかといえば、ほしがる学生が極めて少なくなったからである。当然欲しい人だけに配布するので、有料である。しかし、お金をとられるよりも、そもそもアルバムという存在に、あまり関心がなくなっていることを感じた。彼等にとって、写真はアルバムなどでみるものではなく、スマホの画面でみるものなのだ。お互いに親しい者同志が写真をとりあって、それをスマホに入れておくほうが、写真を保存してみる上では、ずっと便利である。だから、わざわざ重い紙に印刷されたアルバムなど欲しくないのだ。

 若い世代ほど、紙媒体よりはデジタル媒体で処理することに慣れているし、そのほうが便利であることを感じている。だからアルバムにせよ、文集にせよ、若い世代と中年以上の世代とは感じ方。が違う。紙に印刷された媒体ではなく、ネット上、あるいはパソコン、スマホに残された形で保存するほうがしっくりくるという感覚である。そういう世代が育っているのだから、そうした感覚に合わせて、「思い出」の形も変えていけばよい。
 ただ、記事になっている卒業文集の廃止は、そうした子どもたちの感覚の変化に応じたものではなく、あまりに過重な労働を強いられている教師たちが、更にたいへんな時間と労力が必要な卒業文集の作成から逃れたいという願望が原因である。ということは、受け取る側の感覚と、作成する側の願いとが一致することになる。だから、自然な流れだと思うのである。

PTAからの卒業記念2024年03月08日 21:31

 PTAから卒業生に記念品を贈る慣習は、いまでも残っているようだ。大分前(10年以上前)に、大きな議論になったことがあった。それと同じ議論が繰り返されているのだが、その結論に関しては、多少の力点の変化が起きているようだ。
https://mainichi.jp/articles/20240227/k00/00m/040/333000c
 議論というのは、PTA会員でない保護者の子どもにも、卒業記念を贈る必要があるか、あるいは逆に贈らないのは差別ではないか、というようなことだった。これは、PTAが事実上、入会義務があるように思われ、実際に全員が会員となっている場合には、起きない議論である。しかし、PTAは任意団体であり、必ずしも入会する必要はないことが、次第に認識されるようになると、会員にならない保護者が出てくる。そうしたなかで、PTAとして、卒業生に贈る記念品を、会員ではない保護者の子どもを対象にするかは、当然議論になってくる。というのは、記念品は当然のことながら、PTA会費から出されるから、会費をだしていない人に贈る必要はないという意見が出てくることになる。しかし、親がPTAに入るかどうかは、子どもの意志ではないし、それによって、学校における対応が異なってしまうのは、当然教育の場としてはふさわしくない。だから、親の問題を子どもに向けるなという意見が出るのもまた当然といえる。
 今回は、この議論が再燃しているのは、おそらく、当初会員にならない保護者は少数だったので、非会員の子どもに贈っても、大きな負担にはならなかったが、次第に加入者が減ってくると、PTAとしての負担が目に見えてくるという事情があるのではないだろうか。
 今回、この記事に対するコメントをみると、圧倒的に、会費を出していない保護者の子どもに、記念品を贈らないのは当然である、なぜもらえないかについて、親が子どもにきちんと説明すべきである、というような意見が多かった。

 さて私は以下のように考える。
 第一に、そもそもPTAがこのような記念品を贈る必要があるのかということだ。日本のPTAの歴史は、多くの場合、学校の財政的援助の歴史だった。もちろん、ある時期から、日本の学校は、国際的にも設備、備品などが豊富になっているから、PTAの援助があてにされることはほとんどなくなったといえるが、戦後の貧困状態で新制の義務教育制度が始まって以来、PTAは学校の教育条件を整えるのに、大きな役割を果した。全国のプールの多くは、PTAの寄付でできたともいわれるくらいである。そのために、会費や随時寄付が集められたのである。卒業生への記念品も、そうした一環として行われたといえるだろう。少なくとも、PTAに対して、そうした学校の経済的援助団体と考えることは、適切ではないし、もし、そうした使われ方がしているならば、会費そのものを減額すべきだろう。私は卒業記念品などは不要だと思うのだが、もし、保護者や子どもたちのほとんどがそれを望むのならば、PTAが事務処理を行うとしても、別途その費用を徴集して購入・配布するのがよい。その場合、敢えて望まない場合には、贈る必要もないだろう。その場合には、贈り物を欲するかどうかを選択したのだから、不公正などということはないだろう。
 第二に、PTAの最大の問題は、PTAが保護者全員の意志集約を行って、学校の運営に対して発言する権利をもっている団体ではないという点である。もちろん、保護者だけではなく、生徒も、代表を送って、運営に対する発言権をもっている国は、いくらでもある。その場合、当然その団体は原則的に全員加盟制度であるが、多額の会費をとったり、その人の日常生活にとって負担になるような仕事をしなければならないということはない。日本のPTAの活動は、多くが学校が開かれている時間帯に行われるが、そうした国では、保護者の活動は夜に行われる。
 日本では、教育委員会が指定することによって、外部の人間が学校に対して発言権をもつ運営協議会を設置することがあるが、ここに保護者の団体の代表が参加するわけではない。保護者が参加していたとしても、それは個人として指名されたからであって、保護者団体によって送り出されるわけではない。もし、PTAがそうした発言権をもち、代表をきちんと選んで送り出すようにすれば、日本の学校運営も変ると思うが、そもそもPTAは、保護者の団体ではなく、教師も形式的にははいっているからは、保護者の意志を集約する会ではないのである。
 日本の学校運営は、教育行政当局によって、上からの管理統制が基本になっているから、(そうではないように、ある意味変わっている面もあるが)困難ではあるが、やはり基本的には、構成員が意志を集約し、運営に関わる権限をもつことが、学校をよくするためには必要なのである。

