原作の改変を考える22024年04月07日 21:01

 「セクシー田中さん」問題は、論議が活発に続いているとはいえないが、まだなされている。そのなかで、弁護士の人が書いた
『セクシー田中さん』問題で注目される「著作者人格権」 アメリカよりも強力に保護されていた原作者の権利とは?」という文章があった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fa3692f2afbb29b64125eaf08f4624445ffc0f86
 ここで注目したのは、著作者人格権は、欧米ではあまり法律としては厳格に規定されておらず、日本のほうが厳しいというのだ。しかし、だからといって、「同一性保持権」を欧米が無視しているとは思えない。これは、当たり前の常識として守られているので、特に法で規定することではないと思われているように思われる。パロディーなど問題にならないというが、(問題にあることもあるはずだが)パロディーは、二次的創作と考えられていて、別ものだという意識なのではないだろうかと思われるのである。

 さて、この間議論の中心のひとつになっていることに「原作(者)への尊重」がある。そこで、この点について具体的事例で考えてみたいと思った。私は、漫画も読まないし、テレビドラマもみないので、現在問題になっている漫画とドラマという枠ではないが、問題としてはどんなジャンルでも同じことだろうと思われる。
 ここでまずとりあげたいのは、トルストイ原作の『戦争と平和』の映画化である。『戦争と平和』は世界最高の文学作品という評価があるが、極めて長く、扱っている内容が社会全体にわたっており、原作に忠実に映画化することは、もちろん不可能である。9時間近い長さをもつソ連製の映画でも、省略されている重要エピソードはたくさんある。だから、そのことは問わない。問題は、些細なことだが、原作との異動である。
 『戦争と平和』の映画化は、著名なものとしてハリウッド映画とソ連の国をあげての制作映画がある。その他にイギリスのテレビドラマがあるが、これは、出だしからあまりに酷い「同一性保持権」の侵害としかいいようがない、筋が改変された展開があったので、最後まで見ることがなく、今回は省くことにする。

 二つの映画は、原作への尊敬は十分すぎるほどにあり、巨額の資金、圧倒的多数の人材投入等々、原作を尊重しつつ、原作が要求するスケールの大きさをできる限り追求しようとしている。作品には、アウステルリッツ、ボロジノという二つの大戦闘場面があるので、そこに投入されている兵士としてのエキストラだけでも、現在では絶対に実現できない程のものだ。CGなどなかったときの映画だから、すべて人が演じている。
 ハリウッド映画は、オードリ・ヘブバーンがヒロインを演じていることでも、大きな話題になっている作品である。そして、できるだけ原作に忠実に作ろうとしている姿勢がある。しかし、重要な(と私は思うのだが)点で、原作というよりも、歴史的事実を歪めている。それは、ロシア帝国のふたつの首都であるペテルブルグとモスクワを区別していないことである。物語は、最初にペテルブルグの社交界であるアンナ・パーブロブナのサロンの場面から始まる。そして、そこに来ていたアンドレイとピエールがアンドレイ宅にいって雑談をするが、そのあと、ピエールは、アンドレイとの約束を無視して、ふしだらな生活をしている若者サークルのところにいって、乱稚気騒ぎをし、更に警官を縛って運河に放り込むという乱暴を働いてしまう。そして、ピエールはペテルブルグを追放になって、モスクワにやってくる。モスクワには、ロストフ一家やピエールの父親がいる。つまり、舞台がペテルブルグからモスクワに異動してくるわけである。
 しかし、ハリウッド映画では、最初からこれらがモスクワで起きたことになっている。アメリカ人にとって、この二つを厳密に区別しなくても、特に気にしないかも知れないが、やはり、きちんとした教養をもっている人にとっては、またロシア人にとっては、相当腹立たしいことなのではなかろうか。
 日本にあてはめれば、江戸時代末期の動乱を描くさいに、京都と江戸を区別せず、同じ場所で起きたことのように描いていたとしたら、日本人としてはとうてい許容できないのではないだろうか。京都の鳥羽伏見の戦いに敗れて、徳川慶喜は江戸に船で帰り、静岡に謹慎する。そして、朝廷軍が江戸に攻めてきて、西郷と勝の対談となるわけだが、そうしたことすべてが江戸で行われているように描かれているようなものだ。江戸と京都は、社会的政治的意味あいがまったく違うように、ロシアのペテルブルグとモスクワも違うはずである。
 これは原作への尊敬だけではなく、歴史的事実への尊重という点でも疑問である。

