文春の意図は芸能界・メディアへの問題提起ではないか2024年01月15日 20:21

 週刊文春による松本人志氏関連の記事とその反応をみてきたが、あまり触れられていないが、文春の意図は、松本氏の個人批判ではないと思うようになった。それは、第一弾と第二弾の記事の動きをみると感じられるのである。
 第一弾は、事実とすれば、松本氏にとっては犯罪と認定されるような行為が書かれていたが、しかし、それは時効になっていることだった。そして、第二弾は、むしろ吉本の複数の関係者が関わっていたことが記されていたが、しかし、そこでは女性とは合意があったかのように書かれ、違法性が問われるような事実は書かれていなかった。
 この流れをどう考えるかである。
 共通していることは、松本氏の刑事責任が問われるような内容は書かれていないが、社会的には極めて批判されるようなことである。そして、最初の記事のアピール度が高い。まず第一弾として、社会に対して強烈な問題提起をして、関心を高め、議論を巻き起こす。訴訟になったとしても、それは民事であって、文春としては十分に勝算がある。
 しかし、文春としては、松本、吉本側が反発をしてくることは予想していたろうから、第二弾を用意していた。第二弾では、特に第一弾の記事を全否定をした吉本に対して、吉本が企業としてやっているとはいえないが、松本氏の配下のようなひとたちが、やっていることとして、企業責任を問うような記事を載せたことで、文春の意図を示したといえる。
 松本氏の刑事責任を問うつもりはないが、松本氏がやっているようなことは、今後絶対に止めさせる、そして、吉本がそれを彼を庇い、企業としての改善意思を示さなければ、徹底的に「上納システム」を追求する、という姿勢である。

 さすがに、吉本やテレビは、そういう組織的な問題改善が迫られているのだ、とある程度察知して、対応を始めた。テレビ局としては、スポンサーの動向に促されたのだろうが、吉本としても、明らかに松本氏を切り捨てる方向になっている。通常、予想されるような訴訟は、芸能プロダクションと当人が共同しておこすものだと思われるが、吉本としては関わらず、松本氏が個人として訴訟を起こすことになるとされている。上納システムなどといういい方をさている以上、吉本が原告になれば、松本氏が関わっていない部分についても、事実を提示されてしまう危険があるだろうし、共同原告になれば、吉本として松本氏の行動を是認しているととらえられる可能性が高い。したがって、吉本は原告になることを避けることにしたのだろう。そして、ジャニーズ問題の顕在化以降、松本氏がやっていたようなことは、たとえ違法性がなくても、つまり女性たちが全員合意であったとしても、テレビ業界で活動する人物としては、ふさわしくないという、社会的雰囲気が形成されており、それに従わざるをえないという方向に、活動のありかたを改善せざるをえないと判断していると考えられる。そして、文春が求めているのは、その改善の方向なのではないかと思うのである。

 では、個人として松本氏が名誉毀損で提訴した場合、どうなるのだろう。多くの弁護士が語っているように、また以前に私が書いたように、松本氏が大筋で勝訴する可能性はほとんどないといえる。文春の記事の細目にかかわることで勝訴することがあっても、全体としては、記事の真実相当性が認められるだろう。
 そして、松本氏自身が証言にたたざるをえないことになる。これまでの松本氏の文春記事発行後の対応をみていると、いかにもまずい行動の連鎖になっている。文春は、完全否定しているのに、小沢氏のラインを引用して、飲み会自体はあったことを自分で認めてしまったり、勝手に、ワイドナショーに出演することを公表したり、挨拶程度だと弁明したり、そして、その後出演拒否されたりと、まさに醜態をさらけ出してしまっている。これは、冷静に、まわりの忠告をうけて、傷口を広げないような、冷静かつ的確な対応ができない個人的性格であることを示している。
 そういう人が、裁判の証言にたったとき、反対尋問を適切にかわせるとは思えないのである。被告側の弁護士は、当然十分な準備のもとに、松本氏の説明が崩壊するように、厳しく、かつ狡猾に質問をするはずである。そして、それに答えていくうちに、矛盾がでてくれば、徹底的に追求されるだろうし、また、思わず松本氏が興奮して、自分に不利なことをしゃべりだす可能性もある。この間の松本氏の対応をみていると、意外に小心者だという感じなのだ。そういう人は、「敵」の攻撃に弱いのが普通だ。
 ジャニーズ裁判でも、最終的にジャニーの回答が決め手となって、文春が勝訴したのである。
 もし、本当に訴訟を起こせば、松本氏にとってより傷口が深くなることが十分に予想される。

 もうひとつ蛇足になるかも知れないが、記しておきたいことがある。私は、芸人たちがでるテレビなどはまったくみないので、最近は、松本氏の出ている番組をみたことがない。ただ、大分前には、ダウンタウンとして出ているのを、たまたまみたことが何度かある。非常に嫌な気分になったことを覚えている。笑いに楽しさがないのだ。人を幸福にするような笑いではなく、人を馬鹿にするようなことで笑いをとる。よくいわれる「いじり」のようなもの、あるいは「嘲笑」としての笑いだ。今回の問題が起きたとき、思い出したのが、「葬式ごっこ」いじめ事件である。ドリフターズがやっていた夜の番組で、よく行われていた「葬式」を、いじめにとりいれて、その被害者が自殺した事件である。しかも、不本意ながらだが、担任を含めた4人の教師が、事実上そのいじめに加担していたことも、被害者にとって大きな痛手となったとされている。ドリフターズの責任が問われるわけではないが、全国で「いじめごっこ」がまねされていたとされ、自殺には至らなかったとしても、いじめとしてまねされていたことは十分に想像される。
 テレビのお笑い番組が、子どもたちに悪影響を与えた典型だと思われるが、グウンタウンの笑いも、そうした危惧をいだかせるものだったという印象を拭えないのである。ダウンタウンがデビュー直前に、横山やすしが、ダウンタウンの笑いは悪い笑いだ、と本人に言ったということが、話題になっているが、私も、ダウンタウンの笑いはそういうものだと感じる。いじめが暴力的なものから、いじり的なものに変化してきたが、暴力よりは頻度が多くなり、精神的ダメージを与えるようになっている。そうした土台形成に、ダウンタウンの芸が、まったく無関係とはいえないのではないかとも思うのである。
 松本氏の芸が、温和なものになって、尖った要素が薄くなり、つまらなくなった、そして、テレビ全体が面白くなくなったというような意見が散見されるが、人を嘲笑して笑いをとるような面白さは、公共放送としてのテレビでやるべきではない。そういう芸があってもいいとは思うが、それを好む者限定の場でやるべきであろう。
 文春の提起は、そうしたことなのではないかと思う。

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