自民党パーティー券問題から考える国民の体質2024年01月01日 20:25

 新年おめでとうございます。昨年、こちらのブログを復活させ、(それまでのブログがPHPのバージョン問題で、機能停止してしまったので)新たにこちらで、いろいろな見解を表明していきたいと思っています。

 昨年の暮れは、自民党パーティー券問題で揺れた。昨年は、大きなできごとが、世界的にも、また国内的にも頻発したが、おそらく今年は、昨年以上の激動の年になるような気がする。もしかしたら、大地震がくるかも知れない。(これは朝書いたが、夕方早速きた。)
 そういうなかで、非常に危ういと思っているのは、政治家を中心として、国民の間にモラル・ハザード現象が拡大しているように見えることである。自民党パーティー券問題は、その象徴的な事例といえる。安倍内閣は、権力維持のためには、国内組織を徹底的に、自分たちに都合のよいように改竄しようとしたが、それに伴って、政治家のモラルが著しく低下していったことは、否定のしようがない。自民党パーティー券問題で、とくに注意すべきは、キックバックの扱い方が違法であることを、十分に認識していたにもかかわらず、それを20年もの間継続してやっていたことである。違法性の認識がないなら、政治家としていかにもお粗末であるが、さすがにそれはない。悪いことをやっているという自覚があったことが、いろいろな点から示されている。
 
 この問題で、私が考えたいと思うことは2点ある。
 第一は、政治には金がかかるというが、それはそういう政治団体だからではないかということだ。キックバックでえた収入を何につかったかは、いろいろな発言があるようだが、だいたいは、自分の選挙区のひとたちに対するさまざまな対応の費用というのが、中心のようだ。ただ、現在は、正規のポスターとか、テレビでの政見放送等々、選挙に必要な必須のアイテムに関しては、公費で賄われることになっているから、選挙区対応といっても、そういう必須のもの以外の部分にあてているということになる。
 一月万冊に出演している今井一氏が、自民党の知り合いに質問したときの回答では、だいたいは飲み食いだということだったそうだ。といっても、自分のための飲み食いではなく、選挙区から人が陳情や挨拶にやってくると、多くの場合、食事でもてなすのだそうだ。陳情なのだから、そんな必要はないと思うが、そういう習慣になっていると、食事がでないと、そのことが不満の種となってしまうのだろう。しかし、私には、そんな行為は、不当な接待のように思われる。
 また、政治に金がかかるという説明に、秘書の問題があげられる。現在では、国会議員1人につき、3人までの公設秘書が保証されている。だが、とても3人では足りないから、私設の秘書を雇うことになる。その分は私費だから、なんとか、自分でその費用を捻出しなければならない、というわけである。
 これは一見もっともそうにみえる。しかし、問題は、そういう行為は「政治」だろうかということだ。政治とは、ある意味、社会的、公的な富の分配だから、政治ではないとはいえない。しかし、単純に、「近い」者に利益を配分し、本当に必要なひとたちには配分しないのであれば、それは、民主主義社会におけるあるべき政治とはいえないだろう。私設秘書が必要といっても、やっていることは、要するに選挙区の住民との接触を保つようなことがほとんどなのではないだろうか。冠婚葬祭などにでかけて挨拶するようなことだ。あるべき配分のありかたを研究・調査するためには、もっと違う活動が必要なはずだ。そして、それは個々人の政治家ではなく、政党としてのスタッフや支持者が知恵をだし、協力していくことで可能になるし、また、それが必要ではないだろうか。実際に、すべての政党が、自民党のように、選挙区の住民にたいして利益をばらまいて、集票しているわけではない。政策がきちんと政党のスタッフや支持者の協力によって作成され、また政党組織を通じて住民に知らされていくようにすれば、「政治で金がかかる」という部分は、ほとんど不要になるはずである。
 そして、実際にそのように活動している政党もある。

 第二は、しかし、もう少し深刻なことである。つまり、自民党の政治家たちが、選挙区にひとたちに、そうした利益分配や饗応めいたことをするのは、かならずしも当の政治家が望んでいることではないだろう。むしろ、選挙民の積極的な支持者たちが、そういうことを要求するのではないかと考えられる。つまり、饗応をうける側が、たかり体質をもっているということだ。
 考えてみると、なにか世話をしてもらっても、正当な対価を支払わない、つまり、たかりの姿勢は、日本の教育システムのなかで、醸成されているのではないかとも思うのである。その典型が、部活指導に対する生徒や親の気持ちである。ある有力な部活指導者が転勤して、学校をかえると、その部活の親たちが、大きな不満を表明することがめずらしくない。そして、指導を受ける権利が侵害されたかのような受け取りをすることがある。
 それは、部活の指導が当然あるべきもので、それは、教師の無償労働(いまはごくわずかな手当がでるようだが)であっても、そのことも当然視しているのである。しかし、私は、本来の学校教育の活動ではない部活指導は、教師にとっての義務的な仕事ではないし、また、「義務教育は無償である」という憲法の規定の範囲のことでもない。しかし、これまでずっと教師の無償労働によって成立してきた部活だから、それが当たり前のことだと感じてしまうのだろう。だが、私からみれば、それはやはりたかり体質といわざるをえない。学校教育の場面で、そうした一種のたかり体質が醸成されるのだから、社会にでて、そうした体質が他の場面ででてくることは、ある意味自然なことである。

 自民党パーティー券問題の解決には、こうした国民のなかの政治に対するたかりの構造もかえていく必要があると感じている。