 ソ連映画はどうだろうか。さすがに、国家的事業として制作された、世界的大小説の映画化なので、そうした変更はほとんどみられない。原作の重要な要素が欠けていることがいくつかあるが(たとえばフリーメイソン関連の話)それは仕方ないだろう。
 この映画の原作尊重姿勢は、俳優の選択に如実に表れている。主人公級だけではなく、隅々まで、原作から飛び出てきたような俳優が演じているのである。その典型が、アンドレイの妹のマリアであろう。原作ではマリアはとても醜い顔をしていることになっている。ところが、ハリウッド映画では、美人女優が演じている。しかし、ソ連映画では、ほんとうに醜いとしかいいようがない女優が演じており、動作なども原作を彷彿とさせる。ここまで原作に忠実にやるのか、と私は感心したものだ。
 ところが、これだけ原作に忠実な俳優選択をしているにもかかわらず、2名だけ原作イメージとかなり違う重要人物がいるのである。それは主人公の一人であるピエールと、その最初の結婚相手であるエレンである。ピエールは30前後で背が高く、進取の気風溢れる人物である。しかし、若者らしく自由奔放な面がある。しかし、ピエールを演じている俳優は50代で背は低く、太っている。まったく若者らしさがないのだ。そして、エレンだが、そこにいればすべての人が目を奪われるような絶世の美女ということになっているのだが、この女優は、どうみても中年の普通のご婦人である。思わず目を奪われそうにはない。明らかに、この二人は、原作のイメージとかなり違っている。しかも重要人物だ。ナターシャ役は、何千人もの候補者のなかから、オーディションで選ばれたのだから、ナターシャと結ばれるピエール役も、ふさわしい役者を選ぶべきだったのではないだろうかと思うのだが、こうなった理由は、おそらくはっきりしている。ピエール役をした人が、実はこの映画の監督であり、エレン役はその夫人なのである。意地悪い見方をすれば、監督という地位を利用して、重要な配役を自らとその夫人に割り振ったといえる。だから、この二人が出ている間は、どうも見ていて、入り込めないのである。厳密に解釈しても、この二人の役配は、同一性保持権を侵害しているとはいえないが、しかし、原作の尊重には反しているように思うのである。

 ニコライは、戦乱中の混乱で農奴たちに反乱されそうになったマリアを助け、その縁でマリアと結婚するのだが(そして、それは破綻した財産を立て直すためでもあった)、そうしたニコライとマリアの関係は、ほとんど省かれている。実は、この二人はトルストイ自身の父母がモデルだから、原作のなかでは極めて重要な筋なのだが。そして、ピエールとナターシャは、結婚後、幸福な生活をしている。物語はここで終わるが、ピエールがデカブリストの反乱に参加し、シベリア流刑になる。そして、ナターシャが夫の元にいき、刑期を終えたあとモスクワに戻ってくるという場面が始まるのが、未刊に終わった「デカブリスト」という小説の書き出しである。実際に夫婦でシベリアにいき、無事帰ったひとたちが何組かあったのだが、そうした人物を主人公に構想しながら、彼等の若きころに遡っていくうちに、「戦争と平和」という小説に結実したのである。「戦争と平和」の最後の場面は、ピエールがデカブリストの会合にでて、帰宅したあと、その話の内容をナターシャに語る場面で終わる。しかし、それが、デカブリストの会合であったことは示されない。こうしたエピローグまで含めれば、このソ連映画の印象もまたずいぶんと変るに違いない。

