自民党パーティー券問題から考える国民の体質2024年01月01日 20:25

 新年おめでとうございます。昨年、こちらのブログを復活させ、(それまでのブログがPHPのバージョン問題で、機能停止してしまったので)新たにこちらで、いろいろな見解を表明していきたいと思っています。

 昨年の暮れは、自民党パーティー券問題で揺れた。昨年は、大きなできごとが、世界的にも、また国内的にも頻発したが、おそらく今年は、昨年以上の激動の年になるような気がする。もしかしたら、大地震がくるかも知れない。(これは朝書いたが、夕方早速きた。)
 そういうなかで、非常に危ういと思っているのは、政治家を中心として、国民の間にモラル・ハザード現象が拡大しているように見えることである。自民党パーティー券問題は、その象徴的な事例といえる。安倍内閣は、権力維持のためには、国内組織を徹底的に、自分たちに都合のよいように改竄しようとしたが、それに伴って、政治家のモラルが著しく低下していったことは、否定のしようがない。自民党パーティー券問題で、とくに注意すべきは、キックバックの扱い方が違法であることを、十分に認識していたにもかかわらず、それを20年もの間継続してやっていたことである。違法性の認識がないなら、政治家としていかにもお粗末であるが、さすがにそれはない。悪いことをやっているという自覚があったことが、いろいろな点から示されている。
 
 この問題で、私が考えたいと思うことは2点ある。
 第一は、政治には金がかかるというが、それはそういう政治団体だからではないかということだ。キックバックでえた収入を何につかったかは、いろいろな発言があるようだが、だいたいは、自分の選挙区のひとたちに対するさまざまな対応の費用というのが、中心のようだ。ただ、現在は、正規のポスターとか、テレビでの政見放送等々、選挙に必要な必須のアイテムに関しては、公費で賄われることになっているから、選挙区対応といっても、そういう必須のもの以外の部分にあてているということになる。
 一月万冊に出演している今井一氏が、自民党の知り合いに質問したときの回答では、だいたいは飲み食いだということだったそうだ。といっても、自分のための飲み食いではなく、選挙区から人が陳情や挨拶にやってくると、多くの場合、食事でもてなすのだそうだ。陳情なのだから、そんな必要はないと思うが、そういう習慣になっていると、食事がでないと、そのことが不満の種となってしまうのだろう。しかし、私には、そんな行為は、不当な接待のように思われる。
 また、政治に金がかかるという説明に、秘書の問題があげられる。現在では、国会議員1人につき、3人までの公設秘書が保証されている。だが、とても3人では足りないから、私設の秘書を雇うことになる。その分は私費だから、なんとか、自分でその費用を捻出しなければならない、というわけである。
 これは一見もっともそうにみえる。しかし、問題は、そういう行為は「政治」だろうかということだ。政治とは、ある意味、社会的、公的な富の分配だから、政治ではないとはいえない。しかし、単純に、「近い」者に利益を配分し、本当に必要なひとたちには配分しないのであれば、それは、民主主義社会におけるあるべき政治とはいえないだろう。私設秘書が必要といっても、やっていることは、要するに選挙区の住民との接触を保つようなことがほとんどなのではないだろうか。冠婚葬祭などにでかけて挨拶するようなことだ。あるべき配分のありかたを研究・調査するためには、もっと違う活動が必要なはずだ。そして、それは個々人の政治家ではなく、政党としてのスタッフや支持者が知恵をだし、協力していくことで可能になるし、また、それが必要ではないだろうか。実際に、すべての政党が、自民党のように、選挙区の住民にたいして利益をばらまいて、集票しているわけではない。政策がきちんと政党のスタッフや支持者の協力によって作成され、また政党組織を通じて住民に知らされていくようにすれば、「政治で金がかかる」という部分は、ほとんど不要になるはずである。
 そして、実際にそのように活動している政党もある。

 第二は、しかし、もう少し深刻なことである。つまり、自民党の政治家たちが、選挙区にひとたちに、そうした利益分配や饗応めいたことをするのは、かならずしも当の政治家が望んでいることではないだろう。むしろ、選挙民の積極的な支持者たちが、そういうことを要求するのではないかと考えられる。つまり、饗応をうける側が、たかり体質をもっているということだ。
 考えてみると、なにか世話をしてもらっても、正当な対価を支払わない、つまり、たかりの姿勢は、日本の教育システムのなかで、醸成されているのではないかとも思うのである。その典型が、部活指導に対する生徒や親の気持ちである。ある有力な部活指導者が転勤して、学校をかえると、その部活の親たちが、大きな不満を表明することがめずらしくない。そして、指導を受ける権利が侵害されたかのような受け取りをすることがある。
 それは、部活の指導が当然あるべきもので、それは、教師の無償労働(いまはごくわずかな手当がでるようだが)であっても、そのことも当然視しているのである。しかし、私は、本来の学校教育の活動ではない部活指導は、教師にとっての義務的な仕事ではないし、また、「義務教育は無償である」という憲法の規定の範囲のことでもない。しかし、これまでずっと教師の無償労働によって成立してきた部活だから、それが当たり前のことだと感じてしまうのだろう。だが、私からみれば、それはやはりたかり体質といわざるをえない。学校教育の場面で、そうした一種のたかり体質が醸成されるのだから、社会にでて、そうした体質が他の場面ででてくることは、ある意味自然なことである。

 自民党パーティー券問題の解決には、こうした国民のなかの政治に対するたかりの構造もかえていく必要があると感じている。

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