教員処遇改善50年ぶり?2024年04月15日 21:49

 ヤフーニュースに共同通信配信の記事「教員処遇改善、50年ふり増額へ 月給上乗せ10%以上案」という記事が掲載されている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/56ef3cf91cea5e893d9af2878be9e9eb439b69f7
 公立学校の教員に対しては、残業手当を支給しないかわりに、基本給4%の特別手当を支給し、その代わり、残業をさせる業務を限定するという形になっている。その4%を10%以上にあげるという案が検討されているということだ。
 私自身は、残業手当という方式も、また、この教職特別手当の方式にも賛成ではなく、別の方式を構想しているが、とりあえず、現行制度を前提に考えれば、あげることは反対ではない。近年の教職に対するあまりに不人気な状況が、文科省すら危機感をいだかせているということだろう。
 しかし、この手当値上げによって、教師の過重労働が改善されるとは思えない。過重労働は、労働量そのものを削減することによってしか改善されないからである。当たり前のことだが。逆に、特別手当をあげたのだから、決められた残業はもっとやれ、などということになりかねない。
 現在の教師の仕事のなかには、本来教師がやる必要のないこと、他の職種の教育労働者がやるべきことがたくさんあるということだ。たとえば、授業を妨害するような生徒がいることは事実であり、担当教師がある程度対応する必要があるとしても、ある程度以上の妨害行為に対しては、私は管理職が引き受けるべきであると思うが、ほとんどが担任教師に押しつけられている。また、保護者のクレーム対応なども、担任であつかえる程度を超えている場合がしばしばあるが、それも管理職が対応を引き受けるべきだろう。文科省は、これまで一貫して、校長の権限を強化する政策をとってきたが、校長が担うべき責任もきちんと行わせるような対応を十分にはとってこなかった。
 また、教委や文科省から、実施を依頼される各種調査なども、管理職がかなりの部分を引き受けるべきであるが、担任教師に押しつけられる傾向がある。
 こうしたことは、いくら手当があがっても、仕事の量が減るわけではなく、過重労働を改善しないことは、明らかであろう。

 では、どうしたら改善できるのか。やはり、授業関連以外の仕事をしたことに対しては、適切な報酬を与えることが必要である。方法としては、いわゆる残業手当と、職務手当というふたつのやり方がある。企業の一般的な形態としては、残業時間に基づく残業手当だろう。しかし、これは、労働者が基本的に勤務時間を基準にして給与が計算されるシステムだからであろう。もちろん、その前に職務内容を前提にした勤務時間だろうが、教職の場合には、通常の業務(授業)と、それ以外のさまざまな仕事の「職務内容」を同一の時間で計るのは無理がある。一時間の授業を行うのに、一時間を費やすだけではなく、その準備やその授業で課した宿題の処理など、一時間の授業といっても、実はかなりの労働がなされており、また、経験や能力などによっても、準備等にかなり差がでる。
 それに対して、校務分掌による仕事、たとえば委員会に出る、行事の指導をする、集団宿泊行事等々、その実質的な労働、準備等々がみな違うのである。
 そして、こうした教師の仕事を時間で割り切ることは、合理的でない。ベテラン教師と新人教師とでは、同じ授業をするための準備に、かなりの違いがあることは自明のことだろう。
 したがって、教師の中心的な仕事である「授業」については、基本的なノルマのコマ数を決め、それを基本給として計算し、それ以上の授業、そして、さまざまな校務分掌については、それぞれに手当の額を決めて、引き受けている校務分掌(仕事)の手当を受け取るという方式が、教師の仕事のスタイルにはもっとも適合しているように思うのである。
 教職には、企業労働者のような残業手当の方式が適切でないことは、たとえば、授業準備をどこで行うかという問題を考えてもわかる。
 授業準備は、学校で行えるのがよいだろうが、家庭で行う人も多数いるだろう。学校で行えば残業手当の対象となり、家庭でやれば、そうではないというのは、やはりおかしな気がする。いろいろなところでそうした不合理が生じるに違いない。

 そして、授業以外の校務分掌や仕事に手当を出す方式であれば、むやみやたらとそうした仕事を増やすことはできなくなる。したがって、過重労働の改善にも有益と考えられるのである。簡単にはいかないが、教職の特殊性と賃金形態については、もっと深く掘りさげて考えるべきなのである。

小池百合子氏の学歴詐称問題を考える2024年04月24日 21:01

 小池氏の学歴詐称問題は、ずっと以前から言われており、さまざまな専門家が、小池氏が詐称していることを論じているが、小池氏は、これまで、巧みに、というよりは図太くかわしてきた。特に大きく問題になったのは4年前の都知事選前に、『女帝』(石井妙子著)が現われたことである。これは大ベストセラーになり、さすがに小池氏も追い詰められたとみられていたが、在日エジプト大使館のホームページ(フェイスブック)に、カイロ大学の見解がアップされて、一挙に追求が下火になった。当時、このカイロ大学の声明を読んで、どうも変だと思った人は少なくないに違いない。私もその一人だ。『女帝』は、後で述べるように、この問題について決定的な情報を示していた。だからこそ、小池氏もかなり動揺したのだろう。側近の小島氏に「こまっている」として、相談をもちかけたわけである。そして、そこからの経緯について、『文藝春秋』によって暴露されたのが、現在の「盛り上がり」の原因となっている。そして、あのカイロ大学声明は、小池氏が、側近に作成させたのだ(つまり捏造)、というのが、小島氏の暴露の中心点である。たしかに、カイロ大学があのような声明文を、大使館のフェンスブックにのせるというのは不自然であるし、それよりも、後半にあった、小池氏が学歴詐称しているというような意見を公表することは、名誉毀損であるので、法的措置をとる、という文章に、大きな違和感をもったものだ。また、この文章によって、メディアの追求が下火になったわけである。この法的措置の脅し的文章がなければ、あそこまで一気に追求がなくなることはなかっただろう。今から考えれば、鎮静化させるためもっとも効果的に狙った文章を挿入したのは、それを望んだ人が作成したことを裏付けると解釈できるわけである。
 
 さて、今回考えたいのは、「証明」問題である。事情をよく知る人は、欧米や日本では、大学卒業について、当該大学に問い合わせれば正確な情報がえられるが、エジプトなどの途上国では、お金を出せば、卒業詔書などは、卒業実績がなくても、簡単に発行されるという。大学が正式にださなくても、そういう業者がいて、小池氏が示す卒業詔書や卒業証明書もそうした類のものだろうという。また、小池氏は父親からの縁もあるし、また小池氏が政治家になって築いてきたエジプトとの関係で、政府や大学が、たとえば外交ルートで問い合わせても、小池氏は卒業生であるという回答をするだろうという。そうだということを前提に考えてみよう。
 そうすれば、いかに小池氏がカイロ大学を卒業していなかったとしても、大学や政府に問い合わせたとしても、卒業したという「回答」が必ずかえってくるとすれば、「正式に問い合わせれば、簡単にわかるではないか」という詐称派の思いは実現しないわけである。
 私自身は、これまでのたくさんの関連文書を読んだが、小池氏がカイロ大学を卒業していないことは明らかだと思っている。しかし、それが大学当局によって、逆の証明がされてしまうことを考えれば、「卒業」ということの意味を確認することが必要なのだと思うのである。
 通常の日本人が「卒業」と考えるのは、その大学に通学して、授業をうけ、試験に合格して、必要な単位を修得して、卒業詔書をその時点で得ることだろう。いくら、卒業詔書があったとしても、(それもかなり内容的にあやしいものだそうだが)授業をうけ、試験に合格するほどの力を獲得していなければ、卒業したとは認められない。しかも、「首席」というのだから尚更である。
 しかし、当時の小池氏は、授業にはあまり出ていないようであるし、進級試験に落第したことは、同居人の記述によって疑いない。また、試験に合格するほどの実力であれば、アラビア語を駆使できるはずであるが、アラビア語に通じているひとたちの多くが、小池氏のアラビア語は幼児段階のレベルだという。また、卒論は書かなかったと小池氏は延べているが、当時も今も社会学科では、卒論は必修だという。
 そして、同居人氏のいうところでは、進級試験に落ちたその年に、日本に帰国し、再度エジプトにやってきたときに、日本では、カイロ大学を卒業した日本人の女性第一号だと公言し、それが新聞記事にもなっており、その記事を同居人に見せたという。進級すらできなかった人が、その年度内に卒業できるはずがないのである。
 このように考えれば、小池氏が、実際にカイロ大学を卒業していないし、また、ほとんど通学もしておらず、カイロ大学で身につけた学力はほぼないに等しいことは明らかであろう。(つづく)